前回に引き続き鉄道ネタ。
加太トンネル(930m)は加太側から柘植側に向けて上り坂25パーミルの蒸気時代としての最大勾配である。明治23年開通のトンネルで狭い。ここを登るSLにとっては命を懸けたトンネルである。風は低い所から高い方へ流れる。下には煙は流れず、トンネル内に、煙は充満する。
63年ほど前、父親が佐那具の病院へ入院していた頃は、SLがけん引する客車に乗って佐那具へ行ったが、トンネル前には箱のすべての窓を閉めなければ、大変なことになると。お客はほとんど乗っていなかったように思うが、開いている窓を見つけ、閉めるのが大変だった。
このため、加太側の入り口には排煙シャッター(幕)が設置されている。列車がトンネルに入ったあと、幕を閉めて、列車後ろを真空状態にし、煙が前に行かないようにする仕組みである。(それでも客車内にはモヤッとした煙が侵入し立ちこめる。幕のない時代はどうであったのだろう・・・)
見出しの新聞は1969年か70年の記事と思うが、機関士は防毒マスクをして運転しなければならない、とある。昭和3年、敦賀の柳ケ瀬トンネル内では登りに弱い性質のSLがトンネル内で空転し、死亡事故が起きている。この記事によれば、「排煙幕」が大正9年には手動で、昭和30年に動力化されたとある。(下の写真は1974年4月撮影。中在家信号場付近の山から望遠で。これは柘植から下ってきたD51貨物列車。坂を下ってくる場合は幕を使用しない。この幕番人に4人が交替で業務にあたっていたとの事。写真隅には物干しに布団が干してあるのが見える。)
今日は最高気温32度との予報。そろそろロングにも備えなければ、と思って、7:40頃家を出て、下庄~グリーンロードで白山まで、亀が広~久居~中勢BPで11:10頃帰宅。昔は3時間の練習コースだったが今は30分余計にかかるし、ムシムシの天気だし、くたびれました。走行76㎞。
加太トンネル(930m)は加太側から柘植側に向けて上り坂25パーミルの蒸気時代としての最大勾配である。明治23年開通のトンネルで狭い。ここを登るSLにとっては命を懸けたトンネルである。風は低い所から高い方へ流れる。下には煙は流れず、トンネル内に、煙は充満する。
63年ほど前、父親が佐那具の病院へ入院していた頃は、SLがけん引する客車に乗って佐那具へ行ったが、トンネル前には箱のすべての窓を閉めなければ、大変なことになると。お客はほとんど乗っていなかったように思うが、開いている窓を見つけ、閉めるのが大変だった。
このため、加太側の入り口には排煙シャッター(幕)が設置されている。列車がトンネルに入ったあと、幕を閉めて、列車後ろを真空状態にし、煙が前に行かないようにする仕組みである。(それでも客車内にはモヤッとした煙が侵入し立ちこめる。幕のない時代はどうであったのだろう・・・)
見出しの新聞は1969年か70年の記事と思うが、機関士は防毒マスクをして運転しなければならない、とある。昭和3年、敦賀の柳ケ瀬トンネル内では登りに弱い性質のSLがトンネル内で空転し、死亡事故が起きている。この記事によれば、「排煙幕」が大正9年には手動で、昭和30年に動力化されたとある。(下の写真は1974年4月撮影。中在家信号場付近の山から望遠で。これは柘植から下ってきたD51貨物列車。坂を下ってくる場合は幕を使用しない。この幕番人に4人が交替で業務にあたっていたとの事。写真隅には物干しに布団が干してあるのが見える。)
今日は最高気温32度との予報。そろそろロングにも備えなければ、と思って、7:40頃家を出て、下庄~グリーンロードで白山まで、亀が広~久居~中勢BPで11:10頃帰宅。昔は3時間の練習コースだったが今は30分余計にかかるし、ムシムシの天気だし、くたびれました。走行76㎞。