前回の記事の続きである。今回から何回かに分けて農産物関税を撤廃してはいけない経済学的な理由を、今までより踏み込んで詳しく書きたいと思う。TPP問題が危急になっているので、他の仕事をさて置いても、これを書かざるを得ない。
これから書くことは、通俗的な経済学の教科書は触れていない点である。しかし少し考えれば誰にでも分かることである。通俗的ミクロ経済学の教科書は、自由化のメリットに関しては「これでもか」というくらいに記述されているが、その何倍もあるデメリットに関しては記述されない。ここで書く農産物価格の不安定性の問題も、じつは1960年代にアルゼンチンの経済学者ラウル・プレビッシュが理論化し、盛んに主張したことなのだ。しかしまともな経済学者が論じるまともな主張は、ミクロ経済学の教科書には反映されないのである。「新古典派経済学(ミクロ経済学)という学問は、『市場万能教』を布教するための、科学を装ったカルトだ」と言われる所以である。
上の図を見て欲しい。農産物と工業製品ではまず財の性質が違う。まず大きく違うのは、価格が変化したときに需要がどの程度変化するのかという変化率である(需要の価格弾力性と呼ばれる)。
上の図には二つの需要関数が書いてある。どちらかが農産物でどちらかが工業製品である。どちらがどちらか、読者は容易に判断できるだろうと思う。少し考えてみて欲しい。
最近、穀物の供給不足の懸念によって2008年以来再び急激に穀物価格が急上昇している。工業製品はこのように急激に価格が乱高下をすることはない。これは二つの財の需要曲線の形が違うことに起因する。
そう、垂直に近い(1)の曲線が農産物である。なだらかな(2)の曲線が工業製品なのである。農産物(とりわけ穀物)の価格はちょっと生産がダブついただけでも急落するし、わずかでも欠損が生じれば急騰する。人間の胃袋の大きさはほとんど変化しないので、価格が変化しても需要量に大きな変化は出ない。値段が高かろうが安かろうが、人間が必要とする食料の総量はほぼ決まっている。逆に言えば、需要曲線は垂直に近くなる(=つまり価格弾力性が低い)。従って供給量のわずかな変動で価格が乱高下することになる。工業製品は、食料と違って生きていくための必需品ではないので、価格の変動によって需要は大きく変化する。高ければ買わない、安ければ買うということである。生活必需品である食料はこうはいかないのである。
安定的に供給することが何よりも大事な農産物にとって、この価格変動の激しさは、自由化の是非を問う上で決定的な点である。価格の不安定性は、投機家たちにとっては一角千金のチャンスであるから、穀物市場に投機資金が流れ込み、たたでさえ不安定な価格変動をさらに増幅させるのである。
このように、価格弾力性の低い生活必需品(とくに穀物)は自由化してはいけないという命題を導くのは容易なのだ。価格が急落すれば、消費者は喜ぶが、農家が貧困にあえぎ生活できなくなる(今まさにコメ農家がそうなっているように)。逆に価格が急騰すれば、農家は喜ぶが、今度は消費者の生活が破壊され、下手をすれば餓死に至る。価格の不安定性は、生産者と消費者の双方にとって莫大なリスクをもたらすのである。故に、消費者と生産者の双方が著しい打撃をこうむることのないよう、国が介入して生産を調整し、価格を支持する必要がある。人間の生命の根幹にかかわる問題なのだから、当然である。穀物を他の財と同じに扱われたらたまったものではない。
農業補助金という制度は、たしかに不透明で利権誘導になる場合が多い。変なことに税金を使われるのはたまったものではないという納税者の意見が出るのももっともだ。だからこそ関税による保護がもっとも合理的なのである。関税ほど、透明で公正な農業保護政策はないのだ。しかも国の税収を増やすだけなので、納税者にとっては負担軽減になる。
農産物自由化論者は、自由化のほぼ唯一のメリットとして、食料価格が安くなり消費者の利益になるという主張をする。しかし、それは大きな間違いである。
世界は広いから、どこかの国が不作になっても、どこか豊作の国もあり、決定的に供給が不足するなどということはないだろうと思うかも知れない。とんでもない間違いである。今後、農産物貿易の自由化によって、日本、中国、インドなどの大消費国が穀物自給率をさらに下げ、アメリカ、オーストラリア、カナダ、アルゼンチン、ブラジル、ウクライナなど少数の大輸出国に穀物依存度が集中していけば、リスクは飛躍的に高まっていく。そのうちの一国でも不作になれば、穀物価格はすぐに高騰するようになるのである。
たとえば自由化の結果、30年間のうち28年は食料品の価格が自由化前の半分程度に安くなり、残りの2年間は価格が自由化前の3~4倍にも急騰するとしよう。価格の平均値を取れば今よりだいぶ安いということになる。しかし、30年中28年間は利益を受けていたにせよ、残りの2年間で貧困者は食っていけなくなり、下手をすれば餓死に至る。その2年間で人間の生命活動が停止に至れば、残りの28年間利益を受けていたとしても、そんなことは全く無意味であろう。
2007年から2008年には、多くの発展途上国において実際にこういうことが起こったのだ。たとえばメキシコの主食はトウモロコシであるが、1994年に発効したNAFTA(北米自由貿易協定)によって、メキシコは関税を含めあらゆる農業保護措置の撤廃を迫られ、丸裸にされてしまった。結果、アメリカから大量の安価なトウモロコシ(輸出補助金付き)が流入し、メキシコ国内のトウモロコシ農業は壊滅的な打撃を受けた。トウモロコシ農家が2~300万人も離農したと言われている。古代マヤ文明以来の伝統的トウモロコシ生産地帯のチアパス州では、「NAFTAは先住民族にとって死を意味する」との声明を発した先住民族(サパティスタ民族解放軍)が武装蜂起を敢行した。
このような国内生産者の犠牲を払ってまで、メキシコでは、米国の口車にのせられて「消費者利益」のために国内生産を放棄し、主食を米国に依存するようになった。そしてブッシュ政権の始めたトウモロコシのバイオエタノール化計画と、それにつけこんだ投機資金の流入によってトウモロコシ価格が高騰した2008年、今度はメキシコの消費者が深刻な栄養不足と飢餓に直面することになったのである。このメキシコの事例は他人事ではない。
経済学者は「トウモロコシ価格が高騰すれば、メキシコの国内生産が再び比較優位性を持つようになるのだから、また国内で生産すればよいではないか」と言うかも知れない。しかし、いちど耕作地が放棄され、農地が荒廃すれば、簡単に元通りにはなりはしない。かりに3年かけて生産が回復したとしても、その間に死んだ人々は元通りにはならないのである。
新古典派は、タイムラグがなく生産が瞬時に調整され、また、あらゆる事象は可逆的であるという非現実的な仮定に基づいてモデルを構築している。実際には、とくに農業の場合、生産を再開するための調整には時間がかかるのであり、その間に生じる餓死は不可逆現象なのである。
農文協から緊急出版された『TPP反対の大義』をさっそく買って読んでいる。巻頭論文は宇沢弘文先生の「TPPは社会的共通資本を破壊する」であった。そこには次のように書かれている。新古典派経済学の成立に貢献した大経済学者の新古典派批判であるだけに、何よりも重みのある言葉だと言えるだろう。
******農文協編『TPP反対の大義』9頁の宇沢弘文論文より***
(前略)
自由貿易の命題は、新古典派理論のもっとも基本的な命題の一つである。しかし、この命題が成立するためには、社会的共通資本の存在を全面的に否定した上で、現実には決して存在し得ない制度的、理論的諸条件を前提としなければならない。主なものを挙げれば、生産手段の完全な私有制、生産要素の可塑性、生産活動の瞬時性、そして全ての人間的営為に関わる外部性の不存在などである。しかしこの非現実的、反社会的、非倫理的な理論的命題が、経済学の歴史を通じて、繰り返し登場して、ときとして壊滅的な帰結をもたらしてきた。
(後略)
**********引用 終わり*************
これから書くことは、通俗的な経済学の教科書は触れていない点である。しかし少し考えれば誰にでも分かることである。通俗的ミクロ経済学の教科書は、自由化のメリットに関しては「これでもか」というくらいに記述されているが、その何倍もあるデメリットに関しては記述されない。ここで書く農産物価格の不安定性の問題も、じつは1960年代にアルゼンチンの経済学者ラウル・プレビッシュが理論化し、盛んに主張したことなのだ。しかしまともな経済学者が論じるまともな主張は、ミクロ経済学の教科書には反映されないのである。「新古典派経済学(ミクロ経済学)という学問は、『市場万能教』を布教するための、科学を装ったカルトだ」と言われる所以である。
上の図を見て欲しい。農産物と工業製品ではまず財の性質が違う。まず大きく違うのは、価格が変化したときに需要がどの程度変化するのかという変化率である(需要の価格弾力性と呼ばれる)。
上の図には二つの需要関数が書いてある。どちらかが農産物でどちらかが工業製品である。どちらがどちらか、読者は容易に判断できるだろうと思う。少し考えてみて欲しい。
最近、穀物の供給不足の懸念によって2008年以来再び急激に穀物価格が急上昇している。工業製品はこのように急激に価格が乱高下をすることはない。これは二つの財の需要曲線の形が違うことに起因する。
そう、垂直に近い(1)の曲線が農産物である。なだらかな(2)の曲線が工業製品なのである。農産物(とりわけ穀物)の価格はちょっと生産がダブついただけでも急落するし、わずかでも欠損が生じれば急騰する。人間の胃袋の大きさはほとんど変化しないので、価格が変化しても需要量に大きな変化は出ない。値段が高かろうが安かろうが、人間が必要とする食料の総量はほぼ決まっている。逆に言えば、需要曲線は垂直に近くなる(=つまり価格弾力性が低い)。従って供給量のわずかな変動で価格が乱高下することになる。工業製品は、食料と違って生きていくための必需品ではないので、価格の変動によって需要は大きく変化する。高ければ買わない、安ければ買うということである。生活必需品である食料はこうはいかないのである。
安定的に供給することが何よりも大事な農産物にとって、この価格変動の激しさは、自由化の是非を問う上で決定的な点である。価格の不安定性は、投機家たちにとっては一角千金のチャンスであるから、穀物市場に投機資金が流れ込み、たたでさえ不安定な価格変動をさらに増幅させるのである。
このように、価格弾力性の低い生活必需品(とくに穀物)は自由化してはいけないという命題を導くのは容易なのだ。価格が急落すれば、消費者は喜ぶが、農家が貧困にあえぎ生活できなくなる(今まさにコメ農家がそうなっているように)。逆に価格が急騰すれば、農家は喜ぶが、今度は消費者の生活が破壊され、下手をすれば餓死に至る。価格の不安定性は、生産者と消費者の双方にとって莫大なリスクをもたらすのである。故に、消費者と生産者の双方が著しい打撃をこうむることのないよう、国が介入して生産を調整し、価格を支持する必要がある。人間の生命の根幹にかかわる問題なのだから、当然である。穀物を他の財と同じに扱われたらたまったものではない。
農業補助金という制度は、たしかに不透明で利権誘導になる場合が多い。変なことに税金を使われるのはたまったものではないという納税者の意見が出るのももっともだ。だからこそ関税による保護がもっとも合理的なのである。関税ほど、透明で公正な農業保護政策はないのだ。しかも国の税収を増やすだけなので、納税者にとっては負担軽減になる。
農産物自由化論者は、自由化のほぼ唯一のメリットとして、食料価格が安くなり消費者の利益になるという主張をする。しかし、それは大きな間違いである。
世界は広いから、どこかの国が不作になっても、どこか豊作の国もあり、決定的に供給が不足するなどということはないだろうと思うかも知れない。とんでもない間違いである。今後、農産物貿易の自由化によって、日本、中国、インドなどの大消費国が穀物自給率をさらに下げ、アメリカ、オーストラリア、カナダ、アルゼンチン、ブラジル、ウクライナなど少数の大輸出国に穀物依存度が集中していけば、リスクは飛躍的に高まっていく。そのうちの一国でも不作になれば、穀物価格はすぐに高騰するようになるのである。
たとえば自由化の結果、30年間のうち28年は食料品の価格が自由化前の半分程度に安くなり、残りの2年間は価格が自由化前の3~4倍にも急騰するとしよう。価格の平均値を取れば今よりだいぶ安いということになる。しかし、30年中28年間は利益を受けていたにせよ、残りの2年間で貧困者は食っていけなくなり、下手をすれば餓死に至る。その2年間で人間の生命活動が停止に至れば、残りの28年間利益を受けていたとしても、そんなことは全く無意味であろう。
2007年から2008年には、多くの発展途上国において実際にこういうことが起こったのだ。たとえばメキシコの主食はトウモロコシであるが、1994年に発効したNAFTA(北米自由貿易協定)によって、メキシコは関税を含めあらゆる農業保護措置の撤廃を迫られ、丸裸にされてしまった。結果、アメリカから大量の安価なトウモロコシ(輸出補助金付き)が流入し、メキシコ国内のトウモロコシ農業は壊滅的な打撃を受けた。トウモロコシ農家が2~300万人も離農したと言われている。古代マヤ文明以来の伝統的トウモロコシ生産地帯のチアパス州では、「NAFTAは先住民族にとって死を意味する」との声明を発した先住民族(サパティスタ民族解放軍)が武装蜂起を敢行した。
このような国内生産者の犠牲を払ってまで、メキシコでは、米国の口車にのせられて「消費者利益」のために国内生産を放棄し、主食を米国に依存するようになった。そしてブッシュ政権の始めたトウモロコシのバイオエタノール化計画と、それにつけこんだ投機資金の流入によってトウモロコシ価格が高騰した2008年、今度はメキシコの消費者が深刻な栄養不足と飢餓に直面することになったのである。このメキシコの事例は他人事ではない。
経済学者は「トウモロコシ価格が高騰すれば、メキシコの国内生産が再び比較優位性を持つようになるのだから、また国内で生産すればよいではないか」と言うかも知れない。しかし、いちど耕作地が放棄され、農地が荒廃すれば、簡単に元通りにはなりはしない。かりに3年かけて生産が回復したとしても、その間に死んだ人々は元通りにはならないのである。
新古典派は、タイムラグがなく生産が瞬時に調整され、また、あらゆる事象は可逆的であるという非現実的な仮定に基づいてモデルを構築している。実際には、とくに農業の場合、生産を再開するための調整には時間がかかるのであり、その間に生じる餓死は不可逆現象なのである。
農文協から緊急出版された『TPP反対の大義』をさっそく買って読んでいる。巻頭論文は宇沢弘文先生の「TPPは社会的共通資本を破壊する」であった。そこには次のように書かれている。新古典派経済学の成立に貢献した大経済学者の新古典派批判であるだけに、何よりも重みのある言葉だと言えるだろう。
******農文協編『TPP反対の大義』9頁の宇沢弘文論文より***
(前略)
自由貿易の命題は、新古典派理論のもっとも基本的な命題の一つである。しかし、この命題が成立するためには、社会的共通資本の存在を全面的に否定した上で、現実には決して存在し得ない制度的、理論的諸条件を前提としなければならない。主なものを挙げれば、生産手段の完全な私有制、生産要素の可塑性、生産活動の瞬時性、そして全ての人間的営為に関わる外部性の不存在などである。しかしこの非現実的、反社会的、非倫理的な理論的命題が、経済学の歴史を通じて、繰り返し登場して、ときとして壊滅的な帰結をもたらしてきた。
(後略)
**********引用 終わり*************
K大Aセンターの後輩、S藤の紹介でブログを読みました。これはたいへん勉強になります。
ここ数年、私は水田の小さな生物を研究しており、さまざまな営農方法の田んぼを回って調査をしています。
その中で、現状では農薬や化学肥料を用いることよりも、たとえ有機農業であっても大量投入型の営農を行うことの方が弊害が大きいのではないかと思い至るようになりました。
たとえば小動物や藻類については、現在、普通に用いられている農薬で群集がひどく単純化することはありません。しかし、例えば施肥と除草を兼ねて米ぬかを大量に投入する農法は、酸素の欠乏に弱い生物をかなり広範に駆逐し、群集の単純化を引き起こすことになります。たとえば、オタマジャクシさえ育たないことがあります。
また、大量投入型の有機農業では、しばしば窒素過多の状態になり、雑草や害虫の被害を招きやすくなる(これが有機農法の手間を増大させ、しばしばほとんど収穫ができないほどの失敗の原因にさえなる)のみならず、肝心のコメの食味を落とす原因にもなります(合鴨農法もしばしば同様の結果を招く)。
これに対して、無施肥・無農薬で稲作をやっているところでは、収量こそ慣行農法の半分程度ですが、食味がよい米が安定してとれるということです(私は某宗教団体の自然農法の状況を見てきた)。
実は、私が現在禄を食んでいるS県では、自然農法を薄めたような「環境こだわり農業」というのがあって、化学肥料と農薬を慣行農法の半分以下に抑える取り組みをしています。これだと慣行農法にきわめて近いレベルの収量が得られるだけでなく、窒素の流出負荷も大きく抑えることができます。
一方、高橋五郎さんの「農民も土も水も悲惨な中国農業」などを読むと、ごく狭い土地から高収量を上げる必要に迫られて大量の肥料(それも、十分に発酵していない人糞など衛生的にも危険なもの)と化学肥料と投入して土地を疲弊させ、水質汚濁を招き、さらには生活苦から耕作権を公司に売り渡す羽目になり、さらに貧困化するという、きわめて悲惨な状況があることがわかります。この上、国際競争力をつけるための大規模化・効率化など進めたら、どんなひどいことになるか、火を見るより明らかでしょう。
やはり、農地は「社会的共通資本」であるという認識に立ち、少量でもなるべく良いものをなるべく安全な方法で作ってもらって、産物は地域のみんなで買い支えるというシステムをつくっていかなければ、私たちに将来はないでしょう。その方法を考える上でのキーワードが、低投入・低コスト・低収穫、そして高付加価値だと考えています。
私は農業は素人なので、せめて環境負荷削減と生物多様性の観点から「高付加価値」の創出を追求してきたいと考えています。
農地は社会的共通資本であるとの考えが日本の共通認識になることを願ってやみません。今後とも頑張ってまいりましょう。