昨日の記事の続きで複雑系の話題です。非平衡熱力学における複雑系理論の開拓者であり、ノーベル化学省を受賞したイリヤ・プリゴジンらは、ニュートンからラグランジュ、ハミルトンへと続く古典力学の流れの中で、「時間」は「失われた次元」となったと述べています(イリヤ・プリゴジン、イザベル・スタンジェール『混沌からの秩序』みすず書房、を参照)。
ラグランジュやハミルトンの解析力学の体系にあっては運動方程式の中から、時間(t)という次元が完全に失われてしまい、世界は可逆的で決定論的なシステムとして描かれました。物理現象において「時間」とはエントロピーの生成と密接に関わる概念なのですが、古典力学の体系においては、摩擦などエネルギーの散逸を完全に捨象した現象のみを「本来あるべき理想的なシステム」として想定したために、「可逆的で決定論的」という現実世界とはかけ離れた自然観を生み出しました。
私たちが日常に経験しているように、世界は偶然性に満ち溢れ、本質的に非決定論的で非可逆的なのですが、そうした「常識」は古典力学の「常識」と全く矛盾するものだったのです。
他方で、物理学の中に「非可逆性」の概念を埋め込んだのは熱力学でした。しかしカルノーが提起し、クラウジウスが定式化した熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)がもたらした思想は、宇宙のエントロピーは単調に増加し、「熱的死」に向かっている、というニュートンとは違った意味での決定論でした(しかもきわめて悲観的な)。
クラウジウス流の「悲観論」に満ちたエントロピー概念の刷新をはかり、開放系における平衡から遠く離れたシステムにおける分岐と構造生成の過程を探求し、「時間」を物理学研究の中心テーマに引き戻したのがプリゴジンの業績です。
さて問題の「新古典派経済学」とは、ラグランジュとハミルトンの解析力学の体系を全く模倣することによって構築された体系なのです。新古典派経済学は、解析力学を模倣したことによって、摩擦のない真空中の振り子の運動のようなナンセンスな過程を導入するようになってしまい、その体系の中からは「時間」の概念が失われてしまったのです。物理学の実験では、真空中の振り子の振動のような状態を再現して実験もできるわけですが、実際の経済現象でそのような「摩擦のない系」を想定すること事態が根本的にナンセンスなのです。経済システムの運動においては、そのような状態は「あり得ない」からです。
新古典派経済学には「時間」の概念がないので、まったく歴史を研究することはできません。経済史研究者のあいだでは今でもマルクスの人気が高いのは、そうした理由なのだと思います。
新古典派経済学の基礎をつくったレオン・ワルラスの一般均衡論は、基本的にラグランジュの解析力学をまるごと模倣したものです。
私は大学4年のときに初めてミクロ経済学(=新古典派経済学)というものを勉強してみましたが(独学で)、教科書の中に「ラグランジュの未定乗数法」が出てくることに、まず面くらいました。大学2年のときに「解析力学」の講義で習ったラグランジュの方程式が、なぜかミクロ経済学の教科書にそっくりそのまま書かれているではありませんか! 「あれー? これは変だぞ?」。
経験的には、古典力学が扱うメカニカルな現象と、動的でダイナミックに思える経済現象というものは似ても似つかないものです。全く違った現象が、同じモデルで語られているというのは明らかに変だといえるでしょう。
新古典派経済学においては、利潤最大化を求める生産者の行動は、解析力学における最小作用の原理に従う真空中の質点の運動になぞらえられているのです。ですから解析力学と同じ式が、経済学の教科書にも登場するというわけです。
企業経営者という意思をもった主体の行動が、意思を持たずに法則に従うだけの「真空中の物体の運動」になぞらえられているのですよ。経営者の皆さん、ずいぶんとなめられた話だと思いませんか?
私は大学4年のころ、経済学部の友人に以上のことを話すと、彼は「何だ、ラグランジュって物理学者だったのか」と驚いていました。どうやら経済学部では、そんな基礎的なことも教えずにラグランジュを受け売りしているようなのです。(もっとも私のいた大学のレベルが低すぎただけかも知れませんが……。)
さて、ワルラスが一般均衡論において、経済学に「最小作用の原理」を無理やりに導入するためには、「収穫逓減(=費用逓増)」という近代産業では現実にはあり得ないナンセンスな原理を導入せざるを得ませんでした。これは言ってしまえば「神の見えざる手」が機能することを主張したいがために導入された、まったくもって恣意的な仮定でした。この「収穫逓減」の仮定が崩れると、たとえ「真空の質点のように摩擦がなく可逆的である」とか「情報が対称である」とか、その他のナンセンスな仮定には目をつぶっても、なおかつ新古典派経済学の体系は根底から崩壊します。だって、「利潤最大点」も「生産停止点」もなくなるのですから、競争は決して均衡せず安定もせず、放っておけば独占に至るという傾向、つまりは決して「完全競争」など賛美できない、厳然たる真実が導き出されてしまうからです。
大学4年当時の私は次のような結論に達しました。ワルラスという物理学者になりたくてなれず、経済学者に転向したというコンプレックスのかたまりのような人物は、本当に経済現象を理解したくて研究をしたのではなく、たんにラグランジュの解析力学のように数学的に美しい体系にあこがれて、それを無理やりに社会科学に導入しようとしただけなのだ、と。(この点に関しては、荒川章義『思想史の中の近代経済学』中公新書、1999年、が見事に明らかにしています)。
複雑系経済学が、静学的な新古典派理論の誤謬を攻撃するその矛先は、まず「収穫逓減」という空想的原理へと向かいました。日本の塩沢由典氏、村上泰亮氏、サンタフェ研究所のブライアン・アーサー氏のいずれもそうです。それによって彼らは、市場の無謬性神話を信仰の領域にまで高めた新古典派経済学の教義に挑戦してきたというわけです。
私がもしどこかから、「ミクロ経済学を講義してくれ」と頼まれるようなことがあれば、まず「解析力学」を教えることでしょう。その後ではじめて、一般均衡論を講義することが可能になるからです。
そして学生たちは、経済学という学問が如何に物理学を模倣して構築されたのか、なぜあそこまで現実からかけ離れた体系をもっているのかを完全に理解できることでしょう。
私はミクロ経済学を完全に否定するわけではありません。少なくとも数学の勉強にはなります。恣意的な仮定を導入すれば、数学を使っていかなる空想的モデルも構築可能であり、従ってどんなウソでもつくことが可能になるということを教えるには良い教材だといえるでしょう。
さて、「複雑系の経済学」や「進化経済学」を構築しようという近年の試みは、プリゴジンが非平衡熱力学で試みたように、経済学に「時間」の次元を埋め込み、「均衡」概念をラディカルに解体して、静学から動学へのパラダイム転換を図ろうとする試みなのだと、私は理解しています。ですから私は、彼らを応援しています。
ラグランジュやハミルトンの解析力学の体系にあっては運動方程式の中から、時間(t)という次元が完全に失われてしまい、世界は可逆的で決定論的なシステムとして描かれました。物理現象において「時間」とはエントロピーの生成と密接に関わる概念なのですが、古典力学の体系においては、摩擦などエネルギーの散逸を完全に捨象した現象のみを「本来あるべき理想的なシステム」として想定したために、「可逆的で決定論的」という現実世界とはかけ離れた自然観を生み出しました。
私たちが日常に経験しているように、世界は偶然性に満ち溢れ、本質的に非決定論的で非可逆的なのですが、そうした「常識」は古典力学の「常識」と全く矛盾するものだったのです。
他方で、物理学の中に「非可逆性」の概念を埋め込んだのは熱力学でした。しかしカルノーが提起し、クラウジウスが定式化した熱力学第二法則(エントロピー増大の法則)がもたらした思想は、宇宙のエントロピーは単調に増加し、「熱的死」に向かっている、というニュートンとは違った意味での決定論でした(しかもきわめて悲観的な)。
クラウジウス流の「悲観論」に満ちたエントロピー概念の刷新をはかり、開放系における平衡から遠く離れたシステムにおける分岐と構造生成の過程を探求し、「時間」を物理学研究の中心テーマに引き戻したのがプリゴジンの業績です。
さて問題の「新古典派経済学」とは、ラグランジュとハミルトンの解析力学の体系を全く模倣することによって構築された体系なのです。新古典派経済学は、解析力学を模倣したことによって、摩擦のない真空中の振り子の運動のようなナンセンスな過程を導入するようになってしまい、その体系の中からは「時間」の概念が失われてしまったのです。物理学の実験では、真空中の振り子の振動のような状態を再現して実験もできるわけですが、実際の経済現象でそのような「摩擦のない系」を想定すること事態が根本的にナンセンスなのです。経済システムの運動においては、そのような状態は「あり得ない」からです。
新古典派経済学には「時間」の概念がないので、まったく歴史を研究することはできません。経済史研究者のあいだでは今でもマルクスの人気が高いのは、そうした理由なのだと思います。
新古典派経済学の基礎をつくったレオン・ワルラスの一般均衡論は、基本的にラグランジュの解析力学をまるごと模倣したものです。
私は大学4年のときに初めてミクロ経済学(=新古典派経済学)というものを勉強してみましたが(独学で)、教科書の中に「ラグランジュの未定乗数法」が出てくることに、まず面くらいました。大学2年のときに「解析力学」の講義で習ったラグランジュの方程式が、なぜかミクロ経済学の教科書にそっくりそのまま書かれているではありませんか! 「あれー? これは変だぞ?」。
経験的には、古典力学が扱うメカニカルな現象と、動的でダイナミックに思える経済現象というものは似ても似つかないものです。全く違った現象が、同じモデルで語られているというのは明らかに変だといえるでしょう。
新古典派経済学においては、利潤最大化を求める生産者の行動は、解析力学における最小作用の原理に従う真空中の質点の運動になぞらえられているのです。ですから解析力学と同じ式が、経済学の教科書にも登場するというわけです。
企業経営者という意思をもった主体の行動が、意思を持たずに法則に従うだけの「真空中の物体の運動」になぞらえられているのですよ。経営者の皆さん、ずいぶんとなめられた話だと思いませんか?
私は大学4年のころ、経済学部の友人に以上のことを話すと、彼は「何だ、ラグランジュって物理学者だったのか」と驚いていました。どうやら経済学部では、そんな基礎的なことも教えずにラグランジュを受け売りしているようなのです。(もっとも私のいた大学のレベルが低すぎただけかも知れませんが……。)
さて、ワルラスが一般均衡論において、経済学に「最小作用の原理」を無理やりに導入するためには、「収穫逓減(=費用逓増)」という近代産業では現実にはあり得ないナンセンスな原理を導入せざるを得ませんでした。これは言ってしまえば「神の見えざる手」が機能することを主張したいがために導入された、まったくもって恣意的な仮定でした。この「収穫逓減」の仮定が崩れると、たとえ「真空の質点のように摩擦がなく可逆的である」とか「情報が対称である」とか、その他のナンセンスな仮定には目をつぶっても、なおかつ新古典派経済学の体系は根底から崩壊します。だって、「利潤最大点」も「生産停止点」もなくなるのですから、競争は決して均衡せず安定もせず、放っておけば独占に至るという傾向、つまりは決して「完全競争」など賛美できない、厳然たる真実が導き出されてしまうからです。
大学4年当時の私は次のような結論に達しました。ワルラスという物理学者になりたくてなれず、経済学者に転向したというコンプレックスのかたまりのような人物は、本当に経済現象を理解したくて研究をしたのではなく、たんにラグランジュの解析力学のように数学的に美しい体系にあこがれて、それを無理やりに社会科学に導入しようとしただけなのだ、と。(この点に関しては、荒川章義『思想史の中の近代経済学』中公新書、1999年、が見事に明らかにしています)。
複雑系経済学が、静学的な新古典派理論の誤謬を攻撃するその矛先は、まず「収穫逓減」という空想的原理へと向かいました。日本の塩沢由典氏、村上泰亮氏、サンタフェ研究所のブライアン・アーサー氏のいずれもそうです。それによって彼らは、市場の無謬性神話を信仰の領域にまで高めた新古典派経済学の教義に挑戦してきたというわけです。
私がもしどこかから、「ミクロ経済学を講義してくれ」と頼まれるようなことがあれば、まず「解析力学」を教えることでしょう。その後ではじめて、一般均衡論を講義することが可能になるからです。
そして学生たちは、経済学という学問が如何に物理学を模倣して構築されたのか、なぜあそこまで現実からかけ離れた体系をもっているのかを完全に理解できることでしょう。
私はミクロ経済学を完全に否定するわけではありません。少なくとも数学の勉強にはなります。恣意的な仮定を導入すれば、数学を使っていかなる空想的モデルも構築可能であり、従ってどんなウソでもつくことが可能になるということを教えるには良い教材だといえるでしょう。
さて、「複雑系の経済学」や「進化経済学」を構築しようという近年の試みは、プリゴジンが非平衡熱力学で試みたように、経済学に「時間」の次元を埋め込み、「均衡」概念をラディカルに解体して、静学から動学へのパラダイム転換を図ろうとする試みなのだと、私は理解しています。ですから私は、彼らを応援しています。
http://d.hatena.ne.jp/suikyojin/20041126
酔狂人さんのブログも楽しく拝読させていただきました。酔狂人さんの経済学批判の内容にはほぼ同意いたします。これからも「トンデモ経済学」世界から駆逐するために頑張りましょう。
高校生たち学生が、今の経済学が「トンデモ」であると見抜いて、誰も受験しなくなれば、まさに「市場の力」によって彼らは自滅するのではないでしょうか? その意味でも、こうした場で少しでも啓蒙していくことは重要ですね。
また私は、「収穫逓減説」は天動説における周転円説以下ではないかと思います。とりあえず周転円の理論でも惑星の軌道計算をすることがきたので、あの説は1600年も生き延びたのだと思います。惑星の軌道が楕円であることを発見したケプラーが周転円説を倒しましたが、それはケプラーが行なった惑星の軌道計算が、周転円説よりも高い精度で、実際の位置予報できたからです。
ところが収穫逓減説では、現実を全く説明できません・・・・。テレビでも自動車でも、だいたい普及速度はロジスティック曲線に従いますが、これは収穫逓減説では、まったく説明することはできません。収穫逓増を仮定して、はじめて、なぜロジスティック曲線になるのかを説明できます。
現実を説明できない理論が生き延びるというのは、自然科学を研究した人間の目から見ると信じられないことです。ホントに、酔狂人さんの言われるように「ブードゥー教以下」だと思います。
結局、この説が生き延びている理由を説明するには、「支配者(独占大企業)にとって都合がよいから」という政治学的な説明をするしかないのだと思います。
需要関数も供給関数も、時系列データから推定していますが、この方法も全くナンセンスだと思います。だって時間が立てば、消費者の嗜好も変わっていますし、工場だって生産ラインや人員その他が変化しているのですから、需要曲線や供給曲線が元の場所に存在するはずがないのですから!
では、これからもよろしくお願いいたします。
需要関数に関する新古典派の説明と批判
供給関数に関する新古典派の説明と批判
について教えていただけませんか。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/4b3d047b9e1110e74489b3034eef0118
分かりやすく書かれているのは、塩沢由典先生の『複雑系経済学入門』(生産性出版、1997年)だと思います。その本をぜひご覧ください。身近な図書館にもあると思います。