前の記事の続きです。私は花ブナさんへの返信において、内閣は老中、大臣は奉行、首相は老中首座と呼び変えたらどうかと提起しました。それに対するデルタさんが下さったコメントが、これまた感動的なものでした。以下デルタさんのコメントを引用します。
***<デルタさんのコメントの引用>*****
老中、
なんか響きが硬い気が、雅にやまとことばで参りましょう。
首相……おとなのおとど
藩主……くにのおとな衆
議会……よりあい
財務省……みくらの司(つかさ)
文部科学省……まなびの司
文部省教官……まなびの司の まなびの匠
(↑これは藤森照信さんが冗談でいっておられたののパクリです)
*****<引用終わり>**********
詳しくはデルタさんのこの記事を参照。
私は「まなびの司」に関しては、国から藩へと移管すべきと思うのですが、まあそれは置いといて、やまと言葉はとってもいいですね~。げに雅な響きがいたします。こうしたやわらかな言葉を使っているだけで、恐ろしきいくさなど煽りたてる人々もいなくなりそうに思えます。
私も前から、なるべくやまと言葉を使いたいと夢見つつ、なかなか実行できませんでした。何せ、やまと言葉では学術論文が全く書けませんので・・・。
美しい日本語を書きたいという理想には、三つの段階があります。まずカタカナ語を使わないこと。次に、英語翻訳概念をなるべく使わないこと。そして最後には、なるべく漢語も使わずにやまと言葉を使うことです。
「公共」などという言葉は使わずに「おおやけ」、「政治」とは言わずに「まつりごと」、「会議・集会」ではなく「よりあい」、このように言い換えれば漢語の使用をずいぶんと削ることができるはずです。といっても、漢語は短い中に情報がギッシリと凝縮されますので、使うと便利なことは確かです。まあ「なるべく」ということで・・・。
安倍前首相の「美しい国」構想で何とも滑稽だったのは、彼自身が自分の政治思想をカタカナ言葉と翻訳言葉によってしか語ることができないことでした。
日本の右派も左派も基本的に欧米崇拝という点では何ら代わりがありません。同じアナのムジナです。自分たちの政治思想を表明するのに、欧米起源の概念(カタカナ語であれ、翻訳後であれ)によってしか表現することができないのです。
たとえば、昨年1月26日の安倍前首相の施政方針演説の中に次のような文章がありました。
***<安倍前首相の施政方針引用開始>****
自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値を共有する国々との連携の強化、オープンでイノベーションに富むアジアの構築、世界の平和と安定への貢献を3本の柱とし、真にアジアと世界の平和に貢献する「主張する外交」を更に推し進めてまいります。
*****<引用終わり>********
うーん、日本的・アジア的な概念は一つもない。カタカナ語のみならず、使われている言葉はすべて欧米起源の翻訳語ばかりです。何で欧米翻訳概念が、アジア共通の価値観になるのだろう? こんな言葉が氾濫してもちっとも「美しい国」にはなりませんね。
自由、民主主義、基本的人権・・・・ああ、もうこんな手アカがついた価値観は使わない方がよいでしょう。アジア共通の価値観というものは、自由・人権・民主主義などではありません。こんな価値観をアジアに普及するという外交方針は「全アジアを米国の支配下に組み込め」という主張と同義です。(私の書いたものですと、この記事と、この記事を参照ください)
前々回の記事のコメント欄でも、花ブナさんは、米沢藩主・上杉鷹山の自助・互助・扶助の三つの根本方針を紹介していました。「自由・人権・民主主義」よりも、自助・互助・扶助の方が社会の基本的価値としては、よほどすぐれているように思えます。「自助・互助・扶助」の三原理の中に、「自由・人権・民主主義」などすべて包み込まれ、さらに前者にはより広い含みがあります。
さて、デルタさんはリバータリアンなのですが廃県置藩論を支持してくださるようです。うーん、意外というか、おもしろいです。
アメリカの大統領選の共和党陣営を見ていても、共和党候補の中では、やっぱりリバータリアンのロン・ポール候補が最もよい主張をしているとは思います。何せ、一貫してイラク戦争に反対したのみならず、外国との軍事同盟を否定し、外国への不干渉主義を貫く主張が、外国人の私たちから見ればとてもうれしいことです。
さて私は、リバータリアンの外交政策を擁護する一方で、経済政策としてのリバータリアニズムを批判します。それは結局のところアナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)に至るだろうという一点についてです。現在のグローバル市場原理主義は、ある意味、無政府主義的資本主義への接近ですが、ご覧の通り結果は残酷なのものです。
ただロン・ポールさんの場合、WTOのような組織を認めない点、FRBを廃止して金本位制を復活させようとしている点など、金融業の無政府的暴走には歯止めをかけようとしているように見えます。
私自身、高校時代は、幸徳秋水の無政府共産主義思想にかぶれ、ピョードル・クロポトキンの自伝(『ある革命家の手記』)に涙し、クロポトキンの『相互扶助論』などを読んだものでした。
バクーニンやクロポトキンの左翼・無政府主義というのは、右翼・無(小)政府主義のリバータリアニズムと相通じるものがあるのです。右の極端と左の極端は円のように閉じてつながっているという・・・・。
もっとも無政府共産主義思想の方は、国家の強制による秩序維持機構を、共同体の相互扶助原理で置き換えようとするものでした。リバータリアンの場合、共同体的な互助原理をどのように考えているのでしょうか? アメリカのリバータリアンは、共同体ではなく「個人」に重きを置いているように見えます。リバータリアニズムと共同体主義の関係というものはどうなっているのでしょう?
クロポトキンの相互扶助論は、先ほどの上杉鷹山の「自助・互助・扶助」の三原理との関連させても面白いことです。クロポトキンの相互扶助は共同体内での助け合いを指し、鷹山の言うところの「互助」に相当するのでしょう。花ブナさんのお話しでは、鷹山のいう「扶助」は藩であれ国であれ、公がつかさどる再分配の領域を指すのだそうです。
そう、やはり政府(ご公儀)は必要になります。そう、私が無政府共産主義への信奉を止めたのも、結局、共同体社会内部のみでは再分配は完結せず、需要と供給の調和を保ち、貧富の格差の出ぬように広域的な再分配を実現するためには、ご公儀というものの必要性を認めざるを得ないと認識するに至ったからなのです。
***<デルタさんのコメントの引用>*****
老中、
なんか響きが硬い気が、雅にやまとことばで参りましょう。
首相……おとなのおとど
藩主……くにのおとな衆
議会……よりあい
財務省……みくらの司(つかさ)
文部科学省……まなびの司
文部省教官……まなびの司の まなびの匠
(↑これは藤森照信さんが冗談でいっておられたののパクリです)
*****<引用終わり>**********
詳しくはデルタさんのこの記事を参照。
私は「まなびの司」に関しては、国から藩へと移管すべきと思うのですが、まあそれは置いといて、やまと言葉はとってもいいですね~。げに雅な響きがいたします。こうしたやわらかな言葉を使っているだけで、恐ろしきいくさなど煽りたてる人々もいなくなりそうに思えます。
私も前から、なるべくやまと言葉を使いたいと夢見つつ、なかなか実行できませんでした。何せ、やまと言葉では学術論文が全く書けませんので・・・。
美しい日本語を書きたいという理想には、三つの段階があります。まずカタカナ語を使わないこと。次に、英語翻訳概念をなるべく使わないこと。そして最後には、なるべく漢語も使わずにやまと言葉を使うことです。
「公共」などという言葉は使わずに「おおやけ」、「政治」とは言わずに「まつりごと」、「会議・集会」ではなく「よりあい」、このように言い換えれば漢語の使用をずいぶんと削ることができるはずです。といっても、漢語は短い中に情報がギッシリと凝縮されますので、使うと便利なことは確かです。まあ「なるべく」ということで・・・。
安倍前首相の「美しい国」構想で何とも滑稽だったのは、彼自身が自分の政治思想をカタカナ言葉と翻訳言葉によってしか語ることができないことでした。
日本の右派も左派も基本的に欧米崇拝という点では何ら代わりがありません。同じアナのムジナです。自分たちの政治思想を表明するのに、欧米起源の概念(カタカナ語であれ、翻訳後であれ)によってしか表現することができないのです。
たとえば、昨年1月26日の安倍前首相の施政方針演説の中に次のような文章がありました。
***<安倍前首相の施政方針引用開始>****
自由、民主主義、基本的人権、法の支配といった基本的価値を共有する国々との連携の強化、オープンでイノベーションに富むアジアの構築、世界の平和と安定への貢献を3本の柱とし、真にアジアと世界の平和に貢献する「主張する外交」を更に推し進めてまいります。
*****<引用終わり>********
うーん、日本的・アジア的な概念は一つもない。カタカナ語のみならず、使われている言葉はすべて欧米起源の翻訳語ばかりです。何で欧米翻訳概念が、アジア共通の価値観になるのだろう? こんな言葉が氾濫してもちっとも「美しい国」にはなりませんね。
自由、民主主義、基本的人権・・・・ああ、もうこんな手アカがついた価値観は使わない方がよいでしょう。アジア共通の価値観というものは、自由・人権・民主主義などではありません。こんな価値観をアジアに普及するという外交方針は「全アジアを米国の支配下に組み込め」という主張と同義です。(私の書いたものですと、この記事と、この記事を参照ください)
前々回の記事のコメント欄でも、花ブナさんは、米沢藩主・上杉鷹山の自助・互助・扶助の三つの根本方針を紹介していました。「自由・人権・民主主義」よりも、自助・互助・扶助の方が社会の基本的価値としては、よほどすぐれているように思えます。「自助・互助・扶助」の三原理の中に、「自由・人権・民主主義」などすべて包み込まれ、さらに前者にはより広い含みがあります。
さて、デルタさんはリバータリアンなのですが廃県置藩論を支持してくださるようです。うーん、意外というか、おもしろいです。
アメリカの大統領選の共和党陣営を見ていても、共和党候補の中では、やっぱりリバータリアンのロン・ポール候補が最もよい主張をしているとは思います。何せ、一貫してイラク戦争に反対したのみならず、外国との軍事同盟を否定し、外国への不干渉主義を貫く主張が、外国人の私たちから見ればとてもうれしいことです。
さて私は、リバータリアンの外交政策を擁護する一方で、経済政策としてのリバータリアニズムを批判します。それは結局のところアナルコ・キャピタリズム(無政府資本主義)に至るだろうという一点についてです。現在のグローバル市場原理主義は、ある意味、無政府主義的資本主義への接近ですが、ご覧の通り結果は残酷なのものです。
ただロン・ポールさんの場合、WTOのような組織を認めない点、FRBを廃止して金本位制を復活させようとしている点など、金融業の無政府的暴走には歯止めをかけようとしているように見えます。
私自身、高校時代は、幸徳秋水の無政府共産主義思想にかぶれ、ピョードル・クロポトキンの自伝(『ある革命家の手記』)に涙し、クロポトキンの『相互扶助論』などを読んだものでした。
バクーニンやクロポトキンの左翼・無政府主義というのは、右翼・無(小)政府主義のリバータリアニズムと相通じるものがあるのです。右の極端と左の極端は円のように閉じてつながっているという・・・・。
もっとも無政府共産主義思想の方は、国家の強制による秩序維持機構を、共同体の相互扶助原理で置き換えようとするものでした。リバータリアンの場合、共同体的な互助原理をどのように考えているのでしょうか? アメリカのリバータリアンは、共同体ではなく「個人」に重きを置いているように見えます。リバータリアニズムと共同体主義の関係というものはどうなっているのでしょう?
クロポトキンの相互扶助論は、先ほどの上杉鷹山の「自助・互助・扶助」の三原理との関連させても面白いことです。クロポトキンの相互扶助は共同体内での助け合いを指し、鷹山の言うところの「互助」に相当するのでしょう。花ブナさんのお話しでは、鷹山のいう「扶助」は藩であれ国であれ、公がつかさどる再分配の領域を指すのだそうです。
そう、やはり政府(ご公儀)は必要になります。そう、私が無政府共産主義への信奉を止めたのも、結局、共同体社会内部のみでは再分配は完結せず、需要と供給の調和を保ち、貧富の格差の出ぬように広域的な再分配を実現するためには、ご公儀というものの必要性を認めざるを得ないと認識するに至ったからなのです。
私の新年最初の冗談から、このような面白いやりとりが始まり、私も楽しいです。
関さんと私と、イメージに描くところの違いをつらつら考えますと、
関さんの廃県置藩は、近世的な「相互扶助+法秩序」の社会を(例えば寺請制に象徴されるような、自治組織の体系化)
私の思い描く近未来像は、中世の再来
という点がもっとも大きいのかも知れません。
くにのオトナ衆と私が書いた時には、あきらかに中世の自治組織を意識してましたし(苦笑)
グローバリズム……これだって最近始まったことでないはずなのですが、それが徹底化することによって、社会が中世化しはじめているとの指摘があります。権力が並立し相対化していく、と指摘する人がいて、もともと日本の中世の歴史が好きだったのもあり、その頃の言葉が持つ今日的な意味に、私は注目しているところです。
(私にとってのリバタリアニズムとは、
・金融・経済・産業政策は思うように事が運ばないので、やらない。
・一つの機関が「法的正義」を独占しないで、むしろ自分が合意できる「法・倫理」のもとへ人々が集っていく。
の二点を特徴と考えてます)
>自由、民主主義、基本的人権
私はこれらを放棄するのが怖い。リークァンユー氏みたいになりそうで(苦笑)。これに対してはキムデジュン氏のように、異議を唱えておきたいです。
日本にも、人権に相当する思想が古くからありますよね、
「一切衆生悉有仏性」
などといいますし。
もちろん共助はそうあってほしいですが、そもそも鷹山のようなエライ人に指示されてやるようなことでないのでは、と私は考えます。
「こうすべし」という法規定があるからこそ、その裏をかいて人に先んじようとする人が出て、秩序が崩れるわけで、
自らの納得できる秩序を選び取った人ならば、その秩序が要請する範囲内で、裏切りあうことのない共助が始まるのでないかな、と考えます。
(そう、このあたりは老子の影響だったりします。私のいうこと、は脈絡のわからないパッチワークだナ-爆)
>という点がもっとも大きいのかも知れません。
なるほど。
やはり近江の中世って、一向宗門徒による高度に発達した自治組織の存在や、近江商人の活躍のイメージもあり、かなり明るいですね。
わが信州の中世っていうと、守護大名の小笠原氏にまったく力がなかったので、室町時代がはじまってすぐに群雄割拠の戦乱の世となりました。もう戦乱につぐ戦乱というイメージで、中世ってあまり明るいように感じられないんです(涙)。
でも、中世は流動性が高かったことも事実ですね。江戸近世の問題点は、たしかに階層の固定化でしょうか。江戸の分権的平和に、流動性をどのように組み込むのかが鍵になりそうに思います。
「近世と近代」ではなく、「中世と近世と近代」のアウフヘーベンにしましょうか。
>自由、民主主義、基本的人権
>私はこれらを放棄するのが怖い。リークァンユー氏>みたいになりそうで(苦笑)。
たしかに。
でも日本古来の思想で、これらを代替すればよいのですから。どんなにすばらしい思想であっても、押し付けようとすると抑圧に転化すると思います。
>そう、このあたりは老子の影響だったりします。
なるほど。
リバータリアンと老子ってけっこう相通じるものがあるのかも知れませんね。
いやー、勉強になります。
このような面白い議論、ぜひまた続けましょう。
そのような中で私は古代縄文文字と言われている「ヲシテ文字」に着目しています。その中に「ロのヲシテ」「トのオシテ」という理念があります。
・縄文文字ヲシテ を 復活!:トで考える、ロで考える
http://wosi.cocolog-nifty.com/blog/2006/06/post_8ee2.html
これが「自立と扶助」の根本的考えではないかと。
また、「扶助」というのは何か立場的・経済的・人間的にエライから、下々に与えるという類のものではなくて、根本は「親が子を思う気持ち」が具現化したものだと思います。だから扶助は多すぎても駄目で、必要なときには必要分だけ適切な形(金銭だけに拘らない)で扶助がなされる、これが理想と思います。扶助を行う「公」の実態は、共同体の歴史的連続性の上にある「親」の集合意識ということになります。それを適切に表現できる人物が「名君」なのだと思います。で、共同体別にカラーの異なる「親」が生まれますので、それを「やおよろず」の精神でゆるくまとめるわけです。私は日本の歴史の中に、近代を包んで超えるための材料が、すでに用意されているような気がします。私たちはそれを忘れたり、「近代」という色眼鏡を通して過去を見ているだけではないかと。
つまり、近代を包んで超える方法は、弁証法的なA対Bのアウフヘーベンではなくて、単なる「思い出し」で充分ではないかと思う今日この頃です。
>地霊と祖霊とでも呼びましょうか。東洋思想として
>真面目に考える必要があると思います(もちろんケ
>ルト文化などにも同様なものを感じますから、
世界各地のアニミズム信仰には同様の概念があったのでしょう。私もアニミズムが大好きです。
フィリピンやインドネシアに行くと、宗教のことをしつこく聞かれ、彼らは一神教以外は宗教と認めていないところがあります。(彼らも古来はアニミズム信仰だったのに・・・・)。それに反発して、フィリピンで、「お前の宗教はなんだ」と聞かれると、「アニートだ(タガログ語でアニミズムの意味)」と答えていたものでした。