<承前>
赤松小三郎が23歳のときに「清水流規矩術(測量法)」をまとめた冊子が見つかりました。これまで知られていなかった新史料です。
清水流の既存のテキストを単に写本しただけのものかも知れません。あるいは、清水流のエッセンスを小三郎の視点でまとめたノートなのかも知れません。まだよく分かっていません。これから調べます。
この冊子が書かれたのは嘉永5年なので、ペリー来航の一年前です。このとき赤松小三郎は若干23歳でした。この頃の小三郎は、まだ赤松家に養子に入っておらず、芦田清次郎という名でした。諱を「惟敬」と称しており、この冊子は芦田惟敬の名で書かれています。
この史料は、もともと上田のコレクターが持っていたものを、県外のコレクターに買い取られていたものの中に入っていました。「芦田惟敬」が赤松小三郎と同一人物だと気づかず、これまでちゃんと検討されていなかったそうです。
昨日、上田市立博物館の滝澤正幸館長が博物館所蔵の小三郎の他の史料と筆跡の比較を行い、小三郎の真筆と見て間違いないと判断されました。
樹木や城や曲った道など、さまざまな対象を事例として測量法が書きとめられています。当時の日本の測量技術を知ることができます。
こちらはまだ買い取りができていません。こちらも買い取りをして博物館に寄託したいと考えております。
「芦田惟敬」の名が入ったノート。
測量用具のスケッチ。
向かいの丘との標高差や谷底の幅などの測量法を具体的に記した図。
赤松小三郎が23歳のときに「清水流規矩術(測量法)」をまとめた冊子が見つかりました。これまで知られていなかった新史料です。
清水流の既存のテキストを単に写本しただけのものかも知れません。あるいは、清水流のエッセンスを小三郎の視点でまとめたノートなのかも知れません。まだよく分かっていません。これから調べます。
この冊子が書かれたのは嘉永5年なので、ペリー来航の一年前です。このとき赤松小三郎は若干23歳でした。この頃の小三郎は、まだ赤松家に養子に入っておらず、芦田清次郎という名でした。諱を「惟敬」と称しており、この冊子は芦田惟敬の名で書かれています。
この史料は、もともと上田のコレクターが持っていたものを、県外のコレクターに買い取られていたものの中に入っていました。「芦田惟敬」が赤松小三郎と同一人物だと気づかず、これまでちゃんと検討されていなかったそうです。
昨日、上田市立博物館の滝澤正幸館長が博物館所蔵の小三郎の他の史料と筆跡の比較を行い、小三郎の真筆と見て間違いないと判断されました。
樹木や城や曲った道など、さまざまな対象を事例として測量法が書きとめられています。当時の日本の測量技術を知ることができます。
こちらはまだ買い取りができていません。こちらも買い取りをして博物館に寄託したいと考えております。
「芦田惟敬」の名が入ったノート。
測量用具のスケッチ。
向かいの丘との標高差や谷底の幅などの測量法を具体的に記した図。