朱滔の後、劉怦-濟-總 と三代続いた幽州軍閥。父兄を殺して継承したが懊悩し、ひたすら仏教に帰依して、唐朝に帰属した。劉氏は唐朝の將軍として継続した。
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劉總伝
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總は幽州節度使濟の第二子。
性は陰険で策謀を好む、瀛州刺史.行營都兵馬使として饒陽に屯していた。
元和五年は唐朝に協力して成德王承宗を伐っていたがはかばかしい成果はなかった。
七月.總は留守を預かる兄緄が自立して唐朝に承認を求めたと虚報を流し、濟に殺させた。
そして軍を混乱させ、懊悩している濟を毒殺して自立した。
九月.唐朝は実情を知らず、成德討伐の継続を期待して總の継承を認めた。起復受幽州長史充幽州盧龍軍節度使。
封楚國公
檢校司空を加える。
十一年.承宗が再び反し、總は武強を制圧し、樂壽を包囲するがそこで逗留し軍費を稼いだ。
十一/十月.敵を増やしたくない憲宗皇帝はやむをえず同平章事として優遇した。
淮西・淄青が平定され、成德が帰服すると、總は独り幽州のみが孤立した状況と、自分が父兄を殺した罪状に懊悩し、僧侶數百人に日夜祈禳させていた。
また不眠に悩みうなされることも多く、僧服を着てひたすら仏に頼った。
長慶元年二月.配下の譚忠復が幽州節度を唐朝に返すことを勧め。總もただ現状を逃れたい一心から、幽州を三分割して唐朝に帰属させることを請願して受入れられた。
これにより河北三鎭すべてが唐朝に帰属し全国統一が完成した。
しかし当時の穆宗皇帝は無能であり、宰相崔植、杜元穎は戦略のない財務官僚と文官であったため、ただ戦費の節減をねらうだけであった。
幽州の分割も瀛莫二州を分離するだけで、巨大な戦力を幽州に残し、文吏である元宰相張弘靖を赴任させ、しかも將士を慰撫する資金をけちった。
三月.總は檢校司徒兼侍中天平節度使に転じさせ、僧籍を与えて賜號大覺とした。
しかし總はすでに出家して鎭を棄てて脱出し定州/易州界で暴卒した。贈太尉。
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劉總伝
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總は幽州節度使濟の第二子。
性は陰険で策謀を好む、瀛州刺史.行營都兵馬使として饒陽に屯していた。
元和五年は唐朝に協力して成德王承宗を伐っていたがはかばかしい成果はなかった。
七月.總は留守を預かる兄緄が自立して唐朝に承認を求めたと虚報を流し、濟に殺させた。
そして軍を混乱させ、懊悩している濟を毒殺して自立した。
九月.唐朝は実情を知らず、成德討伐の継続を期待して總の継承を認めた。起復受幽州長史充幽州盧龍軍節度使。
封楚國公
檢校司空を加える。
十一年.承宗が再び反し、總は武強を制圧し、樂壽を包囲するがそこで逗留し軍費を稼いだ。
十一/十月.敵を増やしたくない憲宗皇帝はやむをえず同平章事として優遇した。
淮西・淄青が平定され、成德が帰服すると、總は独り幽州のみが孤立した状況と、自分が父兄を殺した罪状に懊悩し、僧侶數百人に日夜祈禳させていた。
また不眠に悩みうなされることも多く、僧服を着てひたすら仏に頼った。
長慶元年二月.配下の譚忠復が幽州節度を唐朝に返すことを勧め。總もただ現状を逃れたい一心から、幽州を三分割して唐朝に帰属させることを請願して受入れられた。
これにより河北三鎭すべてが唐朝に帰属し全国統一が完成した。
しかし当時の穆宗皇帝は無能であり、宰相崔植、杜元穎は戦略のない財務官僚と文官であったため、ただ戦費の節減をねらうだけであった。
幽州の分割も瀛莫二州を分離するだけで、巨大な戦力を幽州に残し、文吏である元宰相張弘靖を赴任させ、しかも將士を慰撫する資金をけちった。
三月.總は檢校司徒兼侍中天平節度使に転じさせ、僧籍を与えて賜號大覺とした。
しかし總はすでに出家して鎭を棄てて脱出し定州/易州界で暴卒した。贈太尉。