恩人來瑱を殺され、唐朝を信用できなかった將軍。まああの皇帝達では信用しないほうが
正しいが。
----------------------------
梁崇義伝
----------------------------
崇義は長安の人。
市場で働き大力で有名であった。
羽林軍に入り、來?に従って山東右兵馬使となり、寡黙勇断で重んぜられていた。
瑱は入朝し南陽を守備していたが、
寶應二年正月.?が宦官の讒言により殺されると憤激し、兵を率いて襄州に入った。
同列の將李昭、薛南陽と争ったが結局崇義が帥となり、寶應二年三月.他將を殺して自立した。
三月.唐朝はこれを伐つ力なく、襄州刺史山南東道節度留後に任じた。
瑱の恩を感じて、常にその像を政堂に置いて拝していた。
節度使、御史中丞、御史大夫、檢校尚書を歴任。
魏博田承嗣、淄青李正己、昭義薛嵩、成德李寶臣と結び、山東六州に兵二萬を備えて唐朝に対抗した。
しかし兵力が小さいを怖れ法令には従い、一応の礼節は取っていた。
ただ入朝の勧めには來瑱が陥れられたことにより不信を示し応じなかった。
大暦九年.澧朗鎮遏使楊猷が復・郢州に侵攻し、それに備えた。
建中元年/二年.淮西節度使李希烈は崇義を伐つことを請い、怖れた崇義謝罪入朝を求めた。
しかし使者李舟に不信を感じて態度を翻した。
四月.德宗皇帝はさらに慰撫して使相に任じ鐵券を与えたが、これは瑱が殺される前も同様であり、崇義を怖れさせるばかりであった。
また麾下の將藺杲が鄧州刺史に任ぜられ、唐朝が分割統治を図ると信じて反した。
六月.唐朝は淮西李希烈を諸軍都統として討伐することになった。
八月.崇義は先制して江陵を攻めたが敗走。
希烈は崇義將?暉、杜少誠を蠻水に大破して降し襄州に突入した。
八月.軍が潰滅した崇義は自殺し、希烈は数千人を誅殺した。
正しいが。
----------------------------
梁崇義伝
----------------------------
崇義は長安の人。
市場で働き大力で有名であった。
羽林軍に入り、來?に従って山東右兵馬使となり、寡黙勇断で重んぜられていた。
瑱は入朝し南陽を守備していたが、
寶應二年正月.?が宦官の讒言により殺されると憤激し、兵を率いて襄州に入った。
同列の將李昭、薛南陽と争ったが結局崇義が帥となり、寶應二年三月.他將を殺して自立した。
三月.唐朝はこれを伐つ力なく、襄州刺史山南東道節度留後に任じた。
瑱の恩を感じて、常にその像を政堂に置いて拝していた。
節度使、御史中丞、御史大夫、檢校尚書を歴任。
魏博田承嗣、淄青李正己、昭義薛嵩、成德李寶臣と結び、山東六州に兵二萬を備えて唐朝に対抗した。
しかし兵力が小さいを怖れ法令には従い、一応の礼節は取っていた。
ただ入朝の勧めには來瑱が陥れられたことにより不信を示し応じなかった。
大暦九年.澧朗鎮遏使楊猷が復・郢州に侵攻し、それに備えた。
建中元年/二年.淮西節度使李希烈は崇義を伐つことを請い、怖れた崇義謝罪入朝を求めた。
しかし使者李舟に不信を感じて態度を翻した。
四月.德宗皇帝はさらに慰撫して使相に任じ鐵券を与えたが、これは瑱が殺される前も同様であり、崇義を怖れさせるばかりであった。
また麾下の將藺杲が鄧州刺史に任ぜられ、唐朝が分割統治を図ると信じて反した。
六月.唐朝は淮西李希烈を諸軍都統として討伐することになった。
八月.崇義は先制して江陵を攻めたが敗走。
希烈は崇義將?暉、杜少誠を蠻水に大破して降し襄州に突入した。
八月.軍が潰滅した崇義は自殺し、希烈は数千人を誅殺した。