最近読んだ『伝記』という戦前の雑誌に掲載されていた赤松小三郎伝の一節を紹介したい。千野紫々男著「幕末の先覚者 赤松小三郎」『伝記』南光社(1935年5月号、6月号)である。薩摩出身の日本陸海軍の重鎮たちが、恩師赤松小三郎についてどのように考えていたのかに関して興味深い記述があった。
***千野、前掲雑誌、5月号、65頁より引用***
日露戦争後、野津(道貫)、東郷(平八郎)、川村(景明)、黒木(為)、井上(良馨)、伊東(祐亨)、伊集院(五郎)の諸星、郷里鹿児島へ帰って一堂に会した機会があった。一同、談たまたま舊師、赤松小三郎のことに及んだ。
『赤松先生暗殺の当時は、篠原国幹の箝口令に遭ったが、今の世となっては何の憚る所もない。幕末明治にかけて、薩人が国家の要路に在って、断然雄視し得たるもの、又今日我々が露国を撃攘して、故山に錦繍を飾り得たのも、思へば赤松先生の薫陶の賜物とも言ふべきである。』と一同追慕の情を披瀝しつつその徳を偲んだのであった。
***引用終わり****
著者の千野氏が、この話を誰から、どのような経由で聞いたのか、何も書かれていない。話の出所が不確かなのは残念で仕方がない。
小三郎の門人であった東郷平八郎と上村彦之丞は、日露戦争に勝利した翌年の明治39年5月、善光寺で行われた戦没者慰霊祭の帰路に上田に立ち寄り赤松の墓参をしている。事前にこのようなエピソードがあったとするならば、明治39年に東郷らの墓参が行われた背景も理解しやすい。
篠原国幹が箝口令を布いたという話は、千野氏のこの文章を読んで初めて聞いた話であった。
篠原自身は、中村半次郎が赤松小三郎を「幕府の密偵」と主張したのに対し、「その誤解なるを力説した」そうである。しかし、中村らは暗殺してしまった。篠原は、事ここに至ったからには「薩摩藩の不名誉不徳これより大なるはない。先生の横死は惜みても余りあれども既に詮方ない。いづれにせよ藩の面目には換へ難い。暗殺のことは絶対に秘密とせねばならぬ。今後この事について聊かも口外したるものは、立所に斬罪に処する。」と、藩士たちに箝口令を布いたのだという。(前掲、6月号、54頁)。
野津道貫は、小三郎が暗殺されると仇討も考えたが果たせなかったという。西南戦争の折、野津が政府軍に身を置いて桐野や篠原や西郷らと戦うのに躊躇しなかったのは、このときの無念さが背景にあったからかも知れない。
東郷平八郎は、のちに赤松小三郎の顕彰碑の碑文の揮毫も行った(上田城の二の丸にある石碑がそれである)。東郷が小三郎に繰り返し弔意を示したことは、師の恩を深く胸に刻み込んでいたからであることは疑う余地がない。しかしその東郷にしても、暗殺事件そのものついては生涯語らなかった。昭和8年には長野県の教育家・岩崎長思が、赤松暗殺事件究明のための取材を東郷に申し入れたが、東郷は「語りたくない」と伝え、取材を断ったそうである。(前掲、6月号、55頁)
東郷にしても野津にしても、同郷人同士の集まりの際には小三郎の薫陶を偲んでいたとしても、やはり対外的には薩摩の「不名誉不徳」について語ることは憚られたのか。薩摩に不名誉であっても、小三郎の名誉のために、何か語って欲しかった。
***千野、前掲雑誌、5月号、65頁より引用***
日露戦争後、野津(道貫)、東郷(平八郎)、川村(景明)、黒木(為)、井上(良馨)、伊東(祐亨)、伊集院(五郎)の諸星、郷里鹿児島へ帰って一堂に会した機会があった。一同、談たまたま舊師、赤松小三郎のことに及んだ。
『赤松先生暗殺の当時は、篠原国幹の箝口令に遭ったが、今の世となっては何の憚る所もない。幕末明治にかけて、薩人が国家の要路に在って、断然雄視し得たるもの、又今日我々が露国を撃攘して、故山に錦繍を飾り得たのも、思へば赤松先生の薫陶の賜物とも言ふべきである。』と一同追慕の情を披瀝しつつその徳を偲んだのであった。
***引用終わり****
著者の千野氏が、この話を誰から、どのような経由で聞いたのか、何も書かれていない。話の出所が不確かなのは残念で仕方がない。
小三郎の門人であった東郷平八郎と上村彦之丞は、日露戦争に勝利した翌年の明治39年5月、善光寺で行われた戦没者慰霊祭の帰路に上田に立ち寄り赤松の墓参をしている。事前にこのようなエピソードがあったとするならば、明治39年に東郷らの墓参が行われた背景も理解しやすい。
篠原国幹が箝口令を布いたという話は、千野氏のこの文章を読んで初めて聞いた話であった。
篠原自身は、中村半次郎が赤松小三郎を「幕府の密偵」と主張したのに対し、「その誤解なるを力説した」そうである。しかし、中村らは暗殺してしまった。篠原は、事ここに至ったからには「薩摩藩の不名誉不徳これより大なるはない。先生の横死は惜みても余りあれども既に詮方ない。いづれにせよ藩の面目には換へ難い。暗殺のことは絶対に秘密とせねばならぬ。今後この事について聊かも口外したるものは、立所に斬罪に処する。」と、藩士たちに箝口令を布いたのだという。(前掲、6月号、54頁)。
野津道貫は、小三郎が暗殺されると仇討も考えたが果たせなかったという。西南戦争の折、野津が政府軍に身を置いて桐野や篠原や西郷らと戦うのに躊躇しなかったのは、このときの無念さが背景にあったからかも知れない。
東郷平八郎は、のちに赤松小三郎の顕彰碑の碑文の揮毫も行った(上田城の二の丸にある石碑がそれである)。東郷が小三郎に繰り返し弔意を示したことは、師の恩を深く胸に刻み込んでいたからであることは疑う余地がない。しかしその東郷にしても、暗殺事件そのものついては生涯語らなかった。昭和8年には長野県の教育家・岩崎長思が、赤松暗殺事件究明のための取材を東郷に申し入れたが、東郷は「語りたくない」と伝え、取材を断ったそうである。(前掲、6月号、55頁)
東郷にしても野津にしても、同郷人同士の集まりの際には小三郎の薫陶を偲んでいたとしても、やはり対外的には薩摩の「不名誉不徳」について語ることは憚られたのか。薩摩に不名誉であっても、小三郎の名誉のために、何か語って欲しかった。
桐野利秋の日記に、赤松小三郎殺害の件がありました。
下記サイトをご覧下さい。
(西南戦争の十一人)桐野利秋①-その虚像と実像-
http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/kirino1.htm
「魚棚上ル所ニて出合、我前に立ちふさかい、刀を抜候処、短筒に手ヲ掛候得共、左のかたより右のはらへ打通候処、直ニたおるる所ヲ、田代士後よりはろふ、壱余り歩ミたおる也、直ニ留ヲ打ツ、合て弐ツ刀、田代も合て弐ツ刀にておわる。打果置者也」
桐野ファンの方が見ても、この暗殺は薩摩藩の組織的犯行で、桐野は命令を実行しただけであるとして、桐野本人に同情しいている点は重要だと思います。
いましたから、さしずめ、島津家は《テロ国家》で、
赤松小三郎殺害は、正真正銘の《国家テロ》
です。
小泉+安倍+麻生らの、「テロとの闘い」という
コピーは、国賊ものですな。
本当に、薩摩びいきの方々には申し訳ないですが、この点は言わざるを得ません。
小三郎の業績がそれなりに評価され、少しは歴史上に位置づけられているのであれば、和解のしようもありますが・・・・。西郷が「英雄」と評価され、小三郎が闇に葬られたままという歴史認識の非対称性が続く限り、訴え続けざるを得ません。
薩摩びいきの方々から見ても、赤松小三郎を知ることで、西南戦争で政府側についた薩摩人たちの気持ちをおもんばかることができると思います。そしてある程度、西南戦争をめぐるモヤモヤが晴れるのではないかとも思うのです。野津兄弟や黒木為や川村景明のような薩摩人こそ、小三郎の薫陶を受け継いでいたのであり、であるからこそ西郷や桐野らと戦う道を選んだのだということです。