代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

上田に戻った赤松小三郎の遺品(銃・八分儀・弾薬箱)の展示が始まる

2020年01月23日 | 赤松小三郎
 昨年から赤松小三郎研究会の有志でお金を出し合って、県外に流出していた赤松小三郎の遺品の買い取りを始めています。今月から、上田市立博物館で、昨年買い取りをしたミニエー銃(エンフィールド銃)、八分儀、弾薬箱の三点の展示が始まりました。(以下の記事参照)。興味のある皆さま、ぜひ一度足を運んでみてください。

 今回博物館に寄託した品々は、もともと赤松家にあったものですが、上田のコレクター(故人)の手に渡り、さらにそのコレクターから県外のコレクターの手に渡っておりました。上田から流出したものは他にもあり、まだまだ買い取りが必要で、これからも捜索の旅は続きそうです。
 初めに赤松家から買い取っておられた上田のコレクターの方は、ご自宅の資料館で展示していました。ところが、その資料館は何と火災にあって消失してしまい、灰塵に帰してしまった貴重な資料も少なくありません。今回買い取った三点は、火災の前に、県外のコレクターの手に渡っていたので、危ういところを消失から逃れていたものなのです。

 人から人へ、めぐりめぐって上田に戻ってきた赤松小三郎の遺品ですが、買いもどすきっかけになったのもいろいろと数奇な縁がありました。一つ一つの品には、人それぞれの想いがこめられており、また数奇な物語が背後にあります。捜索の旅を続ける中で、何か『ビブリア古書堂の事件手帖』の主人公の栞子さんのような気分になったものでした。

 八分儀はアメリカのニューヨーク制で、「宇宙堂」というラベルが貼ってあり、数学者の内田弥太郎のマテマテカ塾の備品だったと思われます。この八分儀が小三郎の手に渡ったことそのものにも、興味深いエピソードがありそうです。
 史料を探すと、年月不詳の、赤松小三郎の実父・芦田勘兵衛から清次郎(赤松小三郎)宛の手紙に、「量蓋オクタント借用の由、折角出精致すべく候」とあるのを見つけました(上田市立博物館編『赤松小三郎・松平忠厚』7ページ)。書かれている内容から、この手紙は、ペリー来航以前のものです。当時の小三郎はまだ二十歳そこそこです。どうやら小三郎は、師匠の内田弥太郎からオクタント(=八分儀)を貸してもらえたことがよほど嬉しくて、実家のお父さんに手紙で報告していたようなのです。
 もしかしたらこの八分儀、小三郎が内田塾から借りたままになってしまっていたのかも知れません。あるいは、その後、より精度の高い六分儀が普及したので、八分儀は不要になって小三郎がもらい受けたのかも知れません。
 それにしても、内田塾には、ペリー来航以前から、米国製の八分儀が備品としてあり、塾生たちはこれで天体観測から緯度経度の測定まで演習として行っていたということです。まだ遠洋航海などできなかった時代なので、すごいことだと思います。

 

『信濃毎日新聞』2020年1月18日 

 ネットではこちらにも記事があります。

「東信ジャーナル」2020年1月21日
https://shinshu.fm/MHz/22.56/archives/0000594702.html

北陸・信越観光ナビ
https://www.hokurikushinkansen-navi.jp/pc/news/article.php?id=NEWS0000022874


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