鳥取藩の探索書は、薩摩藩の密謀を小三郎が察知して帰藩を決意したところを二人の刺客に暗殺されたとし、暗殺者は薩人に相違ないと断言している。そして、在京の諸藩士が小三郎の死を惜しがっていると伝えている。それにしても、当時これだけ有名で、その死を皆に惜しがられた人物であるにも関わらず、いまは歴史上存在しなかったかのように扱われ、歴史書でも無視され、日本人はほとんど誰も知らないというのはいったいどういうことだろう。歴史の「物語」は勝者の都合のよいように偽造されるのだ。
. . . 本文を読む
この手紙は、大久保利通が村田新八らに対し「赤松は信用できないのではないか」「藩外からの入塾希望者は断れ」「書籍(英国歩兵練法)が散乱しないように厳重に管理せよ」・・・などの指示を与え、それに対する返答と解釈すると整合的に理解できる。
この大久保の猜疑心が、やがて小三郎への殺意へと変わっていったのではなかろうか。 . . . 本文を読む
① 慶応元年から小三郎暗殺までの2年半にわたって赤松小三郎に師事していた一番弟子的存在は野津七次(後の元帥・道貫)であった。
下曽根門下の中で、もっとも英式兵学に熟達していたのは赤松小三郎であると見込み、あえて転塾して赤松に師事している様子も伺える。
② 薩摩藩に赤松小三郎をスカウトしたのも野津七次であった。
. . . 本文を読む