河北三鎭のひとつ成德、自立継続のため奮闘するが、最後は憲宗皇帝の強い意志により
屈服するしかなかったわげです。終末時の賢明な判断で、淄青李氏と違って王氏は存続
しますが。
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王承宗伝
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成德節度使武俊の孫。
武俊を継承した士真の長子。
自立して入朝はしなかったが、武俊・士真とも魏博節度とは違い唐朝に融和的であった。
承宗は継承者として副大使とされ、鎮州大都督府右司馬、知州事、御史大夫,充都知兵馬使、副大使にいたった。
元和四年三月.士真が卒すると、牙軍は承宗を擁立した。
しかし憲宗皇帝は継承をなかなか認めなかったので、承宗は怖れて所領鎭冀深趙徳棣六州のうち徳棣二州を返上することを申し出た。
九月.そこで起復雲麾將軍左金吾衛大將軍同正檢校工部尚書鎮州大都督府長史御史大夫成德軍節度鎮冀深趙等州觀察等使として四州を与えられ、士眞の女婿で故昭義節度使薛嵩の子德州刺史昌朝を檢校右散騎常侍德州刺史御史大夫充保信軍節度德棣觀察等使とする妥協策がとられた。ところが承宗は二州を渡さず、昌朝を捕らえて監禁する行為にでた。士眞之子士則・士平等は唐朝に奔った。当然配慮を無視された憲宗皇帝は怒ったが,承宗は従わず征討されることになった。
十月.憲宗皇帝は昭義節度使盧従史の策に乗り、寵臣で宦官の左神策護軍中尉吐突承璀を左右神策河中河陽浙西宣歙等道赴鎮州行營兵馬招討處置等使として伐たせた。
しかし承璀は軍才なく、唐朝軍の士気は低く、幽州や義武等唐朝方の方鎭も積極的には協力せず敗戦が続いた。結局従史に責任を押しつけて罷任するということで撤退することになった。
五年七月承宗は六州とも継承することに成功した。当然唐朝に従う意志はなかった。
十年.唐朝が自立した淮西吳元濟を伐とうとすると、承宗は淄青節度使李師道とともに反対し、四月.河陰倉の兵糧を焼き。
六月.京師で強硬派宰相の武元衡を暗殺するという事件[首謀者は李師道だったが]を起こし牽制した。
憲宗皇帝はかえって激怒して、同じく強硬派の裴度を宰相に登用し、承宗と元濟を討伐することにした。
承宗、師道等は各地で乱を起こして攪乱したが。憲宗の方針は揺るがなかった。
しかし淮西征討と並行した魏博田弘正等六節度の成德征討は、昭義節度使郗士美以外は成果をあげず、義武渾鎬や滄景程權は敗北し、軍費ばかりがかかる状況で唐朝の財政破綻が心配される状況になり、
十二年五月河北行営を廃して淮西征討に専念することになった。
十月.淮西吳元濟が誅されると、さすがに承宗は懼れて、唐朝方の魏博田弘正に依頼し唐朝への帰服を願い出た。憲宗皇帝は首魁である承宗を赦したくはなかったが、弘正の顔をたてる必要と、淄青李師道征討への必要性から、徳棣二州の献納と、子知感等を人質に送る条件を出した。
十三年三月.承宗は併せて管內租稅を出し、官吏の任免を唐朝に任せる等の恭順案をだして赦された。銀青光祿大夫檢校吏部尚書鎮州大都督府長史御史大夫充成德軍節度鎮冀深趙觀察等使。徳棣二州は華州刺史鄭權が德州刺史充橫海軍節度德棣滄景觀察等使となった。
十四年.金紫光祿大夫檢校尚書左僕射を加えられた。
出遅れた淄青李師道は抗戦して誅され、懼れた承宗は徹底して唐朝の方針に従った。
十五年十一月に卒した。贈侍中。
子の知感、知信は京師で人質であったので継げず、弟承元が擁立されたが従わず、成德節度使は唐朝に回収され、魏博節度使田弘正が転任することになった。
屈服するしかなかったわげです。終末時の賢明な判断で、淄青李氏と違って王氏は存続
しますが。
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王承宗伝
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成德節度使武俊の孫。
武俊を継承した士真の長子。
自立して入朝はしなかったが、武俊・士真とも魏博節度とは違い唐朝に融和的であった。
承宗は継承者として副大使とされ、鎮州大都督府右司馬、知州事、御史大夫,充都知兵馬使、副大使にいたった。
元和四年三月.士真が卒すると、牙軍は承宗を擁立した。
しかし憲宗皇帝は継承をなかなか認めなかったので、承宗は怖れて所領鎭冀深趙徳棣六州のうち徳棣二州を返上することを申し出た。
九月.そこで起復雲麾將軍左金吾衛大將軍同正檢校工部尚書鎮州大都督府長史御史大夫成德軍節度鎮冀深趙等州觀察等使として四州を与えられ、士眞の女婿で故昭義節度使薛嵩の子德州刺史昌朝を檢校右散騎常侍德州刺史御史大夫充保信軍節度德棣觀察等使とする妥協策がとられた。ところが承宗は二州を渡さず、昌朝を捕らえて監禁する行為にでた。士眞之子士則・士平等は唐朝に奔った。当然配慮を無視された憲宗皇帝は怒ったが,承宗は従わず征討されることになった。
十月.憲宗皇帝は昭義節度使盧従史の策に乗り、寵臣で宦官の左神策護軍中尉吐突承璀を左右神策河中河陽浙西宣歙等道赴鎮州行營兵馬招討處置等使として伐たせた。
しかし承璀は軍才なく、唐朝軍の士気は低く、幽州や義武等唐朝方の方鎭も積極的には協力せず敗戦が続いた。結局従史に責任を押しつけて罷任するということで撤退することになった。
五年七月承宗は六州とも継承することに成功した。当然唐朝に従う意志はなかった。
十年.唐朝が自立した淮西吳元濟を伐とうとすると、承宗は淄青節度使李師道とともに反対し、四月.河陰倉の兵糧を焼き。
六月.京師で強硬派宰相の武元衡を暗殺するという事件[首謀者は李師道だったが]を起こし牽制した。
憲宗皇帝はかえって激怒して、同じく強硬派の裴度を宰相に登用し、承宗と元濟を討伐することにした。
承宗、師道等は各地で乱を起こして攪乱したが。憲宗の方針は揺るがなかった。
しかし淮西征討と並行した魏博田弘正等六節度の成德征討は、昭義節度使郗士美以外は成果をあげず、義武渾鎬や滄景程權は敗北し、軍費ばかりがかかる状況で唐朝の財政破綻が心配される状況になり、
十二年五月河北行営を廃して淮西征討に専念することになった。
十月.淮西吳元濟が誅されると、さすがに承宗は懼れて、唐朝方の魏博田弘正に依頼し唐朝への帰服を願い出た。憲宗皇帝は首魁である承宗を赦したくはなかったが、弘正の顔をたてる必要と、淄青李師道征討への必要性から、徳棣二州の献納と、子知感等を人質に送る条件を出した。
十三年三月.承宗は併せて管內租稅を出し、官吏の任免を唐朝に任せる等の恭順案をだして赦された。銀青光祿大夫檢校吏部尚書鎮州大都督府長史御史大夫充成德軍節度鎮冀深趙觀察等使。徳棣二州は華州刺史鄭權が德州刺史充橫海軍節度德棣滄景觀察等使となった。
十四年.金紫光祿大夫檢校尚書左僕射を加えられた。
出遅れた淄青李師道は抗戦して誅され、懼れた承宗は徹底して唐朝の方針に従った。
十五年十一月に卒した。贈侍中。
子の知感、知信は京師で人質であったので継げず、弟承元が擁立されたが従わず、成德節度使は唐朝に回収され、魏博節度使田弘正が転任することになった。