大河ドラマ「真田丸」で盛り上がる信州上田。4月から、上田の赤松小三郎記念館に、赤松直筆の建白書のレプリカが展示されるそうです。
東信ジャーナル(以下のサイト)から一部引用させていただきます。
http://shinshu.fm/MHz/22.56/archives/0000495127.html
上田市の赤松小三郎顕彰会(伊東邦夫会長)は上田藩士で幕末期に兵学者、政治思想家として活躍した赤松小三郎(1831ー1867)が慶応3年(1867)、幕府に提出した日本初の議会政治提唱を含む建言書(建白七策)のレプリカを制作した。 鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵の「玉里島津家史料」の原本から制作。上田市常磐城、丸山邸内の赤松小三郎記念館で4月から一般公開する(現在は冬季休館中。開館日は土、日、祝日)。
終わりには「頭を地面につけて首を投げ出す心でお願いいたします」との内容があり赤松の決死の覚悟がしのばれる。
これまで赤松小三郎の議会政治の建白書は、松平春嶽に出したものばかりが知られていました。春嶽版は、春嶽の政治記録書である『続再夢紀事』に全文が転載されているのですが、残念ながら小三郎直筆の原本は失われていました。小三郎に関心を寄せる人々も、小三郎直筆の原本は残っていないと思っていたはずです。
ところが、小三郎が島津久光に提出した島津版は小三郎直筆の原本が、島津家に大切に保管されていたのでした。歴史学者の青山忠正氏が、「玉里島津家史料」の中の原本を紹介するまで、島津版の存在は知られていませんでした(明治維新史学会編『講座明治維新 第2巻 幕末政治と社会変動』有志舎、2011年)。歴史学の論文等で島津版が紹介されることは青山氏の論文以前にはなかったはずです。
島津久光が赤松小三郎の建白書を大切に保管していたことから考えても、おそらく小三郎の暗殺に島津久光は関与していないのではないかと思います。私は、小三郎暗殺は、大久保利通と西郷隆盛の二人が、久光や小松帯刀には内緒で実行した、ある種の藩内クーデターであったと考えています。
島津版で注目点なのは、『続再夢紀事』には転載されていない、「万国普通公平の御国律(=民主憲法を指す)の制定を、頭を地面につけて首を投げ出す心でお願いいたします」といった、建白書の「後記」に相当する文章が残されていることです。
これこそ日本最初の議会政治・立憲民主主義の建白書です。本来であれば国会の憲政資料館に展示されるべき史料と思います。
現在、国会議事堂前にある憲政資料館に行くと、展示物の筆頭に置かれているのは坂本龍馬が慶応3年11月に起草した「新政府綱領八策」です。龍馬の政権構想というと、同じく慶応3年6月に起草されたという「船中八策」が有名ですが、この文書の実在は現在では疑問視されています。
龍馬が記した確かな文書は11月の「新政府綱領八策」であり、6月の「船中八策」というのは、歴史学者の青山忠正氏や知野文哉氏らによって、後年の明治時代になって、坂本龍馬の業績に箔をつけるために創作された「文書」ではないかと指摘されています。赤松小三郎の建白書は慶応3年5月で、龍馬の八策の5か月前のものです。また、「新政府綱領八策」は上下議政局は提案していても、普通選挙を提唱してはいません。
大河ドラマ真田丸との関連でいうと、赤松小三郎の人民平等への希求について、兵農分離をせず百姓と侍と町人を区別せず、領民を平等に扱おうとした真田昌幸の施政時代から上田に根付いてきた意識と私は考えています。
赤松小三郎記念館のある場所、映画るろうに剣心のロケ地になった場所でもあり、真田昌幸が上田城の惣構えとして掘らせた人工河川のほとりにあります。
東信ジャーナル(以下のサイト)から一部引用させていただきます。
http://shinshu.fm/MHz/22.56/archives/0000495127.html
上田市の赤松小三郎顕彰会(伊東邦夫会長)は上田藩士で幕末期に兵学者、政治思想家として活躍した赤松小三郎(1831ー1867)が慶応3年(1867)、幕府に提出した日本初の議会政治提唱を含む建言書(建白七策)のレプリカを制作した。 鹿児島県歴史資料センター黎明館所蔵の「玉里島津家史料」の原本から制作。上田市常磐城、丸山邸内の赤松小三郎記念館で4月から一般公開する(現在は冬季休館中。開館日は土、日、祝日)。
終わりには「頭を地面につけて首を投げ出す心でお願いいたします」との内容があり赤松の決死の覚悟がしのばれる。
これまで赤松小三郎の議会政治の建白書は、松平春嶽に出したものばかりが知られていました。春嶽版は、春嶽の政治記録書である『続再夢紀事』に全文が転載されているのですが、残念ながら小三郎直筆の原本は失われていました。小三郎に関心を寄せる人々も、小三郎直筆の原本は残っていないと思っていたはずです。
ところが、小三郎が島津久光に提出した島津版は小三郎直筆の原本が、島津家に大切に保管されていたのでした。歴史学者の青山忠正氏が、「玉里島津家史料」の中の原本を紹介するまで、島津版の存在は知られていませんでした(明治維新史学会編『講座明治維新 第2巻 幕末政治と社会変動』有志舎、2011年)。歴史学の論文等で島津版が紹介されることは青山氏の論文以前にはなかったはずです。
島津久光が赤松小三郎の建白書を大切に保管していたことから考えても、おそらく小三郎の暗殺に島津久光は関与していないのではないかと思います。私は、小三郎暗殺は、大久保利通と西郷隆盛の二人が、久光や小松帯刀には内緒で実行した、ある種の藩内クーデターであったと考えています。
島津版で注目点なのは、『続再夢紀事』には転載されていない、「万国普通公平の御国律(=民主憲法を指す)の制定を、頭を地面につけて首を投げ出す心でお願いいたします」といった、建白書の「後記」に相当する文章が残されていることです。
これこそ日本最初の議会政治・立憲民主主義の建白書です。本来であれば国会の憲政資料館に展示されるべき史料と思います。
現在、国会議事堂前にある憲政資料館に行くと、展示物の筆頭に置かれているのは坂本龍馬が慶応3年11月に起草した「新政府綱領八策」です。龍馬の政権構想というと、同じく慶応3年6月に起草されたという「船中八策」が有名ですが、この文書の実在は現在では疑問視されています。
龍馬が記した確かな文書は11月の「新政府綱領八策」であり、6月の「船中八策」というのは、歴史学者の青山忠正氏や知野文哉氏らによって、後年の明治時代になって、坂本龍馬の業績に箔をつけるために創作された「文書」ではないかと指摘されています。赤松小三郎の建白書は慶応3年5月で、龍馬の八策の5か月前のものです。また、「新政府綱領八策」は上下議政局は提案していても、普通選挙を提唱してはいません。
大河ドラマ真田丸との関連でいうと、赤松小三郎の人民平等への希求について、兵農分離をせず百姓と侍と町人を区別せず、領民を平等に扱おうとした真田昌幸の施政時代から上田に根付いてきた意識と私は考えています。
赤松小三郎記念館のある場所、映画るろうに剣心のロケ地になった場所でもあり、真田昌幸が上田城の惣構えとして掘らせた人工河川のほとりにあります。