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私的「格差」考(3) 「勝ち方」を教える社会

2006-04-29 21:34:50 | Society
「格差の固定化」について考えてみる。

まず、階層社会というのは今に始まった話なんだろうか、という素朴な疑問。
むしろ、身分社会の名残りが濃かった昔の方が階層は固定化されていたのではないだろうか。
豊臣秀吉だとか田中角栄だとか稀に例外は存在するし、明治維新後の近代国家形成過程など貧しい地方出身者でも能力さえあれば立身出世できた時代もあったようだが、一般的には家柄などの出自によってその人の将来の可能性はかなり限定されていたのではないか。
人間の生まれ育つ環境は画一ではなく、同じような家庭環境で育った者同志の方が価値観を共有しやすいし、そのような者同志でコミュニティを形成するのも自然なことである。
そう考えると、出自による階層社会化というのも自然な流れに沿ったものと言えなくもない。
むしろ、ちょっと前までの一億総中流社会の方が特殊なありようだったのかもしれない。

しかし、一方でグローバリゼーションの時代である。
かつて世の中の人たちが分かち合うパイが十分にあった時代と異なり、分け前があまねく行き渡らない現代では、階層間の対立は深刻なものになる。
勝者は永久に勝者であり続けようとする。
なぜなら一旦敗者に転じると再び勝者に舞い戻ることが著しく難しいからである。
よって敗者に対しては、様々な巧妙なシステムにより敗者の立場から脱出できないような仕掛けを作る。
敗者が苦しい境遇に置かれることになる一方で、勝者も勝者であり続けることに尋常ならざるエネルギーが必要である。

格差社会に関する批判を受けた際、小泉首相は「一度負けても何度でも再挑戦できる社会を実現する」と反論する。
が、「勝ち方」を知らない敗者が何度再挑戦しようと、勝ち目があるのだろうか。
何度挑戦しても負け続け、しまいには敗北感から挑戦する意欲を喪失する。
そういう構図が出来上がるだけなのではないか。

敗者には単に再挑戦の機会を与えるだけでは不十分で、どうやったら勝てるのか、「勝ち方」を教えてから再挑戦させる必要がある。
勝者は永久に勝ち続けるのではなく、たまには「負けてやる」余裕を持つ。
そういう社会を目指すべきではないか。

「負けても再挑戦」の対立スローガンが「負け組ゼロ」とは、あまりに極端すぎる。
その中間に目指されるべき着地点があるのではないか。
コメント
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