BLOGOSからのリンクでこんなブログ記事に辿りつきました。
橋下発言にみるVictim blaming(Whose is not expressly included)
記事自体は差別問題を扱ったものですが、ここではその主題から離れて、Victim blaming(犠牲者非難)という概念とその発生要因にかかる仮説について興味を抱いたので以下引用させてもらいます。
差別研究には「victim blaming」(犠牲者非難)という有名な概念があります。ウィリアム・ライアンという心理学者が1971年に提起した言葉で、差別や犯罪などのつらい被害をこうむった人に対して、「あなたに(も)落ち度があったからだ」と非難する行為を指します。
日本語ではvictim blamingをきちんと説明した文献がたいへん少ないので、あまり知られていませんが、池田光穂さんが「医療人類学辞典」の中で簡単に説明してくれていますので、まずは参照してください(→犠牲者非難)。差別や犯罪の被害にとどまらず、病気や事故などとても広範なつらい体験に対して観察される現象だということが理解できると思います。
もちろん、先頭車両に乗っていて衝突事故で怪我をした人に向かって、「一番前なんかに乗るからだ」と責める行為にいっさいの合理性はありません。原因不明の病気に罹った人に対して、「日ごろの行いが悪かったせいだ」などと非難するのはナンセンスです。犯罪だって、悪いのは犯人であって、被害者を責めるのはお門違いというもの。victim blamingは非合理的な心理現象です。
非合理的であるにもかかわらず、なぜ、victim blamingは起こるのか? victim blamingの発生要因についてはいくつかの仮説が提起されています。
例えば、「世界は正しいと信じたい仮説」。世界は合理的で公正だと信じたい人は、非合理的、偶発的に被害が発生する状況を受け入れることができない。それで、「きっと被害者側に自業自得といえる理由があるに違いない」と考えることで自分を納得させようとする、という仮説です。
他に、「傷つきたくない仮説」というのもあります。これは性犯罪を例にとるとわかりやすいのですが、「性犯罪の被害にあうのは、みだらな服装をしたり、ふしだらな行動をする女だけだ」と思い込んでしまえば、そういう服装や行為を避けることによって、自分は性犯罪の被害には会わないという安心感に浸ることができる、という仮説です。被害者を特別な存在だったとして攻撃することによって、自分が同じように傷つく可能性を否定したいのだ、ということですね。
個人的に興味深く感じたのは、この中で紹介されている「世界は正しいと信じたい仮説」。
ネットでいろんな人の意見などを眺めていると、「世界は正しいと信じたい」タイプの人ってたくさんいるよなぁと常々感じています。
自分など、人間なんてそんなに上等な生き物でもないし、世の中なんて所詮不条理なものと思っているので、そういうタイプの人とは基本的に相容れないよなあと思ってしまうんですが、一方で、世界が「正しく」あったほうがよいに決まっているし、「正しいと信じたい」と思う人たちがいなければ世の中が変わっていかないというのもまた真理であるようにも思うので、なかなか難しいところです。