唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

王式伝

2019-03-03 13:15:33 | Weblog
儒家の出身であるが、父の代より宦官勢力とつながっていた。
各地の動乱の制圧にあたり功績があった。

------------------------
王式伝
------------------------
式は財務系宰相の播の子。

蔭位で太子正字となり、太和二年.賢良方正科に合格し、監察御史、殿中侍御史に進む。

宰相の子にしては節儉であるが、王守澄等の宦官勢力につながっていた。,

弾劾されて地方官に出、江陵少尹。

大中中,晉州刺史となり治績を上げ盗賊を防いだ。

大中十二年.朝散大夫守康王傅分司襲魏郡開國公より安南都護兼御史中丞充安南本管經略招討處置等使に移り、築城して南詔蠻の侵攻に備えた。
忠武戍卒の反乱を抑え、欠損した貢納を再開し、
占城、真臘など外蕃と友好関係を結んだ。

十三年.賊仇甫が浙東で蜂起し、文官出身の觀察使鄭祗德は対処できなかった。

十四年.宰相夏侯孜の薦めにより浙東觀察使として鎮圧を命ぜられた式は大軍の出兵を請い、宦官達はその費用を惜しんだ。
式は「浙東が長く乱れていると、税源である浙西・淮南に影響し、唐朝が維持できなくなる。早急な鎮圧が必要だ。そのためには大軍がいる」と説き認められた。

式は淮南に移されていた吐蕃、回鶻の遺民を騎兵に使い、
八月.甫に猛攻を加えて鎮圧し、檢校右散騎常侍を加えられた。

咸通三年七月.王智興以来甘やかされていた徐州武寧軍の驕兵達が恒例のように軍乱を起こして節度使溫璋を逐った。

八月.式は檢校工部尚書徐州刺史御史大夫武寧軍節度徐泗濠觀察等使として、帰任する忠武・義成軍を伴って赴任し、その威力の下に驕兵数千人を誅殺して武寧軍節度を解体した。しかし残兵は各地に散って隠れ、龐勛の乱につながる。

三年河陽節度使に移り五年まで在任した。

その後、左金吾大將軍にいたるが記録はない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする