唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

淮南節度使 その6

2012-01-16 19:19:12 | Weblog
・楊行密の安定した治政により淮南の経済的な状況は急速に回復した。
・東に両浙の錢鏐、西に武昌杜洪と争いながら行密は勢力をじわじわと拡大した。
・乾寧四年[897年]二月朱全忠に逐われた泰寧朱瑾が河東李克用の騎兵軍[李承嗣]と
共に亡命してきた。これにより弱体であった淮南の騎兵軍は飛躍的に強化された。
・十月全忠將龐師古等は大軍をもって南下したが朱瑾等の活躍により潰滅し、淮南攻略は挫折した。
・天復三年[903年]離反した配下の宣歙田羣を伐って滅ぼした。
・天祐二年[905年]二月武昌杜洪を滅ぼして鄂岳を併せたが、十一月行密は卒した。子渥が嗣い
だが配下諸将を把握する能力はなかった。
・天祐三年[906年]江西鍾時を滅ぼして洪州を併せた。しかし驍將王茂章が宣歙をもって錢鏐に附いた。
・天祐四年[907年]渥は將徐溫や張等に殺され、弟隆演が傀儡として擁立された。
その後徐溫が「吳国」を継承していくことになった。

淮南節度使 その5

2012-01-15 21:11:46 | Weblog
・最初は黃巢討伐を期待されていた高駢であるが、中和元年[881年]に都統に就任したにもかかわらずい
っこうに働かず、急速に老耄していった。
・中和二年[882年]唐朝はあきらめて王鐸に都統を変えて京師回復に動き出した。
・光啓二年[886年]駢は邠寧朱玫が擁立した偽帝の官爵を受けた。
・光啓三年[887年]將畢師鐸[元黃巢麾下]が反して駢を幽閉し、宣歙秦彦[これも元黃巢麾下]
を招いた。それに対して諸軍が反抗し、特に盧州を占拠する楊行密が楊州に攻撃を加え彦等を逐った。
・しかし文徳元年[888年]淮西秦宗權が孫儒[これも元黃巢麾下]を派遣し、大軍をもって来寇し
たため行密は盧州に奔った。
・孫儒達はただ掠奪するだけの勢力であったので、楊州は荒廃し混乱が続いた。
・龍紀元年[889年]行密は宣歙を制圧し、再び楊州に迫った。
・景福元年[892年]孫儒は荒廃した楊州を棄てて逃げたが、行密に捕らえられ殺された。
・行密は節度使として自立し、淮南の復興に努めた。

淮南節度使 その4

2012-01-15 12:11:20 | Weblog
・淮南はその後も宰相の回遊地となり、李紳-杜悰-李譲夷-崔鄲-李珏-崔鉉-令狐綯と続いた。
・大中9年[855年]杜悰は宣宗皇帝に荒政を指摘され左遷された。善良な宣宗皇帝は地方官人事に
配慮していたがその施策は下部には徹底しておらず、大中12年[858年]以降南方に軍乱が頻発した。
・大中12年の宣歙將康全泰が乱し観察使鄭薫を逐った。節度使崔鉉はその鎮定にあたった。
この時、江西・容管・湖南にもあいついで軍乱がおこったが、南方の諸鎭の牙軍は弱小な為大事にはいたらなかった。
・咸通9年[868年]令狐綯は徐州龐勗の乱の鎮定に出兵したが敗北し、北半は勗に侵略され、
将軍馬擧に変わることになった。
・その後李蔚-劉鄴と宰相関連に戻ったが、王仙芝-黃巢の乱が広がるとともに対処できず。
乾符6年[879年]歴戦の将軍高駢が諸道鹽鐵転運使を兼任して赴任してきた。

淮南節度使 その3

2012-01-15 11:52:36 | Weblog
・貞元18年[802年]長期在任した節度使杜佑は次ぎに宰相位を狙い、交代を求めた。それに応じて
刑部尚書王鍔は富裕な藩鎭に憧れて格下の行軍司馬として赴任し翌19年昇格した。佑は宰相となった。
・元和二年[807年]王鍔は叛した鎭海李の討伐を命ぜられたが行くまでもなく鎮定された。
・元和三年[808年]王鍔は入朝し、多額の献金をして宰相を求めたが認められなかった。
宰相李吉甫が現任のまま赴任した。これより淮南は宰相の回遊の地となった。
李鄘-李夷簡-裴度-王播-段文昌-牛僧孺-李裕と続く
・元和12年[817年]硬骨の李鄘は宰相に転任したが、宦官吐突承璀の推薦によると知ってすぐ辞任した。
・王播は諸道鹽鐵転運使として巨財を築き、献金を繰り返して宰相を求め続け、それを糾弾する
諌官達との争議が続いた。やがて太和元年[827年]に至り念願の宰相になった。


淮南節度使 その2

2012-01-14 09:50:49 | Weblog
・大暦8年[773年]~興元元年[784年]は陳少遊が長期に留任した。彼は宦官勢力と結びつき
利権を追い求め上納に努めて地位を保っていた。
・建中4年[783年]~の淮西李希烈の乱では、密かに内応し中央への貢納を制限したりしていたが、
乱が治まり摘発が始まると懼れて宦官に働きかけていた。興元元年その中で卒した。
・唐朝は希烈から財源たる淮南を防禦するため壽州に都団練観察使[領州壽濠盧]を置き、
張建封を任じて淮西・淮南間を遮断させた。
・陳少遊の没後、淮南の牙軍は自立を試みたが、隣鎭の浙江鎭海の韓滉の威嚇によりあきらめ
杜亞が赴任することができた。
・貞元四年[788年]宰相李泌は、淮南・浙江よりの貢納の輸送路を淄青李納より守るため、
壽州の張建封を徐州節度使に移した。壽盧州は淮南に帰属した。
・貞元5年[789年]より長期に杜佑が在任し、淮南節度使がその財力により中央に働きかける端緒を作っていった。
・貞元16年[800年]武寧張建封没後、子の愔が自立し、杜佑は征討を命じられたが失敗した。

淮南節度使 その1

2012-01-13 22:21:47 | Weblog
・至徳元年[757年]12月安史の乱、唐朝の財源である淮南・浙江を防禦するために楊州に設置された。
楊楚滁和壽廬舒光蘄黄安申沔の十三州を領有するが治安維持を目的として文官の高適が節度使となった。
・上元元年[760年]無能で定見のない肅宗皇帝は河南の宋州付近に盤踞していた平盧軍出身の劉展を
淮南に移すという失策を犯した。しかも淮南節度使景山や都統李峘などには、展を排除する命令を下していた。
・赴任を拒まれて激怒した展はたちまち淮南・浙西・宣歙を制圧し、景山など文官出身の節度使は逃げ散った。
・そこで肅宗皇帝は展の兄貴分にあたる田神功を南下させて討伐させることにした。富裕な地の掠奪を期待して
神功は勇躍して侵攻し、たちまち展を敗死させた。このため安史の乱にあわなかった淮南は荒廃した。
・上元二年[761年]乱が治まると元宰相の崔圓が赴任して潰滅した統治機構の再建が行われた。

山西節度使 その4

2012-01-13 22:02:24 | Weblog
・大順二年[891年]専横を極めた宦官楊復恭は失脚し、山西に奔って楊守亮に依った。
・景福元年[892年]鳳翔李茂貞・邠寧王行瑜・華州韓建などは唐朝に迫って山西を伐つことを求めた。
昭宗皇帝は単なる勢力拡張と判断して認めなかったが茂貞らは無視して強行した。
・8月茂貞は興元府を陥とし、復恭・守亮らは河東へ逃げたが途中韓建に捕斬された。
茂貞は子の繼密を留後とし勢力圏に入れた。
・天復二年[902年]朱全忠が鳳翔を攻囲し、茂貞の勢力圏を制圧するのに呼応して、
西川王建は山西を攻めて陥し、繼密を捕らえた。
・以降山西は王建[後蜀]の勢力圏となった。

山西節度使 その3

2012-01-11 19:05:10 | Weblog
・長慶三年[823年]司空裴度が赴任して以降、山西は元宰相や宰相候補の赴任地となった。
王涯・李絳・李宗閔・李裕・李固言・令狐楚があげられる。
・裴度は政敵李逢吉の策謀により、その地位にも拘わらず平章事が付帯されないという事件があった。
・太和四年[830年]山西では始めての軍乱がおき節度使李絳が殺された。これは前年の
西川杜元穎の失政による南詔の侵攻対策として募集した軍を監軍が無計画に解散しよ
うとしたためである。山西には強力な軍備はなく牙軍も弱体であった。
・會昌以降は高級文官の赴任地に格下げとなっていった。
・中和三年[883年]忠武軍を率いて半ば流賊となった鹿晏弘が節度使牛勗を逐って占拠したが
翌年には棄てて流れていった。
・光啓二年[886年]邠寧朱玫らに京師を逐われた僖宗皇帝[宦官田令孜が擁立]が山西に逃避してきた。
田令孜は失脚し、宦官楊復恭が実権をにぎった。
・光啓三年[887年]京師は回復されたが僖宗皇帝は戻れず鳳翔に移り、復恭配下の楊守亮が節度使となり、
付近の領州を分割して武定軍(洋州)や感義軍(鳳州)や龍劒(龍州)などの小鎭が形成された。

山南西道節度使 その2

2012-01-10 18:16:24 | Weblog
・建中三年[782年]賈耽のあと嚴震が後を嗣いだ。翌年建中四年原軍が叛し京師を陥し
朱が皇帝と称した。宗皇帝は奉天城に包囲されたが李懷光の来援により解放された。
しかし李懷光もまた叛した
・興元元年[784年]二月宗皇帝は梁州に避難し、さらに安史の乱のように成都へ落ちようとした。
嚴震はこれを引き留め梁州を興元府として關内の李晟の京師回復作戦を後援した。
・嚴震は山西の貧寒の地を収斂し、西川張延賞の支援も得て朝廷の経費を賄い、その功績は大きかった。
・嚴震は貞元15年[799年]に卒し、一族の嚴礪が嗣いだ。
・嚴礪は元和元年[806年]西川の劉闢討伐に従い、平定と共に東川節度使へ移動した。
・その後は武官系が数代続き、その後高位の文官が赴任する藩鎭となっていった。
趙宗儒-鄭餘慶-權輿-崔従などである。

山南西道節度使 その1

2012-01-09 21:50:59 | Weblog
・至徳元年[756年]玄宗皇帝が安禄山の乱で成都へ逃れる時、途中の梁州に山南西道防禦観察使を置いた。
漢中王瑀が初代防禦使である。その後文官が赴任したが、上元二年[761年]党項羌が入寇しも時の観察使
李勉は州を棄てて奔った。その後武官系が赴任し廣徳元年[763年]節度使となった。
・領州は梁洋集壁文通巴興鳳利開渠蓬と十三州もあるが、いずれも山間の貧しい州であり警備中心の小規模な藩鎭であった。
・廣徳二年[764年]史朝義将張獻誠が汴州を以って降った。唐朝は汴州が重要拠点であるので平盧系の
田神功に与え、獻誠を山西節度使に移した。
・大暦元年[766年]崔寧が西川で自立し、副元帥杜鴻漸は獻誠を先鋒としてこれを伐たしたが梓州で敗北したため、
慰撫して帰順させる方針に変えた。
・大暦三年[768年]獻誠は入朝したが後任は從父弟獻恭に嗣がせた。
・獻恭の統治は吐蕃の侵攻[主要侵攻路ではない]に備えて大暦14年[779年]まで続いたが貧寒の地であるので強力
な軍は成立せず。その後はスムーズに文官賈耽が引き継いだ。

義武軍[易定]節度使 その4

2012-01-09 09:37:45 | Weblog
・その後神策軍系の武将の赴任先となり安定した時期が続いた。
・乾符6年[879年]豪商の息子で神策軍系の王處存が赴任した。直後の廣明元年[880年]黃巢が京師を陥し、
處存はいち早く軍を率いて勇戦し功績をあげた。
・中和二年[882年]處存は沙陀の李克用(この後河東節度使となる)と姻戚となり同盟を結んだ。
それに対して幽州李可擧など河北諸鎭勢力は警戒を強めた。
・光啓元年[887年]幽州李可舉・成徳王鎔は義武軍を併呑しようとて易州に侵攻したがかえって
處存に逆襲されて大敗した。そのため幽州は軍乱がおき李可擧は自殺した。
・景福元年[892年]處存は克用とともに成徳王鎔・幽州李威を攻め大破した。
・乾寧二年[895年]處存は卒し、子の郜が嗣いだ。
・光化三年[900年]朱全忠は北進し、成徳王鎔を服属させ、幽州劉仁恭軍を大破して義武に迫った。
處存の弟處直が率いる義武軍も沙河で大敗し、郜は河東へ奔り、處直は全忠に降った。
全忠は處直を義武軍節度使として服属させた。

義武軍(易定)節度使 その3

2012-01-08 09:19:17 | Weblog
・任迪簡のあとは元和8年[813年]渾瑊の子鎬が嗣いだ。鎬は成徳王承宗征討に参加したが、
元和11年[816年]功を焦って大敗し軍乱を招いた。
・唐朝はあわてて張茂昭の甥易州刺史陳楚を節度使とし鎮定させた。
・陳楚は自立することなく長慶元年[821年]幽州朱克融の乱などにも戦果をあげ、柳公濟に交代した。
・公濟は太和年間横海李同捷に出動した。
・義武軍は河北の争乱があるたびに動員され、しかし領州は貧しく唐朝からの支援がなければやってい
けない立場でもあるため牙軍には不満が募っていた。
・公濟が太和三年[829年]卒すると、將張璠は自立した。横海征討に疲弊し、成徳王廷湊・魏博何進滔
と反唐朝藩鎭が盤踞している状況では追認するしかなかった。
・開成3年[838年]璠が卒すると子元を立てようとする動きがあった。しかし唐朝からの援助がなけ
ればやっていけない状況から最終的には神策軍出身の陳君賞が入った。
・開成5年[840年]にも軍乱が起こり君賞は逐われたが、君賞は豪傑數百人を集めて再び入城し乱を鎮定した。
これ以降軍情は落ち着いていった。

義武軍[易定]節度使 その2

2012-01-07 10:26:02 | Weblog
・張茂昭は父よりも唐朝に忠誠であり永貞元年[805年]元和元年[806年]と入朝し使相に任ぜられた。
・元和4年[809年]成徳王承宗征討にたいして河東軍とともに木刀溝で破るなど一応の働きはした。
・茂昭は幽州・成徳に挟まれた自鎭の危うさを危惧し、憲宗皇帝による対藩鎭積極策をみて、、
張家の存続を意図し、易定二州を唐朝に引き渡すことを決意した。当然河北の諸鎭はこれを止めよう
としたがきかなかった。当時成徳王承宗は帰服したばかりで、幽州劉濟は唐朝寄りであったので
強硬策を採る隣鎭はなかった。
・元和5年[810年]茂昭は兼中書令河中節度使に栄転し、一族は諸衛将軍等に任ぜられた。
後任には唐朝より派遣された行軍司馬任迪簡が任ぜられることになった。
・しかし10月將楊伯玉が叛し迪簡を執え、さらに將張佐元が伯玉を殺すという事態が起こった。
牙軍幹部はこれを鎭定し再び迪簡を推したてた。
・ところが義武軍の官庫は空[もともと貧しい上に、茂昭が持ち出したため]で、將士に与えるべき
賞賜がなかった。迪簡は憂慮して將士とともに粗食をとり、粗舎に起居した。
やがて唐朝より賞賜が到着して正式に節度使となった。

義武軍[易定]節度使 その1

2012-01-06 20:29:04 | Weblog
・建中二年[781年]成徳李寶臣が卒し、子惟岳が自立しようとしたが唐朝は認めず。
魏博田悦は支援したが、幽州朱滔は唐朝に付いた。征討軍の包囲攻撃により情勢は不利
であった。成徳の驍將張孝忠は易州刺史であったが朱滔の勧めを入れていち早く帰順した。
・唐朝は孝忠に易定滄の三州節度使を与え、三年[782年]義武軍の號を与えた、
滄州は間に幽州節度の瀛・莫州をはさみ統治困難な上に程日華が自立したため失わ
れて易定二州が管轄となった。
・孝忠は建中三年に朱滔や王武俊が叛した後も唐朝に味方し、幽州・成徳を牽制
する功績をあげ興元元年[784年]使相に列せられた。
・貞元七年[791年]孝忠は卒し、子昇雲[賜名されて茂昭]が自立するが、
その位置の重要性から唐朝はこれを認めた。