代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

信繁から幸村への改名は堺雅人さんと三谷幸喜さんの判断に委ねよう

2016年01月10日 | 真田戦記 その深層

 今晩から大河ドラマ「真田丸」が始まる。正月から大河ドラマのプロモーションのための真田関連番組が続き秀作が多かった。1月7日放映の大坂の陣の真田丸攻防戦に関する歴史秘話ヒストリアなど、すばらしかった。
 ただ、「信繁」と「幸村」という二つの名前が飛び交っていて、どちらの名前を使うか、かなり多くの方々が混乱している。私は、このブログでも過去たびたび書いてきたが、信繁は大坂入場後に幸村と改名したのだと思っている。

 昨年6月、「真田丸」のチーフプロデューサーの屋敷陽太郎さんの講演会に行った際、会場から私は以下のような質問をした。「真田信繁という名前で通すようですが、ご再考ください。信繁は大坂入城後に幸村と改名したのだと思います。史料的根拠はないといえばないのですが、あえて根拠といえば、彼の性格なら改名しないわけがないからです」と。

 講演会が終わってから、なんと屋敷さんはわざわざ私のところに来てくださって、「たしかに改名している可能性はありますね」とおっしゃって下さった。信繁から幸村への改名問題に関しては、屋敷さんもだいぶ迷っているご様子であった。

 「幸村」という名前をどうドラマの中でどう扱うかに関して、制作サイドもまだ詳細を決めていないようである。この問題、ドラマ本編の終盤で明らかにされる「謎」ということにしておけば良いのではなかろうか。視聴者も信繁の人生を一緒に追体験しながら、信繁の気持になってみて、改名すべきか否か、楽しみながら視聴するというのが面白いだろう。ドラマで一つ盛り上がる謎解きのポイントになると思う。
 
 おそらく、現在の日本において、もっともよく真田信繁の気持を理解しているうちの二人が、堺雅人さんと三谷幸喜さんだと思う。いまの堺雅人さんは、ほぼ真田信繁になっている。1月2日放映のブラタモリで、上杉方の虚空蔵山城を見て、「あそこに上杉がいたのか。怖い、怖い」と言っておられた。出てくる発言が、堺雅人の発言ではなく、真田信繁の発言になっているのだ。堺雅人ならば上杉の山城を見ても怖いと思わないはずだが、真田信繁ならば実際に怖いと思うはずだからである。プロの役者はこうなのだと敬服した。

 なんでも堺さん、真田信繁が書いた手紙を実際に筆写して本人の気持ちを汲み取ろうとしているそうである。信繁本人がどのような気持ちでいたのか理解しようと思えば、本人の手紙を書き写してみるというのは最良のアプローチだろう。
 まだ三谷さんも大坂入城まで脚本が進んでいないだろう。いまの堺雅人さんは、まだ青年期の信繁の人生を追体験中なので、まだ晩年の信繁の気持には至っていないはずである。九度山での配流暮らしを経験してみて、大坂から声がかかったとき、果たして信繁のまま入城するか、それとも改名する気になるかどうか、三谷さんと堺さんが至った心境を信じるのがよいだろう。「幸村」という名を本人が実際に使ったかどうかの判断は、三谷さんと堺さんに委ねるのがよい。


<補記>
 信繁が幸村に改名する根拠として、私も過去に書いたが、信州上田観光大使の六龍堂さんがツイッターで次のように書いておられたので紹介したい。

 https://twitter.com/ROKURYUDO

あの世代の信玄公の小姓あがりの方々は『昌』の字を冠してる昌ブラザーズだから、昌幸さまのお名前は武田と真田のハイブリッドなのよねぇ、と。
強いはずだわ。

で、武田が滅亡して独り立ちした時、すごい人生の転換期なんだから改名してもおかしくないのに(元康→家康みたいに)このハイブリッド名のまんまというのは、やっぱり武田家…ていうか信玄公に本当に心酔していたんだろうなぁ…。
って考えてたら昌幸さまが超可愛くなってきた。

息子にもハイブリッド名『信幸』をつけるあたりにもそのあたりの心情があるような気が。そして次男は『信繁』。理想の主従兄弟だったんだろうなぁ。あの武田兄弟の関係を、息子たちにも築いてほしかったのかもなぁ。

信幸さまも『ウチの弟の名前、典厩さまと同じ』って言ってるから、幸村さまも自分の名前の意味合いはよく理解してると思うんだ。だから余計に大坂で戦うにあたり、兄を支える意味の名前のままでは戦いにくかったんじゃなかったのかなと思う。なので私は大坂にて幸村に改名派です。

そう考えると信幸さまが『信之』に改名したのも、すごい決心だったのだなぁと。だから余計に幸村さまは『幸』を名乗りたかったのかも。密かに真田の長の証である『幸』に憧れてたのかもしれない。いかん、萌える。


 重要なポイントだと思う。信繁という名前は、武田信玄の弟の武田典厩信繁からとったものであろう。真田昌幸(当時は武藤喜兵衛)の初陣は永禄4年の川中島合戦であり、その合戦で、武田信玄を陰に支え続けてきた弟の典厩信繁は壮烈な戦死を遂げた。若き真田昌幸には鮮烈な印象だったに違いない。

 そして次男の弁丸の元服に際し、長男の信幸を支える典厩信繁のようになって欲しいという願いをこめて、「信繁」と命名したに相違ない。信繁も典厩信繁の話を父から繰り返し聞かされたに相違ない。いざとなったら、家を守るために、兄の身代わりになって死ぬことをも辞さないのが次男の務め、と。
 しかし大坂入城の決意をした時点で、兄とは敵味方となり、典厩信繁のようには生きられなくなってしまった。大坂入城は、「信繁」という名に対する背徳行為である。典厩のように生きることを放棄することを意味する。兄と対決してでも徳川家康を倒すと決意したからには、信繁のまま大坂へは行けないはずなのである。

  


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