東京大学史料編纂所の維新史料鋼要のデータベースで赤松小三郎暗殺関連の記事を検索すると、以下のような諸記録が出てくる。いずれも旧文部省維新史料編纂会が収集・記録したもので、東京大学に移管されたものである。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
これを見ると、小三郎暗殺が薩摩藩の組織的犯行であることは当時から諸藩士のあいだで周知の事実であったことが分かる。
・朝彦親王(中川宮)日記(慶応3年9月6日)
「薩人キリ死有之候・・・・右人体ハ信州上田藩洋学者赤松小三郎ト申者・・・○十印余程此頃何ケ計可有之哉・・・・」
・鹿児島藩士・新納立夫(嘉藤二)日記(同9月4日)
暗殺の翌日に吉井幸輔と内田仲之助が来てその後の対応を話し合っている。
・長州藩士・品川弥二郎日記(同9月5日)
「五日晴朝黒氏を問フ西氏帰京赤松一昨日斬首セラレシヨシ。」との記述あり。
赤松小三郎を薩長同盟にとって共通の脅威として取り除くということで合意していたとすると、品川弥二郎は小三郎が殺されたことを薩摩藩士から確認して、それを書き留めたのであろうか。「黒氏」とは黒田のことか? 前にも書いたように、品川弥二郎は、佐久間象山暗殺の実行グループの中にもいた。
・熊本藩士・青池源右衛門の探索書(同9月6日)
7・8人の刺客に小三郎を襲って暗殺したとの記載。薩州の内情をよく知っていたので天誅を加えらたと、薩摩の犯行を匂わせた報告を藩に上申している。
・鳥取藩京都留守居役の報告書
これは非常に興味深い史料。周知の史料のはずなのだが文献で引用されているのを見たことがない。少し長く引用する。
「一、信州上田藩赤松小三郎と申者先年病気を申立為保養とて国を出・・・・・・薩藩人大ニ信用シ咋秋頃より當表之邸内ニ入門人も多人数ニ相成り・・・・」
鳥取藩は、赤松小三郎が薩摩藩邸に開塾したのは慶応2年の秋ごろと認識していることが注目される。慶応3年4月に薩摩藩兵700人が入京する以前から、小三郎は藩邸で講義を開始していたことになる。
上田藩からたびたび帰藩の命令を受けていたが、家老の小松帯刀が必死に小三郎を引き留めていたと書かれている。さらに次のように書かれる。
「(薩人の)不容易密謀も有之哉と被察候より右小三郎と申者改心致し急々罷帰り申度段・・・・・・ 三日七時頃五条東洞院ニテ何者の弐人ニテ小三郎を切倒し置逃去候由小三郎と申者は諸藩士にても惜しがり居申候
右弐人之者薩人ニ相違無之と申事ニ御座候・・・・・」
鳥取藩の探索書は、薩摩藩の密謀を小三郎が察知して帰藩を決意したところを二人の刺客に暗殺されたとし、暗殺者は薩人に相違ないと断言している。そして、在京の諸藩士が小三郎の死を惜しがっていると伝えている。
それにしても、当時これだけ有名で、その死を皆に惜しがられた人物であるにも関わらず、いまは歴史上存在しなかったかのように扱われ、日本人のほとんど誰もが知らないというのはいったいどういうことだろう。歴史の「物語」は勝者の都合のよいように偽造される。わかってはいるが納得できない。
http://wwwap.hi.u-tokyo.ac.jp/ships/shipscontroller
これを見ると、小三郎暗殺が薩摩藩の組織的犯行であることは当時から諸藩士のあいだで周知の事実であったことが分かる。
・朝彦親王(中川宮)日記(慶応3年9月6日)
「薩人キリ死有之候・・・・右人体ハ信州上田藩洋学者赤松小三郎ト申者・・・○十印余程此頃何ケ計可有之哉・・・・」
・鹿児島藩士・新納立夫(嘉藤二)日記(同9月4日)
暗殺の翌日に吉井幸輔と内田仲之助が来てその後の対応を話し合っている。
・長州藩士・品川弥二郎日記(同9月5日)
「五日晴朝黒氏を問フ西氏帰京赤松一昨日斬首セラレシヨシ。」との記述あり。
赤松小三郎を薩長同盟にとって共通の脅威として取り除くということで合意していたとすると、品川弥二郎は小三郎が殺されたことを薩摩藩士から確認して、それを書き留めたのであろうか。「黒氏」とは黒田のことか? 前にも書いたように、品川弥二郎は、佐久間象山暗殺の実行グループの中にもいた。
・熊本藩士・青池源右衛門の探索書(同9月6日)
7・8人の刺客に小三郎を襲って暗殺したとの記載。薩州の内情をよく知っていたので天誅を加えらたと、薩摩の犯行を匂わせた報告を藩に上申している。
・鳥取藩京都留守居役の報告書
これは非常に興味深い史料。周知の史料のはずなのだが文献で引用されているのを見たことがない。少し長く引用する。
「一、信州上田藩赤松小三郎と申者先年病気を申立為保養とて国を出・・・・・・薩藩人大ニ信用シ咋秋頃より當表之邸内ニ入門人も多人数ニ相成り・・・・」
鳥取藩は、赤松小三郎が薩摩藩邸に開塾したのは慶応2年の秋ごろと認識していることが注目される。慶応3年4月に薩摩藩兵700人が入京する以前から、小三郎は藩邸で講義を開始していたことになる。
上田藩からたびたび帰藩の命令を受けていたが、家老の小松帯刀が必死に小三郎を引き留めていたと書かれている。さらに次のように書かれる。
「(薩人の)不容易密謀も有之哉と被察候より右小三郎と申者改心致し急々罷帰り申度段・・・・・・ 三日七時頃五条東洞院ニテ何者の弐人ニテ小三郎を切倒し置逃去候由小三郎と申者は諸藩士にても惜しがり居申候
右弐人之者薩人ニ相違無之と申事ニ御座候・・・・・」
鳥取藩の探索書は、薩摩藩の密謀を小三郎が察知して帰藩を決意したところを二人の刺客に暗殺されたとし、暗殺者は薩人に相違ないと断言している。そして、在京の諸藩士が小三郎の死を惜しがっていると伝えている。
それにしても、当時これだけ有名で、その死を皆に惜しがられた人物であるにも関わらず、いまは歴史上存在しなかったかのように扱われ、日本人のほとんど誰もが知らないというのはいったいどういうことだろう。歴史の「物語」は勝者の都合のよいように偽造される。わかってはいるが納得できない。
私も関先生のブログを見るまでは、赤松小三郎の存在は知りませんでした。
比較的に有名な五日市憲法や大日本国国憲按だって、国民の大方は知らないのではないでしょうか?ちなみに余談ですが、明治憲法の改正要件が現行憲法と同じく両議院の3分の2以上の賛成が必要だったということも、恐らく国民の大半は知らないと思います。