前回の記事では、農産物と工業製品の需要面での性質の違いから、農産物(とりわけ穀物)の貿易を自由化してはいけない理由を述べた。今度は、双方の財の供給面での性質の違いについて述べてみたい。需要面のみならず供給面においても、両財はその性質を著しく異にする。
しかるに経済学は、この明白な事実を無視し、現実には存在しない空想的な費用曲線をもとに、農産物も工業製品も同列に扱って市場原理を肯定する虚構を作り上げてきた。
以下に書く収穫逓増の貿易論は、私の知る限りにおいても、古くは1923年に米国の経済学者のフランク・グレーアムが、さらに1929年にはオーストラリアの経済学者のJ・ブリグデンなどが論じている。しかし、おそらくほとんどの経済学者が、こうした経済学者の存在すら知らないだろう。
前回も述べたように、現実的な前提に基づいて現実的な理論を構築した経済学者の業績は忘れ去られる。それに対して、まるで宇宙空間を飛んでいるように非現実的な仮定に基づいた空想的なモデルを構築した経済学者のみがその業績を賛美され、スウェーデン銀行賞(ノーベル経済学賞)を授与され、権威を高めてきた。現実を無視した宇宙のかなたのようなモデルのみが礼賛されてきたのは、地球上には存在しない「市場の無謬性」に対する信仰心を世界大に広めるための巧妙な仕掛けだったのだ。
じつはポール・クルーグマンがスウェーデン経済学賞を受賞した理由は、以下に書くような収穫逓増の貿易論の構築に関してであった。しかし、クルーグマンはその後、自由貿易肯定論者へと「転向」してしまった。彼の収穫逓増の貿易理論が新古典派貿易論の解体につながるという真の意味は、一般的にはほとんど理解されていないようである。
上の図を見て欲しい。この二つの図は、工業製品と農産物に当てはまる生産費用の特性を、それぞれ図示したものである。読者は各自、どちらの図が農産物でどちらの図が工業製品か、考えてみていただきたい。
おそらく経済学部出身以外の読者の9割方は正しい答えを出すだろう。しかし経済学部出身者は「教科書に書いてあることとは違う」と言って答えられない可能性がある。そう考えた経済学部出身の方は、「教育」を通して洗脳された結果である。
図の前提として横軸は、その財の生産量を取った。縦軸には生産された財が全て売れた場合の総売上と、その生産に要した総費用を取った。ともに単位は金額である。生産者の利潤は、「利潤=総売上―総費用」であるから、総売上曲線から総費用曲線を引いたものになる。
ここで、話を簡単にするために財の価格を一定とした。価格が一定であれば、「総売上=価格×個数」であるから、上の図のように y = a x の単純な一次関数のグラフになる。
産業の性質によって、形状が大きく異なるのは総費用関数である。農産物と工業製品ではその形状はどう異なるであろうか。
既に回答を得た方も多いと思う。そう、(1)が農産物の費用特性を示したものであり、(2)が工業製品の費用特性を示したものである。ちなみに、経済学の教科書は(1)のような費用関数しか扱わない。なぜならば、(2)のような形状は数学的な均衡解が得られないので、数学モデルをつくれないからである。もちろん現実世界には(2)のような費用関数はたくさんある。端的な例が生産の拡大に追加コストはほとんどかからないソフトウェア産業である。しかし経済学は現実を無視し、世の中には(2)は存在せず、すべての財は(1)のようであるという非現実的仮定のもとに構築されている。
(1) 農産物の費用関数
農産物の場合、土地さえあれば、ほとんど何も費用をかけなくても何らかの収穫は得られる。それに加えて、土壌改良をしたり、化学肥料を入れたり、圃場整備をしたり、機械を入れたり、費用をかけると収穫は増大していく。しかし、例えば肥料の投入量を増加させていっても、生産量の増加は次第に鈍くなり、ついには限界に達する。これが農産物生産の特徴である。農産物(林産物もそうだが)は、所詮、水と二酸化炭素を太陽エネルギーで炭水化物を合成するという光合成の作用によるものである。自然法則によって定まる光合成の能力を超えて、農産物が生産されることはあり得ない。ゆえに農産物は費用をかければ生産はいくらでも増大するというものではなく、生産費用の増加率に比して、産出量の増加率は逓減していく。よって、この費用をかけてこれだけ生産すれば利潤が最大になるという「利潤最大点」が存在することになるのだ。こうした特質は収穫逓減(=限界費用逓増)という。
図を解析すればわかることだが、総費用曲線の接線の傾きが価格と等しくなったとき、利潤(=総売上―総費用)が最大化される。微分積分学を習った人であれば、総費用関数を微分した導関数が価格と等しくなったときに利潤は最大化されると言った方が分かりやすいだろう。ちなみに経済学では、総費用関数を一階微分した導関数を「限界費用関数」と呼ぶ。微分値であるから、総費用ではなく、製品を追加的に一単位増産するのに必要なコストが限界費用だ。つまりは接線の傾きである。
利潤最大点が存在するのは、この限界費用が逓増する産業の場合である。限界費用が逓増する場合、収穫は逓減することになる。限界費用逓増=収穫逓減である。経済学で「限界」という言葉が出てきた途端、一般の人々は全く分からなくなってしまうのであるが、これは専門家が人をだますときの常とう手段である。専門用語の目くらましだと思ってほしい。理系の人は、要するに微分した値だと理解すればよいのである。
農業や林業や水産業の特徴は、限界費用逓増(=収穫逓減)産業であるという点にあり、明確に利潤最大点が存在するということにある。
所与の価格が与えられたとき、生産者が利潤を最大化するように生産をすれば、その生産量は図のように一点に定まる。そうした場合、ある価格のもとで、生産者が売りたいと思う量は一点に集約される。つまり、「価格」と「売りたい量」の間には一対一の関数関係が存在することになる。この関数が供給関数と呼ばれるものであり、総費用関数の一階微分である限界費用関数と等しくなる。
しかしながら、供給関数が書けるのは利潤最大点がある場合のみであり、(2)のようなケースでは、利潤最大点が存在しないので、供給関数は描けないことになるのである。この場合、限界費用関数は右下がりになる。
(2) 工業製品の費用関数
他方の工業製品の費用関数は(2)のようになる。これは経験的常識のある人にとっては明らかであろう。工業製品をつくるには初期費用が膨大にかかるので、ある程度の量を生産せねば赤字になる。しかし、ある点を超えると生産増加に必要な追加コスト(限界生産費用)は低下していくので、販売すればするほと利潤はどんどん増大していくことになる。つまり利潤最大点は存在しない。このような条件で生産者は、できる限りたくさん売った方が利潤は増大するのである。こうした特質は収穫逓増(=限界費用逓減)と呼ばれる。
もちろん最終的には生産量は決まってくるのだが、これは需要側の制約によって売れ残りが発生することから生産を止めるのであって、生産側の都合で生産量を決めているわけではない。故に、価格と供給量の間に一対一の関数関係が存在するわけではないのである。
(1)のような費用関数の場合、まさに生産側の都合で生産量が決まってくるので、供給量は価格を独立変数とした従属変数となり、供給曲線は描ける。しかし(2)のようなケースでは、供給量は決して価格を独立変数とした従属変数とはならないから、供給曲線は描けないことになる(右下がりの限界費用曲線は描けるが、それは供給曲線とは別ものである)。
さてこのような限界費用が逓減するという状況下で何が発生するだろうか。製造業メーカーは、国境の壁が取っ払われて世界が単一市場となるグローバル経済を強く望むようになるのである。売れば売るほど利潤が増える世界では、国境など邪魔くさい存在でしかない。だから国際競争力のある日本経団連傘下の諸企業は、あれほどに強く関税の撤廃とグローバルスタンダードによる世界市場の統一を望むようになるのである。彼らの気持ちが痛いほどよくわかる。
1000万人の市場で勝負して勝ち残った企業は、次には1億人の市場を相手にしたくなり、その次には10億人の市場を望む。彼らの欲望が果てることはないのだ。これは工業製品の収穫逓増という性格に規定されているのである。
もっとも、付言すれば、そうしたグローバル大競争の果てに出現するのは、グローバル独占企業による世界市場の独占支配であり、失業者は増え、グローバルな総需要不足を惹起し、最終的に価格面での消費者利益にも反する。収穫逓増の性格が強ければ強いほど、グローバル独占は成立しやすくなる。例えばソフトウェア産業は、ひとたび製品を開発してしまえば、それをコピーするのに追加コストなどほとんどかからない究極的な限界費用逓減(=収穫逓増)産業といえる。だからマイクロソフト社の世界独占が容易に成立したのである。
当面、百歩譲って、工業部門やソフトウェア部門の弱肉強食のグローバル大競争を認めるとしよう。マイクロソフトの独占は、世界中の消費者に非常に不快な思いをさせているとはいえ、とりあえず、人間の生命まで脅かすわけではない(いや、本当はそれでも大問題なのだ。本来的には関税撤廃の条件は、万国の労働者に最低限の賃金水準と福利厚生水準が保障され、労働争議権も付与され、さらに万国に共通な適切な環境基準が設定された場合である。それが満たされた後に、はじめて関税撤廃を議論をすべきであり、それ以前に実施すべきではないのだ)。
しかし百歩(一万歩?)譲って、工業の関税撤廃は独占禁止・環境基準や労働基準の整備などもろもろの前提条件の上に認めたとしても、そのような無関税のグローバル大競争に農業は決して巻き込んではならない。人間の生存を直接的に脅かすからだ。農業の場合、グローバルな単一市場を成立させる必然性は何もない。限界費用逓増(=収穫逓減)産業である農業は、節度をもって生産量を抑制し、最適な量を地域の消費者に提供するという、本来的に地産地消型の産業である。農業生産力の発展に応じて人口も増え、農耕民族が打ち立てた国家であれば、だいたいどこでも歴史的に穀物自給率100%前後で落ち着くのである。それでみな満足なのであって、国境の壁を取り払ってグローバル単一市場にする必然性など何もない。収穫逓減産業の農業には、10億人単位のグローバル世界市場など必要とされていないからだ。さらに前の記事で書いた理由により農業のグローバル大競争は確実に世界各地で飢餓を生みだす。
ゆえに工業製品は関税撤廃しても、農産物関税は撤廃してはならないのである。グローバルな国際協力として農業部門に必要なのは、諸国家に農産物関税の自主決定権と自給率向上の権利を認めた上で、食料を備蓄し、ある国で不作になって飢餓が発生したとき、備蓄のある国が穀物を輸出に回すという管理貿易である。
ちなみに、国際貿易を通じて、ある国が収穫逓増の工業製品に特化し、別の国が収穫逓減の農産物に特化した場合、農産物に特化した国の交易条件は長期的に必ず悪化していく。農地面積が一定の条件で生産を拡大しようとすればするほど利潤は低下していくからである。工業製品に特化した場合、逆に利潤は増大していく。農業に競争力があり、工業に競争力のないアメリカ合州国が、慢性的な貿易赤字で苦しむ理由のいったんはここにある。途上国も農業輸出に特化したままでは決して豊かになれない理由の一つはここにあるのだ。
新大陸国家の特殊性
では、何故、TPPに参加するアメリカとオーストラリアは、あれほどまで強硬に農産物貿易の自由化を望むのであろうか。
これは地球という惑星のプレート運動に規定された大陸移動の偶然が生んだ歴史的悲劇に起因する。すなわち、南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸が、ユーラシア大陸から隔絶されて存在したがために、ヨーロッパ人によるそれら三大陸の侵略と先住民族の大虐殺と開拓入植という悲劇が発生した。
その不幸な歴史ゆえ新大陸では、一つの農業経営体で数百ヘクタールという、歴史的にあってはならない異常な形態の「農業」を行う。歴史がないが故に、地力も地下水の賦存量も食の安全も生物多様性も無視した持続不可能な収奪的農業を平然と行う。それ故、彼らは、歴史あるふつうの国には存在しない過剰な穀物生産能力を持つのであり、それを他の国の農業を潰してまで売りつけたがるのである。
そのような異常な「新大陸」諸国家の農業と競争を強いられる道理など何もない。そのような競争は不公正であり、社会正義に反すると堂々と主張すべきなのである。農業関税を撤廃しても、規模を拡大して農業改革すれば日本の農産物は競争力を持つようになるなどどいうマスコミの無責任な言説は万死に値する。そんなことをしても絶対に競争できない。新大陸農業の競争力とは先住民族虐殺の上に成立したものだからだ。同じことをしない限り、競争できるようにはならないのである。
新大陸の農業と競争を強いられたら、旧大陸の国々は歴史も文化も伝統もすべて否定されねばならない。そして大量の半失業プレカリアートを生み出した挙句、新大陸国家の不作により飢餓地獄に至る。
私は思う。農産物の関税撤廃を主張する政治家とマスコミと知識人に対しては、以下のように誓約させるべきである。「もしTPP参加の結果、日本で飢餓が発生し、餓死者が出るような事態になった場合、その全責任は私たちにあります。その場合、私たちは率先して自分の食物を飢えている人々のために捧げます」と。
しかるに経済学は、この明白な事実を無視し、現実には存在しない空想的な費用曲線をもとに、農産物も工業製品も同列に扱って市場原理を肯定する虚構を作り上げてきた。
以下に書く収穫逓増の貿易論は、私の知る限りにおいても、古くは1923年に米国の経済学者のフランク・グレーアムが、さらに1929年にはオーストラリアの経済学者のJ・ブリグデンなどが論じている。しかし、おそらくほとんどの経済学者が、こうした経済学者の存在すら知らないだろう。
前回も述べたように、現実的な前提に基づいて現実的な理論を構築した経済学者の業績は忘れ去られる。それに対して、まるで宇宙空間を飛んでいるように非現実的な仮定に基づいた空想的なモデルを構築した経済学者のみがその業績を賛美され、スウェーデン銀行賞(ノーベル経済学賞)を授与され、権威を高めてきた。現実を無視した宇宙のかなたのようなモデルのみが礼賛されてきたのは、地球上には存在しない「市場の無謬性」に対する信仰心を世界大に広めるための巧妙な仕掛けだったのだ。
じつはポール・クルーグマンがスウェーデン経済学賞を受賞した理由は、以下に書くような収穫逓増の貿易論の構築に関してであった。しかし、クルーグマンはその後、自由貿易肯定論者へと「転向」してしまった。彼の収穫逓増の貿易理論が新古典派貿易論の解体につながるという真の意味は、一般的にはほとんど理解されていないようである。
上の図を見て欲しい。この二つの図は、工業製品と農産物に当てはまる生産費用の特性を、それぞれ図示したものである。読者は各自、どちらの図が農産物でどちらの図が工業製品か、考えてみていただきたい。
おそらく経済学部出身以外の読者の9割方は正しい答えを出すだろう。しかし経済学部出身者は「教科書に書いてあることとは違う」と言って答えられない可能性がある。そう考えた経済学部出身の方は、「教育」を通して洗脳された結果である。
図の前提として横軸は、その財の生産量を取った。縦軸には生産された財が全て売れた場合の総売上と、その生産に要した総費用を取った。ともに単位は金額である。生産者の利潤は、「利潤=総売上―総費用」であるから、総売上曲線から総費用曲線を引いたものになる。
ここで、話を簡単にするために財の価格を一定とした。価格が一定であれば、「総売上=価格×個数」であるから、上の図のように y = a x の単純な一次関数のグラフになる。
産業の性質によって、形状が大きく異なるのは総費用関数である。農産物と工業製品ではその形状はどう異なるであろうか。
既に回答を得た方も多いと思う。そう、(1)が農産物の費用特性を示したものであり、(2)が工業製品の費用特性を示したものである。ちなみに、経済学の教科書は(1)のような費用関数しか扱わない。なぜならば、(2)のような形状は数学的な均衡解が得られないので、数学モデルをつくれないからである。もちろん現実世界には(2)のような費用関数はたくさんある。端的な例が生産の拡大に追加コストはほとんどかからないソフトウェア産業である。しかし経済学は現実を無視し、世の中には(2)は存在せず、すべての財は(1)のようであるという非現実的仮定のもとに構築されている。
(1) 農産物の費用関数
農産物の場合、土地さえあれば、ほとんど何も費用をかけなくても何らかの収穫は得られる。それに加えて、土壌改良をしたり、化学肥料を入れたり、圃場整備をしたり、機械を入れたり、費用をかけると収穫は増大していく。しかし、例えば肥料の投入量を増加させていっても、生産量の増加は次第に鈍くなり、ついには限界に達する。これが農産物生産の特徴である。農産物(林産物もそうだが)は、所詮、水と二酸化炭素を太陽エネルギーで炭水化物を合成するという光合成の作用によるものである。自然法則によって定まる光合成の能力を超えて、農産物が生産されることはあり得ない。ゆえに農産物は費用をかければ生産はいくらでも増大するというものではなく、生産費用の増加率に比して、産出量の増加率は逓減していく。よって、この費用をかけてこれだけ生産すれば利潤が最大になるという「利潤最大点」が存在することになるのだ。こうした特質は収穫逓減(=限界費用逓増)という。
図を解析すればわかることだが、総費用曲線の接線の傾きが価格と等しくなったとき、利潤(=総売上―総費用)が最大化される。微分積分学を習った人であれば、総費用関数を微分した導関数が価格と等しくなったときに利潤は最大化されると言った方が分かりやすいだろう。ちなみに経済学では、総費用関数を一階微分した導関数を「限界費用関数」と呼ぶ。微分値であるから、総費用ではなく、製品を追加的に一単位増産するのに必要なコストが限界費用だ。つまりは接線の傾きである。
利潤最大点が存在するのは、この限界費用が逓増する産業の場合である。限界費用が逓増する場合、収穫は逓減することになる。限界費用逓増=収穫逓減である。経済学で「限界」という言葉が出てきた途端、一般の人々は全く分からなくなってしまうのであるが、これは専門家が人をだますときの常とう手段である。専門用語の目くらましだと思ってほしい。理系の人は、要するに微分した値だと理解すればよいのである。
農業や林業や水産業の特徴は、限界費用逓増(=収穫逓減)産業であるという点にあり、明確に利潤最大点が存在するということにある。
所与の価格が与えられたとき、生産者が利潤を最大化するように生産をすれば、その生産量は図のように一点に定まる。そうした場合、ある価格のもとで、生産者が売りたいと思う量は一点に集約される。つまり、「価格」と「売りたい量」の間には一対一の関数関係が存在することになる。この関数が供給関数と呼ばれるものであり、総費用関数の一階微分である限界費用関数と等しくなる。
しかしながら、供給関数が書けるのは利潤最大点がある場合のみであり、(2)のようなケースでは、利潤最大点が存在しないので、供給関数は描けないことになるのである。この場合、限界費用関数は右下がりになる。
(2) 工業製品の費用関数
他方の工業製品の費用関数は(2)のようになる。これは経験的常識のある人にとっては明らかであろう。工業製品をつくるには初期費用が膨大にかかるので、ある程度の量を生産せねば赤字になる。しかし、ある点を超えると生産増加に必要な追加コスト(限界生産費用)は低下していくので、販売すればするほと利潤はどんどん増大していくことになる。つまり利潤最大点は存在しない。このような条件で生産者は、できる限りたくさん売った方が利潤は増大するのである。こうした特質は収穫逓増(=限界費用逓減)と呼ばれる。
もちろん最終的には生産量は決まってくるのだが、これは需要側の制約によって売れ残りが発生することから生産を止めるのであって、生産側の都合で生産量を決めているわけではない。故に、価格と供給量の間に一対一の関数関係が存在するわけではないのである。
(1)のような費用関数の場合、まさに生産側の都合で生産量が決まってくるので、供給量は価格を独立変数とした従属変数となり、供給曲線は描ける。しかし(2)のようなケースでは、供給量は決して価格を独立変数とした従属変数とはならないから、供給曲線は描けないことになる(右下がりの限界費用曲線は描けるが、それは供給曲線とは別ものである)。
さてこのような限界費用が逓減するという状況下で何が発生するだろうか。製造業メーカーは、国境の壁が取っ払われて世界が単一市場となるグローバル経済を強く望むようになるのである。売れば売るほど利潤が増える世界では、国境など邪魔くさい存在でしかない。だから国際競争力のある日本経団連傘下の諸企業は、あれほどに強く関税の撤廃とグローバルスタンダードによる世界市場の統一を望むようになるのである。彼らの気持ちが痛いほどよくわかる。
1000万人の市場で勝負して勝ち残った企業は、次には1億人の市場を相手にしたくなり、その次には10億人の市場を望む。彼らの欲望が果てることはないのだ。これは工業製品の収穫逓増という性格に規定されているのである。
もっとも、付言すれば、そうしたグローバル大競争の果てに出現するのは、グローバル独占企業による世界市場の独占支配であり、失業者は増え、グローバルな総需要不足を惹起し、最終的に価格面での消費者利益にも反する。収穫逓増の性格が強ければ強いほど、グローバル独占は成立しやすくなる。例えばソフトウェア産業は、ひとたび製品を開発してしまえば、それをコピーするのに追加コストなどほとんどかからない究極的な限界費用逓減(=収穫逓増)産業といえる。だからマイクロソフト社の世界独占が容易に成立したのである。
当面、百歩譲って、工業部門やソフトウェア部門の弱肉強食のグローバル大競争を認めるとしよう。マイクロソフトの独占は、世界中の消費者に非常に不快な思いをさせているとはいえ、とりあえず、人間の生命まで脅かすわけではない(いや、本当はそれでも大問題なのだ。本来的には関税撤廃の条件は、万国の労働者に最低限の賃金水準と福利厚生水準が保障され、労働争議権も付与され、さらに万国に共通な適切な環境基準が設定された場合である。それが満たされた後に、はじめて関税撤廃を議論をすべきであり、それ以前に実施すべきではないのだ)。
しかし百歩(一万歩?)譲って、工業の関税撤廃は独占禁止・環境基準や労働基準の整備などもろもろの前提条件の上に認めたとしても、そのような無関税のグローバル大競争に農業は決して巻き込んではならない。人間の生存を直接的に脅かすからだ。農業の場合、グローバルな単一市場を成立させる必然性は何もない。限界費用逓増(=収穫逓減)産業である農業は、節度をもって生産量を抑制し、最適な量を地域の消費者に提供するという、本来的に地産地消型の産業である。農業生産力の発展に応じて人口も増え、農耕民族が打ち立てた国家であれば、だいたいどこでも歴史的に穀物自給率100%前後で落ち着くのである。それでみな満足なのであって、国境の壁を取り払ってグローバル単一市場にする必然性など何もない。収穫逓減産業の農業には、10億人単位のグローバル世界市場など必要とされていないからだ。さらに前の記事で書いた理由により農業のグローバル大競争は確実に世界各地で飢餓を生みだす。
ゆえに工業製品は関税撤廃しても、農産物関税は撤廃してはならないのである。グローバルな国際協力として農業部門に必要なのは、諸国家に農産物関税の自主決定権と自給率向上の権利を認めた上で、食料を備蓄し、ある国で不作になって飢餓が発生したとき、備蓄のある国が穀物を輸出に回すという管理貿易である。
ちなみに、国際貿易を通じて、ある国が収穫逓増の工業製品に特化し、別の国が収穫逓減の農産物に特化した場合、農産物に特化した国の交易条件は長期的に必ず悪化していく。農地面積が一定の条件で生産を拡大しようとすればするほど利潤は低下していくからである。工業製品に特化した場合、逆に利潤は増大していく。農業に競争力があり、工業に競争力のないアメリカ合州国が、慢性的な貿易赤字で苦しむ理由のいったんはここにある。途上国も農業輸出に特化したままでは決して豊かになれない理由の一つはここにあるのだ。
新大陸国家の特殊性
では、何故、TPPに参加するアメリカとオーストラリアは、あれほどまで強硬に農産物貿易の自由化を望むのであろうか。
これは地球という惑星のプレート運動に規定された大陸移動の偶然が生んだ歴史的悲劇に起因する。すなわち、南北アメリカ大陸とオーストラリア大陸が、ユーラシア大陸から隔絶されて存在したがために、ヨーロッパ人によるそれら三大陸の侵略と先住民族の大虐殺と開拓入植という悲劇が発生した。
その不幸な歴史ゆえ新大陸では、一つの農業経営体で数百ヘクタールという、歴史的にあってはならない異常な形態の「農業」を行う。歴史がないが故に、地力も地下水の賦存量も食の安全も生物多様性も無視した持続不可能な収奪的農業を平然と行う。それ故、彼らは、歴史あるふつうの国には存在しない過剰な穀物生産能力を持つのであり、それを他の国の農業を潰してまで売りつけたがるのである。
そのような異常な「新大陸」諸国家の農業と競争を強いられる道理など何もない。そのような競争は不公正であり、社会正義に反すると堂々と主張すべきなのである。農業関税を撤廃しても、規模を拡大して農業改革すれば日本の農産物は競争力を持つようになるなどどいうマスコミの無責任な言説は万死に値する。そんなことをしても絶対に競争できない。新大陸農業の競争力とは先住民族虐殺の上に成立したものだからだ。同じことをしない限り、競争できるようにはならないのである。
新大陸の農業と競争を強いられたら、旧大陸の国々は歴史も文化も伝統もすべて否定されねばならない。そして大量の半失業プレカリアートを生み出した挙句、新大陸国家の不作により飢餓地獄に至る。
私は思う。農産物の関税撤廃を主張する政治家とマスコミと知識人に対しては、以下のように誓約させるべきである。「もしTPP参加の結果、日本で飢餓が発生し、餓死者が出るような事態になった場合、その全責任は私たちにあります。その場合、私たちは率先して自分の食物を飢えている人々のために捧げます」と。
其れは、経営という視点です。
この場合に、土地の限界収益率は問題ではありません。其れは経営規模と収益率の問題だからです。農家が、一定の土地から収益を上げて生計を維持しようとするとき、その耕作面積は決定的要因です。
此の国の農業は、3反百姓、5反百姓などといわれるように、欧米や南米のそれに比較して極めて小さな規模の農業をずっとやってきました。戦後の、農地解放の後も、自営農は増えましたが規模はむしろ縮小しました。
その極小規模で、収益を上げ、生計を維持するために、仰るように、限界まで肥料を投入し、手をかけて、単位面積あたりの収量を増加させ、或いは、技術力で、品種改良や、季節外れの商品を送出して、付加価値を高めることで生き延びてきました。その部分だけ見れば、確かに、限界収益率の理屈はその通りですが、面積規模が100倍も1000倍も、1万倍も違う諸外国の農業との比較を経営論についてするのは、全く違う問題ですね。
此の国の米作りを見ても、経営として全く成立していない兼業農家の、いわば、安心と気安めのための米作りを農協がかき集めて経営として全く成立しない規模と価格設定の下で、手厚い補助金や、保護政策によって成り立っている。
イヤ、そもそも成り立っていないのだけれども、つまり、米作りは、兼業農家の小遣い稼ぎでしかないのだけれども、其れをかき集めて食い物にしている農協や、農林官僚にとっては死活問題になるわけで、此の国の農業保護とは、取りも直さず、農協や、農林官僚や、農機具、農薬メーカーの問題なのだと断言できるわけで。
一体、農協は、大規模化して、経営を自立しようとする農業法人に対して途方もない要求を突きつけてその経営を潰そうとしたり、妨害したりしているわけで、こんな組織が存在することが既に、此の国の農業を破壊しているという厳然たる事実を看過することは出来ないわけで。
その視点を明らかにそらしているあなたの発言は、また、偏ったものになっていることを、あなたは承知しておられるのだろうか。
「論点をそらす」も何も、「農協が腐敗している」という問題は、農産物関税の経済学的な是非という問題とは関係ありません。同じ記事の中で扱えるわけがございません。
農協腐敗や、農機具、農薬メーカーの問題は私も憂いています。改革すべきです。
ただし、農協が腐敗していようがいまいが、それとは関係なく、農産物関税は撤廃してはいけないのです。私がここで書いたのは、農産物と工業製品を同列に扱って自由化の対象としてはならないという論点です。
これは農協が腐敗している日本のみならず、万国に共通の命題なのです。
それに農協の問題など、私ごときが書かずとも、巷の本や雑誌で大騒ぎをしていて、国民に周知されています。何をいまさら私ごときが論じる必要があるのでしょう。
ここに書いていることは、他の誰も書かないから、私が書かざるを得ない論点です。
PS ちなみに、かもさんとは決して議論がかみ合わず、時間がムダなので二度と書き込まないでくださいと何度も申し上げました。
今後もかみ合わないことを書かれる場合、削除させていただきます。
農業には最適経営規模というものがあり、やみくもに規模拡大すればよいというものではありません。アメリカ、オーストラリアなど無理な規模拡大がたたって、じきに行き詰ります。アメリカの場合、まず地下水枯渇で生産量は低下していきます。
さて、TPPや関税の如何に関わらず、現行の此の国の農業は、遠からず崩壊するだろうと私は見ています。典型は米です。3反五反の米作りを兼業農家にさせて置いて、其れをかき集めて余剰米が出来るからといって減反させています。其れで更に、農家の規模拡大や自由競争を制限しています。3反5反の米作の年収は、せいぜい4,50万ですね。米作りは、既に全く利益がでないどころか、作れば作るほど赤字が出る体質になってしまっています。営利経営として成立していないのです。所得補償などといっても、反当たり一万幾らだという。そんな物何の足し実もならないし全く税金の無駄使いです。
営利事業として個人の専業農家が生活できる所得を得るためには、最低でも、10ha、理想型は20haくらいないと生活できないし、若者を呼び込むことも出来ません。
その規模では、農協などに頼ることもないし、減反などしていたのでは規模の拡大は出来ません。消費拡大の方策として、例えば輸出も考えられます。つまり、自由競争に依ってしか、経営効率を改善して意欲ある農業者を育てることは出来ないのです。
当然にして、生産効率の悪い中山間地や、高冷地の稲作地帯は放棄されるでしょう。其れで良いのです。イヤ、其れこそが必要な構造改革の最重要課題なのです。
農協が、自らの金蔓を確保するために零細兼業農家保護に躍起になっている根本を崩さなければ、専業で食える農家は育ちません。
今、専業で食える農業経営者は、農協にも、農林省にも頼らず、自らの才覚と努力で経営を工夫している、施設園芸農家や、都市近郊の野菜農家などです。その現実をどう考えておられますか。
北海道の平均農地経営面積はすでに20haです。その20haの大規模専業稲作農家が、「今の米価じゃ食っていけない」と悲鳴をあげているのです。ましてやTPPなどやられたら、「大規模専業農家から最初に破滅する」といっているのです。
兼業農家なら、まだ兼業収入があるから、稲作は赤字だってなんとかやっていけるでしょう。その意味で兼業農家は決して悪い経営形態ではありません。あなたのその兼業蔑視はどこから生まれるのでしょう?
経営努力をしていて、創意工夫にあふれた専業の方が、TPPで壊滅的打撃を受けるのです。なぜなら、北海道の20haですら、「アメリカの輸出補助金付き200ha」とは競争できないからです。
農産物に自由貿易など持ち込んだら、専業でも食える農家は育ちません。だから関税が必要なのです。補助金は財政負担を増やしますが、関税は税収を増やすだけで納税者負担を軽減させるだけです。農協が腐敗しているというのなら、ますます補助金より関税の方が合理的なのが分からないのでしょうか?
国内で、農協にも農林省にも頼らない自由な農家が競争するのはよいことです。しかしアメリカの輸出補助金付き200haとの競争を強いられることは全くナンセンスです。
やっぱりかみ合いません。お願いですから書き込まないでください。
農業における価値観を、「自由競争の中で経営が成り立つこと」を最優先に考えるから、こういうかみ合わない議論になるのですよ。
私は、国土(自然)の持続可能性>地域社会の持続可能性>国家経済の持続可能性>経営(経済競争)の持続可能性という優先順位で考えます。すると何よりも農村が荒れないことを優先に考えることになるので、貴殿の議論には根本の部分で全く納得できません。
地域を荒らさないことのために、農協や零細兼業農家をどうにかする必要があるという議論であれば、1読者の私としては歓迎いたします。しかし、そうでなければ、貴殿はこのブログからご退場いただいたほうが、互いにとって生産的というものでしょう。
最後に管理人様へ。グローバル資本主義の脅威からいかにして自然を、地域を、そして自分と大切な人たちの身を守るのか。このブログがそういうことを議論できる場となることを期待しています。
あなたは、どんな立場で書き込んでおられますか。
簡単に仰いますが、「営利が成立しない農業」という物は如何なる物でしょうか。
今日も今日とて、まさに、年老いて、息子が病魔に倒れた農夫を見舞ってきました。今年は、もう米は作れないと。その農地を荒らさないために、誰かに頼んで作って貰おうにも、買うより高い米を食わされることになってしまうという計算しか成り立たないのです。
蓑の下にもう一枚あったという美しい棚田を守ることを、都会の皆さんは、さも美辞であるかの如くに言う。冗談じゃない。機械も入らず、手植えで、腰を曲げて一本一本植えていく農業の何たるかを知りもせず、考えもせず、遠くから眺めて、美田だの、環境保護だの、農村を荒らさないだのという。
あなたたちは、自分が何を言っているか承知しているのですか。
今既に、農業の持続可能性などないのです。どんな風に話したところで、かみ合おうとかみ合うまいと、あなたが期待するような美しい農村は最早、郷愁でしかありません。
だってそうでしょう。考えても見て下さい。此の国の、農家の平均耕作面積は、1.4とか、1.8ヘクタールしかないのですよ。其れで、米を作ったら、せいぜい200万くらいの年収にしかならない。其れで、その為の農機具代は、1000万かかる。その農具が、10年で駄目になってしまうとしたら、生活費などない。
農協は、農家の実態などにお構いなしに、高い機械を売りつけて、口銭を稼ぐ。理不尽そのものなのです。
農業は既に、崩壊しています。美田が葦原に代わりつつある。江戸時代からずっと守り続けてきた財産が歯抜けになってゆく。もう、ほんの数年で全体が芦原になってしまうのは規定の事実なのです。
何の苦労も憂いもない都市生活者が、田舎の土地に郷愁して、美田を守れと言う。何とも身勝手で脳天気な話ではありませんか。
やれる物ならやってみな。其れが、農家の本音です。
「やれる物ならやってみな」。あなたに贈る言葉です;。
批判を読みましたが、あなたは怒りをぶつけるべき対象を明らかに間違えています。国際的な市場競争こそが、あなたが見舞ってきた病気の農夫を追い詰めている最大の元凶であることに、まだ気づかないか!
私が研究関係でつきあっている農家たちは、専業・兼業を問わず、自らの農地・地域・環境を守るためにたいへんな努力をしています。それでも、さまざまな補助金に支えられて、どうにか田んぼを維持しているのが現状です(私が付き合ている人たちはほとんどが稲作農家)。農産物の自由化などすれば、こうした努力が根こそぎになるのは、火を見るより明らかです。
農村が荒れれば、農地が果たしてきた食糧生産以外の諸機能(社会的機能を含む)も崩壊あるいは劣化します。私は現在、こうした諸機能の一部を研究しているにすぎませんが、その補償のために農村の維持以上のコストがかかることだけは、はっきりわかります。
まずは農村を維持すること。そのためには農家の収入を確保するだけでなく、農業が生み出している農産品以外の様々な価値をしっかり評価して、農業をやりがいのある仕事にしていくことが重要です。その目的のためであれば、農協の解体も、集団営農化(私の地域では結構、やっている)もありでしょう。しかし、農産品の自由化を止めたうえでなければ、こうした議論そのものが無駄になることを、まずは認識していただきたく思います。
管理人様:喧嘩にならないうちにやめておこうと思いますが(もう遅いか)実のない議論になってきたと判断されたら、そうなったと判断されるところから、まとめて削除してください。
でもね、今現に、800%の関税をかけて、ほぼ輸入を0に限りなく近く抑制していて尚、平均的農家の米収入は200万に満たないことが示されています。一体この事実をどう考えたらいいのですか。未だ米は、国際的自由競争に曝されてはいないのにですよ。
つまりあなたの言う国際化の波は、米作りには未だ何の影響も与えてはいないのです。にもかかわらず、米作りが既に全く営利として成立していないのです。そんな物に補助金を幾ら出せば営利が成立するのですか。
偶々、ネットで見ていたのですか、都市近郊のナス農家は、軒並み2000万の年収を上げているとのことです。其れは、農協も、補助金もなく、全く自らの才覚と努力によってです。
実際のところ、補助金も農家には届いてはいません。構造改善と言っても、確かに、農家は使いやすい水田を手にしますが、儲けているのは、土建業者です。カントリーエレベーターを作っても、其れで米価が上がるわけではありません。予冷庫を作っても、がっちり保管料を取られるのは農家です。然も、其れで売値が間違いなく上がっている保証はないのです。
膨大な補助金が、農家ではないところで食い尽くされています。
然も、加えて、農家にはもう後継者がいないのです。高齢者が退場すれば、農地は自然に帰ります。どれ程の補助金を出しても、関税障壁で守ろうとしても救うことは出来ません。
敢えて言ってしまえば、営利として成立する農業規模が、200haならば200haの農家を創出することに依ってしか対抗することは出来ません。其れが経営の根本原理です。
その為には、農業の完全自由化しかありません。減反規制も、販売規制もない自由市場を大胆に構築することで始めて米農業は再生できます。だってそうでしょう。ナス農家は、誰の手助けも無しに、2000万の年収を確保しているのですよ。
本日見直して気付きました。
さて、ついでと言っては何ですが、最近日本に訪れる中国人のお土産の一つは、日本の美味しい米だそうです。上海で、日本産米を販売しようという計画もあるそうです。関税が撤廃されて、10分の1の価格の米が輸入されても、その米が日本人の好みに合わせて美味しくなければ、どれだけ売れるでしょうか。高いと言っても、今と同じ価格の米を買い続けるだけのことです。勿論、不味くても安い米が良いという人もいるでしょう。でも、その人達にとっては、関税撤廃は恩恵です。むしろ奨めるべきです。
昔、外米というのがありましたね。安くて不味い米の代表でした。安くても、多くの国民は買いませんでしたね。
TPPで日本の農業が崩壊するというのは、恫喝です。食糧安保が維持できないというのも恫喝です。
今、此の国の食糧自給率が41%しかないという現実は、米を100%自給しても、既に、全く自立できない体制になってしまっていることの証明です。小麦や、大豆やトウモロコシの輸入が止まれば、あっという間に飢饉に襲われます。米をどれ程作っても全く足りなくなってしまいます。其れが此の国の偽らざる現実です。
此の国は、命の水を大陸に依存するシンガポールや、農地を全く持たない香港と同じ状況になって既に久しいのです。
41%という数字はその事を雄弁に語っているのです。
農家が、自立して、自営して、その才覚と努力で立ち向かえば、自由化恐るるに足らずです。米を輸出しましょう。リンゴを輸出しましょう。ミカンだって、世界一です。
此の国の農産物は、世界一美味しいのです。豊かで、品質も世界一なのです。其れを生み出す技術も世界一なのです。
一年中ほうれん草が食べられる国はそんなにありません。
此の国の技術を持ってすれば、農業こそ最有力の輸出産業になれるのです。
小心に、覚えて萎縮して狼狽えるより、打って出て此の国の技術を世界に示しましょう。
それだけの力を此の国の農業技術は持っているのです。夷敵恐るるに足らずです。
元気を出して下さい。