唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

朱滔伝

2019-03-17 09:32:49 | Weblog
兄に従い唐朝方であったが、華北統一の野望を抱き反したが挫折した。

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朱滔伝
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滔は泚の弟。

大暦三年六月.平州刺史朱希彩が節度使李懷仙を殺して自立したとき、泚とともに活躍、
同姓ともあって信任されて牙軍を統率する。

七年七月.希彩が専横により殺された時、兄泚を擁立して節度使にならせた。

泚は親唐朝政策をとり、対吐蕃防衛[防秋という]に始めて協力し、滔に兵五千を付けて入朝させた、時に二十八歳であった。

九年.泚は入朝し自ら防秋にあたることを乞うた。
代宗皇帝は喜び滔を試殿中監,權知幽州盧龍節度留後兼御史大夫として留守を守らせた。

十年.田承嗣が反し,滔は河東薛兼訓,淄青正己、淮西李忠臣、成德李寶臣とともに承嗣を伐った。

建中二年.成德李寶臣が卒し、子惟岳が自立すると、滔は成德軍節度張孝忠を援助して、惟岳を束鹿に破り深州を囲んだ。

三年二月.惟岳が誅され、滔は功により檢校司徒幽州盧龍軍節度使に正任された。

そして遠隔地の德棣二州を与えられたが、深州を求めていた滔は極めて不満であった。通義郡王,實戶三百。

同じく待遇に不満の恒冀觀察使王武俊が、反していた魏博田悦につくと、
四月.滔も同調し反した。

滔は京師にいる兄泚に密使を送った。泚は同ぜず、德宗皇帝も慰撫して鳳翔節度使を解任し、幽州節度使に復すするだけで収めた。

六月.滔は窮状に陥っていた悅を支援し。武俊・悅とともに連愜山に、唐朝軍を大破した。

十月.滔は冀王を僭稱し百官を置き、李納、田悅、王武俊とともに王となり、淮西李希烈と連合した。

四年五月.神策李晟軍を清苑に破った。

十一月.泚が京師で反して即位し、德宗皇帝は奉天に逃れると、滔は皇太弟と称して勢威を高めた。

十二月.滔は回紇を含め全軍をあげて南下し、淮西李希烈と呼応して東都を狙った。

ところが、興元元年正月.德宗皇帝が自省し、皇帝と称した泚を除く諸鎭に大赦令を出すと、
疲弊した魏博田悅、滔の併呑を懼れる王武俊、自立を確保した李納は王位を捨てて歸順した。
滔は悦の背信を怒って貝州を囲み、三月魏州に迫った。

五月.来援した王武俊は唐朝の昭義李抱真、河東馬燧と共に涇城に滔を大破し潰滅させた。
滔は敗走して幽州に戻った。

六月.泚は誅され。滔は幽州節度使を兼任した武俊に攻撃され、謝罪する立場になった。

九月.唐朝にはこれを伐つ余力はなく、魏博・成德共に併立を望んだため、赦された。

貞元元年六月.失意のうちに卒した。時年四十二,贈司徒。
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