盆過ぎからくずし字の読解に努めている。くずし字とは古文書などに見られる筆で書いた文字(木版でもあるが)だ。全く読めなかったが、少し親しんでくるようになった。くずし字辞典なるものも買って、後は図書館で読解入門書などを借りている。
婆さんが他界して、色々整理すると江戸時代のご先祖様の書いた文書が出てきた。時代は1800年前後、寛政、享和、文化、文政、天保年間(1789~1844)であって、この間の文書のみ残っている。父方の先祖は名古屋で商売をしていた。内容は借用書がメインで諸届書類と領収書ぐらいで50点あまり、なかには下書きのままの文書も数ある。。実はこの期間商売上は当主が若くして亡くなったりして、女性だけで家業を維持していた期間が多い時期なのだ(書類を整理して判明)。
一旦婿養子を迎え継がせたものの、役立たずか素行が良くなかったか、離縁しているなど、細腕繁盛記のような苦労の時期だった。それゆえ、下書きの借用書まで残したのかと、ご先祖様の思いを今よみがえらせようと思っている。
写真は、文化5年(1808)小牧町の町代(自治会長のような方:江戸時代は住民統制上今より厳しい)から引っ越し先の米倉町町代に出した文書と、同居先の妹「みな」による口上。小牧町(現在の泉1丁目)の異母姉妹の姉(紫雲35歳)が妹みな(22歳)の家(米倉町上の切東側(伏見通に面し錦通りを上がったところの「キャノン」の対面辺り)に同居する時の文書である。紫雲の菩提寺は東寺町の西連寺とあるが江戸時代は切支丹対策もあり寺にすべての住民が属していた。この時みなは家督をついで、結婚し子どももいた。家屋敷を夫に譲渡するのは1812年、離縁するのは1819年(家屋敷を返還している)と家屋敷の譲渡文書で判明した。こういう話は聞いたことがなかったので、少しまとめてみようと思っているが、くずし字は難しい。(伏見通は戦後拡幅されたが、この当時は3間道5.4mである。
(江戸時代の名古屋城下は、現在の丸の内、錦は町民・庶民の街で、中級、下級の武士はその周りに住んでいた。上級武士は城内またはお城近辺)