そもそも論者の放言

ミもフタもない世間話とメモランダム

『未完のファシズム』 片山杜秀

2014-03-09 23:21:51 | Books
未完のファシズム―「持たざる国」日本の運命―(新潮選書)
片山杜秀
新潮社


Kindle版にて読了。

戦前の日本陸軍において「皇道派」と「統制派」という二派の路線対立が存在したことは日本史の教科書にも載っている事柄ですし、それぞれの派閥を代表する人物としての荒木貞夫や永田鉄山といった名前も知ってはいだけれど、この歳になるまで、具体的にそれがどんな路線対立であったのかについては全く知識がなかった。
そのあたりを学ぶことができただけでも非常に興味深い。

第二次大戦期の日本軍、そして日本人を象徴するキーワードとしてまず挙げられる精神主義。
その精神主義はどの時点からどのようにして生まれ、拡がっていったのか。

日本が、第一次大戦に「参加」した時点では、日本の軍人は戦争の有り様が急激に変わっていることを客観的かつ合理的な視点で見ていた。
これからの戦争は軍隊だけでやるものでなく、国民総動員で国家としての生産力全体を競うことになる、「持たざる国」が「持てる国」に対抗することが極めて難しい時代になっていくことをよく理解していた。
それが何故極端な精神主義に振れてしまったのか?

皇道派は、日本が「持たざる国」であることを十分に認識した上で、勝てる戦いだけを選んで精神力と奇手奇策で短期決戦必勝を期すことを主張する。
精神主義でありながらも、戦いを選ぶ点では冷静な視点を持っていた。

一方、統制派は、「持たざる国」を「持てる国」に近づけるための経済運営に関心を集中する。
統制派の中でも最もラディカルな主張を持つ石原莞爾は、30年後の世界最終戦争を見据えて一大産業集積地として満州経営を提唱し満州事変を起こす。
拙速に戦いを挑むべきではない、という点でこちらもまた冷静であった。

ところが、時代の趨勢は皇道派の思い描くような短期決戦にも統制派が思い描くような経済運営優先にも展開せず、「持たざる国」のまま果てなき泥沼の戦争へと突き進む。
そして、ただ精神主義のみが文脈を外れて一人歩きして存在を増していく。

皇道派も統制派も、それぞれが抱いていた総力戦思想はいずれも行き詰まり、政治や軍事をコントロールすることができなかった。
著者は、その原因を明治憲法のシステムに求める。
誰も強権的なリーダーシップを取り得ないシステム。
しばしば戦前のこの時代は、「軍事独裁」と表現されるが、むしろ戦前の日本はファシズム化に失敗したと言えるのではないか、と。
それが「未完のファシズム」と表現される。

本著で、中柴末純という人物を初めて知った。
中柴は、「生きて虜囚の辱めを受けず」で有名な「戦陣訓」の作成に携わった中心的人物。
天皇制を精神主義に絡めていく中柴の主張は、本著でも詳らかに解説されるが、いくら説明されてもその論理展開は自分には殆ど理解不能だった。

著者は、総力戦に不向きな「持たざる国」でありながら中途半端に大国となっていたことに戦前日本の悲劇はあったと云います。
背伸びして列強と渡り合わなければ未来はない、しかし渡り合うための慎重に事を進めるだけの責任政治や強権政治のシステムに欠けている。
そして破滅を迎えることとなる。

翻って、21世紀の現代日本。
今の日本は「持たざる国」では最早ない。
その分余裕があるのかまだ救いだろう。
だが、その余裕もどこまで維持できるのかは怪しいところもある。
しかも、リーダーシップの不在という点では戦前から何も改善されていない。
身の程を知った上での、慎重に慎重を期した舵取りが果たしてできるのだろうか?
戦前の失敗から学ぶことができるのか、心許なくなって少々薄ら寒い。
コメント
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