唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

張獻誠伝

2019-03-27 11:00:17 | Weblog
史朝義から比較的早期に帰服し、割拠せず要地を返還した。

----------------------------
張獻誠伝
----------------------------
獻誠は陝州平陸人。

奚・契丹征討に大功のあった幽州節度使守珪の子。

父が貶されて以降、幽州節度に仕えて将[左淸道卒.檀州刺史]となる。
節度使安禄山にとっては恩人の子にあたるので厚遇された。

天寶十四年,安祿山が反すると麾下の獻誠も従った。
十一月.攝博陵太守。

その後史思明にも仕えて乾元二年.汴州[僞兵部侍郎.汴州節度使]を守った。

寶應元年十月.史朝義が東都で敗北し汴州に来るが、獻誠は入れず、州をもって唐朝についた。
唐朝は喜び特進試太常卿.汴州刺史防禦等使.南陽郡公/汴州節度使

その後、左威衛大将軍.寶應軍左廂兵馬使.鄧国公を帯びた。

來朝して、漕運の要地である汴州を唐朝に返し、開府儀同三司梁州刺史充山南西道觀察使に移された。

廣德二年十月/十一月.京師の南の山岳に據していた南山賊帥高玉を捕らえた。

永泰元年正月.檢校工部尚書。

永泰二年正月/二月.劍南東川節度觀察使を兼ねて封鄧國公。
三月.西川崔旰[寧]が節度使郭英乂を殺し反したのでこれを伐ったが、梓州で大敗した。

大暦三年四月.獻誠は疾を以って、堂弟試太常卿兼右羽林將軍獻恭に山西節度使を譲り引退した。
檢校戶部尚書知省事。

八月/九月,疾をもって致仕を請願、まもなく卒した。年四十六歳。

寬裕で機略があったとされる。成り行きから安史賊に属したが、唐朝への叛意は少なかったようだ。