唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

韓全義伝

2019-03-07 09:54:43 | Weblog
ただ宦官との癒着により出世した無能な將軍。德宗皇帝の無気力・無能さによる人事。

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韓全義伝
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系統は不明。

兵卒として神策軍に入り、宦官である中尉竇文場に仕えて寵遇される。

貞元二年.鹽州に吐蕃と戦う。陳許軍を率いていた。

四年.神策兵を率いて長武城に檢校工部尚書充長武城及諸軍行營節度使として駐屯した。

十三/十四年.韓潭に代わって夏綏銀宥節度となった。
全義は貪欲で上に諂い下に厳しく兵の人望がなかった。
ためにもともと惰弱な神策兵は危険で暑熱な辺境夏州へ赴くことを嫌って反乱し、
一時逃亡したが都虞候高崇文がこれを治め赴任することができた。

十四年十月吐蕃を鹽州西北に破った。

十四年.淮西吳少誠が反し、十七鎮の兵がこれを伐ったが、統帥が無くてんでばらばらに
進軍するだけで、軽く撃破されると退却を重ねるだけであった。

十五年冬.唐朝軍は小殷河で大敗。

十六年.德宗皇帝は竇文場の推薦により韓全義を蔡州四面行營招討使,陳許節度使上官兌を副とし、
諸鎮之兵を統轄させることにした。

全義は宦官と贈賄結託に長けただけの無能な將軍であるため。
監軍の宦官達の意見により右往左往するだけであった。
少誠は全義の無能を知って攻勢にでた。
五月.,南廣利城に大敗した。
七月.五樓でさらに敗北し陳州へ逃げ、唐朝派遣軍は崩壊した。

少誠は全義を舐めきって、既得権の承認を求めた。
宦官に騙されきっていた德宗皇帝は、これを歸順したとして赦した。

十七年.全義は撤退、しかしさすがに入朝する事は恥じて足疾と称して夏州に帰った。
宦官竇文場等のごまかしにより德宗はこれを功があるとした。

当然官僚達は指弾したが、德宗には通じなかった。

二十一年十一月.憲宗皇帝が即位すると全義は懼れて入朝し、贈賄したが通じず、罷免されて太子太保致仕となった。

元和元年七月.卒した。

甥の楊惠琳は德宗時代の姑息な人事が継続すると思って自立したが、討伐を受けて殺された。
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