唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

張建封伝

2019-03-06 09:47:31 | Weblog
淮西李希烈の淮南道侵攻を防ぎ、徐州節度使の創設をした官僚/將軍です。

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張建封伝
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建封、字は本立。
鄧州南陽人であるが兗州に客す、祖父は洪州南昌縣令仁範,父は玠。

若くして説客として江南を巡り、寶應中,草賊の鎭撫に協力。

大歷初,道州刺史裴虯が湖南觀察使韋之晉の幕僚に推薦し軍職である左清道兵曹を帯びる。
しかし棄官して滑亳節度使令狐彰に招かれるが応ぜず。
そして轉運使劉晏に仕え帯試大理評事勾當軍務、しかしまた辞した。

大暦十年.友人の馬燧が河陽三城鎮遏使になると判官.監察御史に招かれる。
汴州李靈曜の反に燧を助けて討伐に活躍。

十四年.燧が河東節度使に転じると、判官侍御史となる。

建中初,燧が宰相楊炎に推薦し度支郎中。
盧杞に楊炎派として排斥され岳州刺史。

淮西節度使李希烈と壽州刺史崔昭が親密なことを怖れた淮南節度使陳少游は交代を求め、
盧杞はこの危険な壽州刺史に建封を配した。

李希烈は反して汝州、鄭州、汴州を陥し東都に迫り、その諸将は周辺に侵攻した。
陳少游は怖れて希烈に内応し侵攻を免れようとした。

しかし興元元年.建封は従わず希烈の使者を斬って、少游の内通を報告した。

希烈は杜少誠を淮南節度使として壽州を攻撃させたが敗北し、南下したが伊慎に遮られた。

建封は兼御史中丞壽州團練使となった。

興元元年十二月.加兼御史大夫充濠壽廬三州都團練觀察使に昇進し、防備を固め、再度の希烈軍を撃退した。

当時、淄青李納より歸附した徐州の統治が困難であった。
徐州は貧寒の地であるが江淮からの貢納の経路にあたる要地であるため唐朝は重視していた。

貞元四年.宰相李泌は壽州防衛で功績をあげた建封を節度使として赴任させ、
財源として泗濠二州を附して強化し、徐州刺史兼御史大夫徐泗濠節度支度營田觀察使とした。

建封は寬厚であり、しかも綱紀を保ち人望が高く、淄青李納から貢納路を守った。
七年.檢校禮部尚書。
十二年.加檢校右僕射へ進んだ。

十三年冬.入朝し德宗皇帝より極めて優遇された。
その際に宦官の宮市の害[押し買い]をのぞくことを建言し聞き入れられた。

当時徐州は軍備が整い、兵士は敬愛し、名士食客が集い幕僚にも人が多かった。

十六年.疾となり、交代として韋夏卿が徐泗行軍司馬となったが赴任しない間に卒した。六十六歳,冊贈司徒。

麾下将兵は建封を慕い子の愔を擁立して夏卿を入れなかった。
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