大河ドラマ「真田丸」の第3話で村落間の薪炭採取権をめぐる入会林紛争が描かれました。
室賀郷の百姓・地侍が真田郷の入会林に侵入して山林を盗伐したため、真田源次郎は、地侍・百姓たちに「父に頼んで室賀にかけ合ってもらいます」と約束します。これは、まさに領主権力の重要な仕事だったと思います。領民の権利を保護できない領主は、領主失格でした。
今回の大河ドラマで期待大な点は、平山優氏、黒田基樹氏、丸島和洋氏という三人の大家が時代考証担当となって、最新の歴史研究の成果を踏まえて、百姓・地侍と領主(国衆)と戦国大名の関係性を描き出そうとしてる点です。第3話でさっそくその片鱗が見られました。
これまでの戦国時代劇において不満が残ったのは、大名同士の争いは克明に描かれてきたものの、民衆の暮らしと領主の関係があまり描かれてこなかった点です。今回は、戦国時代の百姓・地侍の日々の暮らしを描こうとする意気込みが感じられます。
主人公の源次郎信繁が、領主の次男というのも効いています。嫡男だと立場的に難しいのですが、次男だと村人たちの生活領域にまで降りてきて、村人たちと一緒に活動することも可能なポジションだからです。単に徳川家康を追い詰めた英雄伝では終わらないドラマが期待できるのです。
史実として、真田昌幸パパは、山林を積極的に保護する民政にも力を入れました。真田丸の第3話に出てきた入会権問題とも密接にかかわる点です。
上田市立博物館の所蔵史料を一つ紹介させていただきます。(以下のサイトより)
***四阿山の木材伐採を禁じる真田昌幸の朱印状***
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/sanada/siryo/sandai/041007.html
四阿山におゐてとが(栂)・ひそ木一切きりとるべからず。若もし此の旨にそむき候はば、成敗有るべき者也。仍って件の如し。
丁亥
十月廿九日 (朱印)(真田昌幸)
蓮花院
********
昌幸は、天正15(1587)年、真田郷の水源林であり、神の山である四阿(あずまや)山の主要な樹木であるとが(ツガ)とひそ木(シラビソ)の一切の伐採を禁止する通達を出したという史料です。
真田郷の人々にとって、村の水源林である四阿山は神の山でした。第3話の「紀行」で紹介された、山家神社の奥社は、四阿山の山頂であり、修験者たちの霊山として、白山権現を祀っています。
第一次上田合戦は別名、神川合戦ともいわれます。なぜ「神川」と呼ばれるかといえば、神の山であるところの四阿山を源流とする川だからです。神川合戦では、徳川軍が「神の川」に追い込まれて挟撃され、大量の溺死者を出すに至りました。昌幸は、神川合戦の2年後に神の山での木材伐採を禁止しました。
伐採禁止の意図が宗教的なものか、それとも洪水対策など治山・治水上の必要性によるものか、朱印状には理由は書かれていません。おそらくその双方の理由を含んでいたのではないでしょうか。
注目してほしいのは昌幸は、治山上重要な大径木であるツガとシラビソの伐採しか禁止していないことです。それ以外の灌木など小径木は薪炭用に採取を許可していたと思われます。住民の入会権、薪炭採取権も認めつつ、環境保全上重要な大径木の樹種のみ保護した。住民の権利保護と治山治水上の必要性を天秤にかけて妥協点を探った結果だろうということが伺われます。
日本の山林保護思想の先駆者というと、1654年の備前の大水害を教訓に、岡山藩で治山・治水のための山林保護政策に取り組んだ熊沢蕃山などが有名です。真田昌幸の山林保護政策は、それより70年も遡るわけです。
ちなみに真田の人々が信仰対象とした白山権現は神仏習合の神社かつ寺院でした。真田郷の山家神社にも白山寺が一緒に存在していました。ところが、明治維新の神仏分離と廃仏毀釈によって、白山寺の方は取り壊されてしまったそうです。真田昌幸がそれを知ればどれだけ激怒したことでしょうか。
神仏分離によって、修験道に基づく白山権現は廃され、白山権現を祀る全国の多くの寺院は廃寺になったそうです。山林荒廃にも直結する愚行でした。
本来の日本の神道は、自然を崇拝し、地域ごとに多様な、環境と生物多様性の保全思想を内包する信仰でした。
幕末長州で、一神教的な色彩の強い「国家」神道(=長州神道と呼ぶべき)という名の新興宗教が発生し、本来の神道はのっとられてしまったのです。長州神道から、地域ごとに多様な本来の神社を取り戻さなければなりません。
先日書いた以下の記事をご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/b2c61d6c9c49d4a0367afbb571c16850
室賀郷の百姓・地侍が真田郷の入会林に侵入して山林を盗伐したため、真田源次郎は、地侍・百姓たちに「父に頼んで室賀にかけ合ってもらいます」と約束します。これは、まさに領主権力の重要な仕事だったと思います。領民の権利を保護できない領主は、領主失格でした。
今回の大河ドラマで期待大な点は、平山優氏、黒田基樹氏、丸島和洋氏という三人の大家が時代考証担当となって、最新の歴史研究の成果を踏まえて、百姓・地侍と領主(国衆)と戦国大名の関係性を描き出そうとしてる点です。第3話でさっそくその片鱗が見られました。
これまでの戦国時代劇において不満が残ったのは、大名同士の争いは克明に描かれてきたものの、民衆の暮らしと領主の関係があまり描かれてこなかった点です。今回は、戦国時代の百姓・地侍の日々の暮らしを描こうとする意気込みが感じられます。
主人公の源次郎信繁が、領主の次男というのも効いています。嫡男だと立場的に難しいのですが、次男だと村人たちの生活領域にまで降りてきて、村人たちと一緒に活動することも可能なポジションだからです。単に徳川家康を追い詰めた英雄伝では終わらないドラマが期待できるのです。
史実として、真田昌幸パパは、山林を積極的に保護する民政にも力を入れました。真田丸の第3話に出てきた入会権問題とも密接にかかわる点です。
上田市立博物館の所蔵史料を一つ紹介させていただきます。(以下のサイトより)
***四阿山の木材伐採を禁じる真田昌幸の朱印状***
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/sanada/siryo/sandai/041007.html
四阿山におゐてとが(栂)・ひそ木一切きりとるべからず。若もし此の旨にそむき候はば、成敗有るべき者也。仍って件の如し。
丁亥
十月廿九日 (朱印)(真田昌幸)
蓮花院
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昌幸は、天正15(1587)年、真田郷の水源林であり、神の山である四阿(あずまや)山の主要な樹木であるとが(ツガ)とひそ木(シラビソ)の一切の伐採を禁止する通達を出したという史料です。
真田郷の人々にとって、村の水源林である四阿山は神の山でした。第3話の「紀行」で紹介された、山家神社の奥社は、四阿山の山頂であり、修験者たちの霊山として、白山権現を祀っています。
第一次上田合戦は別名、神川合戦ともいわれます。なぜ「神川」と呼ばれるかといえば、神の山であるところの四阿山を源流とする川だからです。神川合戦では、徳川軍が「神の川」に追い込まれて挟撃され、大量の溺死者を出すに至りました。昌幸は、神川合戦の2年後に神の山での木材伐採を禁止しました。
伐採禁止の意図が宗教的なものか、それとも洪水対策など治山・治水上の必要性によるものか、朱印状には理由は書かれていません。おそらくその双方の理由を含んでいたのではないでしょうか。
注目してほしいのは昌幸は、治山上重要な大径木であるツガとシラビソの伐採しか禁止していないことです。それ以外の灌木など小径木は薪炭用に採取を許可していたと思われます。住民の入会権、薪炭採取権も認めつつ、環境保全上重要な大径木の樹種のみ保護した。住民の権利保護と治山治水上の必要性を天秤にかけて妥協点を探った結果だろうということが伺われます。
日本の山林保護思想の先駆者というと、1654年の備前の大水害を教訓に、岡山藩で治山・治水のための山林保護政策に取り組んだ熊沢蕃山などが有名です。真田昌幸の山林保護政策は、それより70年も遡るわけです。
ちなみに真田の人々が信仰対象とした白山権現は神仏習合の神社かつ寺院でした。真田郷の山家神社にも白山寺が一緒に存在していました。ところが、明治維新の神仏分離と廃仏毀釈によって、白山寺の方は取り壊されてしまったそうです。真田昌幸がそれを知ればどれだけ激怒したことでしょうか。
神仏分離によって、修験道に基づく白山権現は廃され、白山権現を祀る全国の多くの寺院は廃寺になったそうです。山林荒廃にも直結する愚行でした。
本来の日本の神道は、自然を崇拝し、地域ごとに多様な、環境と生物多様性の保全思想を内包する信仰でした。
幕末長州で、一神教的な色彩の強い「国家」神道(=長州神道と呼ぶべき)という名の新興宗教が発生し、本来の神道はのっとられてしまったのです。長州神道から、地域ごとに多様な本来の神社を取り戻さなければなりません。
先日書いた以下の記事をご参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/b2c61d6c9c49d4a0367afbb571c16850