どのようにして弁証法的な対話空間をつくるのかという点で、前の記事の続きです。
高校や大学の中で行われているディベートですが、これは糾弾的知性を再生産してしまう取り組みだと指摘しました。相手の発言の揚げ足を取ったり、些細な論理的矛盾を突いて、攻撃すれば勝ってしまうというゲームだからです。
国会論戦の中で行われている討論などを見ても、現実社会で行われている議論は往々にしてディベート的です。ですからディベートの訓練も不要だとは言いません。私もゼミの場でディベートも取り入れています。
しかしディベートのような攻撃的討論と、弁証法的な認識の発展を生み出さすワークショップ形式の対話を組み合わせることにより、糾弾的知性の限界を認識することができ、弁証法的知性の形成を促すことはできると思います。
たとえば私が今年、実際にゼミの中で行った議論の例を紹介します。
ある問題を、ディベート形式とワークショップ形式の双方で考えると、揚げ足取りと弁証法の違いが実感できます。例えば、「水道民営化の是非」というテーマで、ディベートとワークショップの双方を行いました。
「水道民営化の是非」をテーマにディベートで争ってみます。民営化を是とする側は無駄なダム建設など税金に寄生するがゆえの公営事業の非効率性を訴え、民営化を肯定するような論陣を張ります。民営化を非とし公営を是とする側は諸外国の民営化事例などをもとに民営化が水道料金の上昇に帰結し貧困層に打撃を与えるなど否定的な実験結果を例示して反論します。双方、相手の主張の論理矛盾を突いたり、揚げ足を取るのに必死になります。うまく相手の論理矛盾などを攻撃した方が勝つのですが、それによって何らかの新しい認識が発生するということはありません。
つぎにワークショップ形式で同じ問題を考えてみます。以下の写真は、大学生たちが行ったワークショップでの議論を模造紙にまとめたものです。ワークショップ形式の議論は次のように進めます。まず、水道公営のメリット・デメリット、つぎに水道民営のメリット・デメリットを思いつく限り、洗いざらい出し合いましょう。その上で、理想的な経営形態を考えていきましょう、と。
そうすると自分の立場が固定されませんので、討論の中で、自由な発想が次々に生まれてきます。公営・民営、双方の欠点・利点をアウフヘーベンするような新しいアイディアが発生してくるのです。
たとえば「公営であっても、無駄なダムが造られないように、行政の計画の妥当性を評価をする第三者の監視機関を設置する」とか、「民営であっても水道価格が高騰しないように行政による監督権を残す」・・・など、さまざまな意見が出てきます。いずれも公営、民営をアウフヘーベンした認識であることが分かるでしょう。
討論の中でアウフヘーベンが起こり、初期認識にはなかった新たな着想が発生しているのです。どのような提案が生まれるのかは、グループごとの議論の中での偶然に左右されるところが大です。
ディベートとワークショップの双方を行ってみると、「糾弾」と「止揚」の違いも分かってくるでしょう。
国会の委員会などでも、与野党がワークショップ型の議論を行い政策形成を進めるという試みを行ってみるのも面白いと思います。
高校や大学の中で行われているディベートですが、これは糾弾的知性を再生産してしまう取り組みだと指摘しました。相手の発言の揚げ足を取ったり、些細な論理的矛盾を突いて、攻撃すれば勝ってしまうというゲームだからです。
国会論戦の中で行われている討論などを見ても、現実社会で行われている議論は往々にしてディベート的です。ですからディベートの訓練も不要だとは言いません。私もゼミの場でディベートも取り入れています。
しかしディベートのような攻撃的討論と、弁証法的な認識の発展を生み出さすワークショップ形式の対話を組み合わせることにより、糾弾的知性の限界を認識することができ、弁証法的知性の形成を促すことはできると思います。
たとえば私が今年、実際にゼミの中で行った議論の例を紹介します。
ある問題を、ディベート形式とワークショップ形式の双方で考えると、揚げ足取りと弁証法の違いが実感できます。例えば、「水道民営化の是非」というテーマで、ディベートとワークショップの双方を行いました。
「水道民営化の是非」をテーマにディベートで争ってみます。民営化を是とする側は無駄なダム建設など税金に寄生するがゆえの公営事業の非効率性を訴え、民営化を肯定するような論陣を張ります。民営化を非とし公営を是とする側は諸外国の民営化事例などをもとに民営化が水道料金の上昇に帰結し貧困層に打撃を与えるなど否定的な実験結果を例示して反論します。双方、相手の主張の論理矛盾を突いたり、揚げ足を取るのに必死になります。うまく相手の論理矛盾などを攻撃した方が勝つのですが、それによって何らかの新しい認識が発生するということはありません。
つぎにワークショップ形式で同じ問題を考えてみます。以下の写真は、大学生たちが行ったワークショップでの議論を模造紙にまとめたものです。ワークショップ形式の議論は次のように進めます。まず、水道公営のメリット・デメリット、つぎに水道民営のメリット・デメリットを思いつく限り、洗いざらい出し合いましょう。その上で、理想的な経営形態を考えていきましょう、と。
そうすると自分の立場が固定されませんので、討論の中で、自由な発想が次々に生まれてきます。公営・民営、双方の欠点・利点をアウフヘーベンするような新しいアイディアが発生してくるのです。
たとえば「公営であっても、無駄なダムが造られないように、行政の計画の妥当性を評価をする第三者の監視機関を設置する」とか、「民営であっても水道価格が高騰しないように行政による監督権を残す」・・・など、さまざまな意見が出てきます。いずれも公営、民営をアウフヘーベンした認識であることが分かるでしょう。
討論の中でアウフヘーベンが起こり、初期認識にはなかった新たな着想が発生しているのです。どのような提案が生まれるのかは、グループごとの議論の中での偶然に左右されるところが大です。
ディベートとワークショップの双方を行ってみると、「糾弾」と「止揚」の違いも分かってくるでしょう。
国会の委員会などでも、与野党がワークショップ型の議論を行い政策形成を進めるという試みを行ってみるのも面白いと思います。
「知的言語的側面のみを考えがちですが、その基底にある非言語的なもの(身体、感情など)を注視することが、可能性を開くキーになるのだろう、と私は考えているところです」という、2015年09月01日の記事「糾弾的文化を止揚できるか?」の主調となった三郎さまのコメントの結語であった予言的示唆に心動かされてずっと考えております。
思い立って、関さんが弁証法(自然の弁証法)を学ぶ本として第一に推挙なさっている プリゴジン/スタンジュール著『混沌からの秩序』(伏見康治ほか訳、みすず書房、1987年)を拾い読みしておりました。
その結論の章に、ヘルマン・ワイルを引用した次のような箇所があり、三郎さまのご着眼が普遍的威力を持つことに目を瞠りました(同書;p401)。
・・・・
われわれはヘルマン・ワイルに全く同感である。
「生命現象に近づくには,理論構築だけが唯一の方法ではないことを科学者が無視したら誤りだろう。われわれには、他の方法、内面からの理解(解釈)が開かれている。・・・私自身について,私自身の知覚、思考、決断、感情、行動などの作用について、私は記号による大脳の「並列的」な処理を表す理論的知識とは全く異なった直接的知識をもっている。私が会い自分と同じ種類の生き物だと認め、またあるときは、彼らと喜びや悲しみを分かち合うほどに親しくなって交流する私の同僚を理解するための基礎が、この内面的な自己認識である。
しかし最近に至るまでいちじるしい対比があった。われわれの経験する自発的な活動や不可逆性とは対照的に外部世界は決定論的因果律に従うオートマトンとして見られていた。・・・
・・・・念のために、プリゴジンとスタンジュールが引用したヘルマン・ワイルの言葉をオリジナルのドイツ語からの英訳で引きますと:
http://krishikosh.egranth.ac.in/bitstream/1/2028666/1/G5751.pdf
「Philosophy of Mathematics and Natural Science」 BY HERMANN WEYL . REVISED AND AUGMENTED ENGLISH EDITION BASED ON A TRANSLATION BY OLAF HELMER PRINCETON UNIVERSITY PRESS 1949;p283
Scientists would be wrong to ignore the fact that theoretical construction is not the only approach to the phenomena of life; another way, that of understanding from within (interpretation), is open to us. ・・・Of myself, of my own acts of perception, thought, volition, feeling and doing, I have a direct knowledge entirely different from the theoretical knowledge that represents the 'parallel' cerebral processes in symbols. This inner awareness of myself is the basis for the understanding of my fellow-men whom I meet and acknowledge as beings of my own kind, with whom I communicate, sometimes so intimately as to share joy and sorrow with them.
・・・と、あります。先の投稿において紹介いたしましたアダム・スミスの言葉と重なりあい,
息づかいがそっくりであるような気がいたします。
ヘルマン・ワイルの言う「内面的な理解( understanding from within )」をもたらす「内面的な自己認識( inner awareness of myself )」,
これが「糾弾的心性・文化・言語」を止揚するのではないかと思うようになりました。
想田和宏という方のツィートを引用します。
想田和弘 @KazuhiroSoda 9月11日
ちなみに「論破」っていう言葉も嫌な言葉ですね。いつから議論が勝ち負けを競うゲームになってしまったのか。とても残念です。議論ってのは異なる人がAやBという意見をぶつけ合いすり合わせることで、AやBよりも優れたCに到達するための方法であるはずなんですが。
勝つか負けるかの「ゲーム」を、双方にとってよりよいものに到達するための「議論」に変えるものは、と思案しながら、たまたまかって直接に知っていた方が寄稿されていたことに惹かれて『現代思想』(青土社)10月臨時増刊号(「安保法案を問う」)を買って帰り何げなく見た、SEALDs KANSAI の大澤茉実という方の寄稿に目を丸くしました。
そこで示されていた、「内面性」が糾弾(=絶望)から同感と行動への飛躍を生み出していった「感受性の弁証法」に嘆息を禁じえませんでした。
おそらく「SEALDsの周辺から 保守性のなかの革新性」と題された寄稿(前掲;p52~54)が意図したものとはまったくちがったものを読んだかと思いつつ、また関さんの記事の提起からはなれてしまったかと臍を噛みつつ、大澤茉実さんの言葉を大胆に拾って以下に引用します。
「私を変え、動かしたのは週に二度出勤するアルバイトだった。そこには私に似た女の子がたくさんいた。・・・援助交際に依存するJKに『私の命ってなんで大事なんですか?』と聞かれた。・・・彼女がどれだけたくさんの『好き』に裏切られてきたか、私は知っていた。それでもなお手を伸ばす彼女の姿に、自分が重なった。・・・彼女たちも私も、絶望を抱えながら生きている。・・・明日の命を探すのに必死なとき、国会の議論などに興味がもてるだろうか。だから私は命を馬鹿にする政治が許せなかった。・・・彼女が産みたかった子どもは、もう死んだ。たった一人の子を産み育てることを許さなかった政治が、いま安全保障関連法案を成立させようとしている。すでに数え切れないほどの命を見殺しにしてきた政権が、・・・」
「私は、よく語られるSEALDsのカッコ良さを何一つ持ちあわせていない。・・・早くSEALDsなんかやめてしまいたいとよく思う。それでも一緒に生きていきたい人たちがいる。取り戻したい私自身の人生がある。そんな私がオドオドしながら運動に加わるのもまたカッコ良いじゃないかと、去年までの布団のなかにいた自分を慰めたい。・・・あの頃も今も、繰り返し聞くアイドルの曲の歌詞を引用して結論に代える。
ー マイナスからのスタート舐めんな(でんぱ組 inc. 『W.WD』)」