代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

真田丸第一回の感想など ―昌幸は勝頼を最後まで救おうとしていた

2016年01月10日 | 真田戦記 その深層
  真田丸の第一回の感想など簡単に書いておきます。(毎回書くとは限りませんが・・・・)

 武田勝頼役の平岳大さんがあまりにもすばらしく、武田ファンの方々は感涙ものだったのではないかと思います。わずか二回しか出てこないのが本当に惜しいと思いました。2年前の天正8年ころからドラマを始めてくれれば、もっと勝頼の姿が見れたのに・・・と少し残念に思えました。

 真田昌幸の草刈正雄さんと、穴山梅雪の榎本孝明さんの二人のやり取りは、真田太平記ファンへのオマージュでしょうか。あの二人、真田太平記では真田幸村役と樋口角兵衛役なのです。二人の共演は、30年前を思い出します。

 小山田信茂の居城・岩殿城の地元の大月の方々にとっては、ちょっとドラマに不満があったかも知れません。小山田信茂の描き方はちょっと・・・。大月では、小山田信茂は自分の命と引き換えに、戦火から領民を救った名君と評価されています。

 30年前に放映された「真田太平記」では、武田家滅亡当時、源三郎と源次郎および家族の皆は岩櫃城にいたことになっていました。ふつうに考えれば真田昌幸の家族はみな新府にいたはずなので、今回の真田丸の設定の方がリアリティが増していたと思います。家族で逃避行して岩櫃まで落ち延びたというストーリーの方が、真実味があります。

 村松殿と小山田茂誠が、武田勝頼の命により夫婦で別れて、夫が岩殿城へ、妻が岩櫃城へ・・・というストーリーは、ちょっとあり得ない設定かなと思いました。現実は、たぶん、武田家滅亡時にはまだあの二人は結婚していなくて、真田昌幸が独立してから、小山田茂誠が昌幸を頼って仕官してきて、そのあと村松殿と結婚したのではないかと思います。 
 
 ドラマの余談になりますが、「真田昌幸は岩櫃城に武田勝頼を迎えようとするときに、実はすでに北条と通じていたのだ。昌幸が最後まで勝頼に忠誠を尽くしていたというのはウソだ」とdisる方々がたくさんいます。それに対する私の見解を簡潔に書いておきます。

 真田昌幸が、勝頼滅亡以前に北条に手紙を出していたのは、事実と思われます。武田家滅亡直後に北条氏邦から真田昌幸への手紙が残っていて(天正10年3月12日付。勝頼が自害したのは3月11日)、それ以前から手紙のやり取りをしていたことが伺えるからです。

 しかし、それは昌幸が勝頼を裏切ろうとしていたということを意味しません。だって、織田=徳川連合軍を岩櫃城に迎え撃とうというのに、北条まで岩櫃城に攻めてきたのでは、さすがの昌幸でも、いかに岩櫃城が堅城でも、どうにもならないでしょう。北条が味方に、あるいはそれは無理でも、せめて中立でいてくれないことには、織田=徳川連合軍と戦えるわけがない。
 昌幸が、勝頼を迎えて岩櫃城で籠城するにしても、せめて北条には中立でいてもらおうと、接触をはかるのは当然の軍略でしょう。

 勝頼が頼った小山田家も、北条領と武田領の境界付近を領地としていて、元来、北条とも深い関係にあります。勝頼が小山田を頼ろうとして岩殿城へ行こうということ自体、その背後にいる北条に頼ろうとしたことを意味します。勝頼の夫人は北条氏康の娘です。北条氏直の母は、武田信玄の娘の黄梅院です。北条が中立でいてくれることを期待しなければ、岩殿に行くというのはあり得ない選択だからです。岩殿城のすぐ東はすでに北条領なのですから、西から織田=徳川に攻められる中、東から北条に突かれれば、さしもの岩殿城もひとたまりもないからです。

PS ちなみに、岩櫃城がどれだけの堅城か、ドラマのオープニングに出てきた山城、あの岩だらけの山が岩櫃城です。私は、もう岩櫃城のあの映像見ただけで感涙ものでした。ちなみに滝は、岩櫃城にあるものではありません。須坂市にある米子大瀑布で、岩櫃城と滝の二つの映像をそれぞれ撮影して上下に重ねたのだそうです。ちなみ米子大瀑布は、真田家が信仰の対象にしていた聖なる山、四阿山から流れ出たものですので、いずれも真田関連の映像です。


<追記>(1月13日)
 上の記述、ドラマ直後に即興で書いたので、不十分でした。事実関係に関して、追記します。
 大河ドラマの時代考証を担当している平山優氏の『真田信繁』(角川選書、2015年)によれば、武田家滅亡時の真田一族の逃避行に関しては、史料ごとに若干異なっているそうです。
 『古今沼田記』では、昌幸は先に岩櫃に帰っており、信幸・信繁らが家族を引き連れ、矢沢、大熊らの家臣が護衛しながら新府を逃れ岩櫃に行ったことになっている。
 『滋野世記』では、昌幸自らが家族を引き連れて新府を経ち途中に何度も一揆に襲われながら岩櫃に帰還。
 『真武内伝』では、昌幸自ら家族を引き連れ、岩櫃ではなく沼田へ帰還となっている、とのことです。
 
 それぞれ微妙に違うようですが、大河「真田丸」のストーリーは、『古今沼田記』の記述にいちばん近いというところでしょうか。

 その他、国立国会図書館の近代デジタルライブラリーで『加沢記』(沼田藩真田家の家臣の書いた史書)の記述を確認しました(以下のリンク先)。

 『加沢記』の記述がいちばん大河のストーリーに近いのかも知れません。『加沢記』でも、昌幸は勝頼を迎える準備をしに岩櫃に先に帰還。残された新府城で、勝頼は小山田の言に従って岩殿城行きを決定、そこで勝頼が直々に真田信幸を呼び出して「小山田の言に従うので、昌幸の言う通りにできず悪いことをした(昌幸我を言甲斐なき者と思ふらん)」と詫びた上で、「母と弟その他一族の人質を免じ、末繁盛されよと、杯を授け、龍蹄(駿馬)と金作の太刀も信幸に下賜し、涙を流した」とあります。この記述など、まさに前回の大河に出てきた哀しきも優しい勝頼の姿そのものですね。
 新府を発った信幸一行は、道中で一揆や野盗に襲われ、母は自害まで決意するという、まさに危機一髪であった様子が描写されています。
 またドラマでの「松」こと村松殿もこの一行の中に参加しています。「村松殿と小山田茂誠が、武田勝頼の命により夫婦で別れて、夫が岩殿城へ、妻が岩櫃城へ・・・というストーリーは、ちょっとあり得ない」と上の記事に書きましたが、この加沢記読むと本当にそうだったのかも知れないと思えてきました。今回の大河ドラマの時代考証はすばらしいです。史実に関しては、安心して視聴できそうです。
 なお、信繁のことは、『加沢記』には、「藤蔵」と記述されています。
 
 『加沢記』巻の四 「甲州御没落昌幸公御父子御働之事」(47~50コマ)参照
  
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961/42?tocOpened=1

 


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1 コメント

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Unknown (kokuzo)
2016-01-13 10:19:07
後ほど太郎山・虚空蔵山についてコメント入れます。
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