どのようにして弁証法的な対話空間をつくるのかという点で、前の記事の続きです。
高校や大学の中で行われているディベートですが、これは糾弾的知性を再生産してしまう取り組みだと指摘しました。相手の発言の揚げ足を取ったり、些細な論理的矛盾を突いて、攻撃すれば勝ってしまうというゲームだからです。
国会論戦の中で行われている討論などを見ても、現実社会で行われている議論は往々にしてディベート的です。です . . . 本文を読む
>そんなに中国が戦争を仕掛けてくるというのであれば、そんなに韓国と外交がうまくいかないのであれば、アジアの玄関口に住む僕が、韓国人や中国人と話して、遊んで、酒を飲み交わし、もっともっと仲良くなってやります。
後藤宏基さんのこの言葉、本当にその通りだと思います。対話こそが最大の戦争の抑止力だと思います。「糾弾的攻撃」は戦争の原因になり得ますが、「弁証法的対話」は戦争を抑止します。
実際、中国人留学生と日本人学生が対話を通して双方の認識をアウフヘーベンさせることは可能です。太平洋戦争の歴史認識に関しては、日本人、中国人、韓国人の認識が異なるもっともセンシティブな点ですが、それでも弁証法的対話が行われれば、双方の歴史認識は接近していきます。 . . . 本文を読む
60年安保の頃に「昔陸軍、今総評」などと言われましたが、企業のみならず総評に代表される労働運動も軍隊的規律と一枚岩の団結を持つ陸軍文化の延長にあったように思います。陸軍と総評を対比させるのは、核心をつく比喩でした。全学連なども、陸軍組織の延長上にあったように思えます。総評や全学連などが全国動員をかけ、隊列を組んで軍隊式に行進し、シュプレヒコールをあげた60年安保。「2015年安保」のデモは、組織的な動員もないのに、友達同士や親子連れなどが自発的に、好きな時間に集まって、好きな時間に帰っていきます。そこには誰の強制も、組織的な規律の強要もありません。糾弾文化は、運動の側の中からは少しづつ影をひそめつつあるやに思えます。ぜひこの流れを拡大させたいものです。 . . . 本文を読む