唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

崔光遠伝

2019-03-19 09:05:31 | Weblog
楊國忠の残党であり、軍才はないがうまく立ち回って出世、しかし最後は悪かった。

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崔光遠伝
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光遠は滑州靈昌人。本は博陵の豪族。

祖敬嗣は賭博飲酒を好み、則天初に房州刺史として、中宗が廬陵王に左遷されている時に厚遇し感謝されたが、同名他人に間違われ出世しなかった。

死後に誤りに気づいた中宗は、子の汪に五品、洛州司功を与えたが深酒が元で早卒した。

光遠は汪の子、學術はないが任侠の気があり長身で風采が良かった。
州縣の吏を経て、開元末には蜀州唐安令となり、楊國忠と交遊した。
國忠とともに累遷して左贊善大夫となった。

天寶十一載.國忠派の京兆尹鮮于仲通が推薦し長安令となった。

十四載.京兆少尹に昇進。

吐蕃に吊祭使として派遣された。

十五載五月.派遣から帰還してすぐ、安禄山軍が潼關を突破し、玄宗皇帝は蜀へ逃亡することになった。
國忠は光遠を京兆尹兼御史中丞充西京留守采訪使に押しつけ逃亡した。
その後京師では掠奪放火が横行し、光遠は宦官邊令誠となんとかこれを鎮めた。

安禄山に歸附して赦されてその京兆尹に任命された。

八月.蕃族の同羅が祿山に背いて逃亡し京師は大混乱した。
それに乗じて光遠は長安令蘇震とともに肅宗皇帝のいる靈武に奔った。
肅宗は喜んで御史大夫兼京兆尹.持節京畿采訪計會招召宣慰處置等使として僑治させた。

至德二年閏八月.駱谷に安禄山軍を破った。

十二月.還京に際して功により特進行禮部尚書.封鄴國公食實封三百戶。

乾元元年.兼御史大夫。

五月.河南節度使。

八月.張鎬に代わって汴州刺史兼本州防御使。

十二月.歸降した蕭華に代わって魏州刺史充魏州節度使。
しかし史思明が反して来寇し、魏州を守れず敗走。
唐朝軍総崩れなので処罰されず太子少保になる。

二年八月.襄州將士康楚元、張嘉延が反し荊、襄、澧、朗等州を陥した。
光遠太子少保兼御史大夫持節荊襄招討充山南東道處置兵馬都使としてこれを伐つことになるが、商州刺史韋倫が先に平定した。

三年.鳳翔尹充本府及秦隴觀察使。
賊郭愔等為土賊ほ招撫するが、光遠は博打にかまけて真面目に統治をしなかった。

上元元年.愔等は羌、渾、黨項と通じて韋倫を破り秦隴を荒らした。
六月.光遠はこれを普潤に破った。

二年四月.劍南東川節度兵馬使段子璋が反して節度使李奐を逐い、光遠は兼成都尹充劍南節度營田觀察處置使兼御史大夫としてこれを伐った。

討伐は成功したが、將士は掠奪を重ね、婦女を害するなど亂殺數千人に及んだ。
さすがの肅宗皇帝も罪に問い、光遠は懼れて疾になり,上元二年十月.卒した。