文官であるが兵事にも通じ、宦官と結託して高官となった。
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裴均伝
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均は字君齊。宰相光庭の曾孫、度支郎中倩の子。
明經に合格。
諸暨尉から各鎭の幕僚を経て才覚を認められる。
壽州刺史張建封のもとで團練判官、淮西李希烈の侵攻を防ぐに功績があり、上柱國,襲正平縣男。
累膳部郎中
荊南節度行軍司馬。
貞元十九年五月.前任の節度使裴冑の死後、江陵尹.御史大夫.節度使に昇進。
西川劉闢の叛に黔中・荊南を堅守して、檢校吏部尚書を加。
宦官竇文場に通じて德宗皇帝に気に入られる。
宰相に擬せられるが諌官の阻止に逢い、元和三年四月.尚書右/左僕射判度支。
倨傲のため官界の評判は極めて悪かった。
すぐ九月.檢校左僕射同平章事山南東道節度使に出される。封郇國公。
四年.銀器一千五百兩を進奉して諌官が弾劾。
宦官等權幸と通じ、専権収斂に励んだ。
六年五月.卒,年六十二,贈司空。
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裴均伝
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均は字君齊。宰相光庭の曾孫、度支郎中倩の子。
明經に合格。
諸暨尉から各鎭の幕僚を経て才覚を認められる。
壽州刺史張建封のもとで團練判官、淮西李希烈の侵攻を防ぐに功績があり、上柱國,襲正平縣男。
累膳部郎中
荊南節度行軍司馬。
貞元十九年五月.前任の節度使裴冑の死後、江陵尹.御史大夫.節度使に昇進。
西川劉闢の叛に黔中・荊南を堅守して、檢校吏部尚書を加。
宦官竇文場に通じて德宗皇帝に気に入られる。
宰相に擬せられるが諌官の阻止に逢い、元和三年四月.尚書右/左僕射判度支。
倨傲のため官界の評判は極めて悪かった。
すぐ九月.檢校左僕射同平章事山南東道節度使に出される。封郇國公。
四年.銀器一千五百兩を進奉して諌官が弾劾。
宦官等權幸と通じ、専権収斂に励んだ。
六年五月.卒,年六十二,贈司空。