代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

真田丸第4回「挑戦」感想 ―宿命の対決の第2ラウンド

2016年01月31日 | 真田戦記 その深層
 今回は、後に宿命のライバルになる真田昌幸・信繁親子と徳川家康のドラマでの初対決の様子が描かれました。干戈を交えた対決ではなく、キツネとタヌキの化かし合いのような、言葉での腹の探り合い。これがじつにスリリングで面白かったです。両者の息詰まるやり取り、三谷脚本の真骨頂でした。

 昌幸と家康の「対決」はこれが二回目だったということで、最初の「対決」の思い出がドラマの伏線として話題にのぼります。そう、家康が信玄に完敗した三方ケ原の合戦が両者の最初の対決だったというわけです。そのときには戦場で実際に干戈を交えたわけです。

 そのとき武田軍の侍大将として逃げる家康を追い散らしたのが当時の武藤喜兵衛、のちの真田昌幸パパだったというのがドラマの設定。実際には、三方ケ原で、家康と昌幸がお互いの顔が見えるほどに肉薄して戦ったかどうかは分かりません・・・・。しかし、今回の大河ドラマでは実際にそうだったのだということを前提に観ましょう。

 面白かったのが、真田昌幸の方は「泣きわめきながら逃げる家康の顔」をはっきりと覚えているのに対し、家康の方が「武藤喜兵衛」という名前は恐怖と共に記憶しているものの、昌幸の顔までは覚えていないわけです。逃げる側と追う側の心の余裕のあり方が違ったわけですね。なるほど、昌幸が今後、家康を怖いとも思わず何度も盾つくのは、三方ケ原のときの「泣きわめきながら逃げる家康の顔」が目に焼き付ているからだったのか。思わず納得の設定です。

 この三方ケ原のシーン、回想シーンとしてちょっとでも挿入してくれら・・・と残念に思ってしまいました。内野家康の泣きわめきながら逃げる顔って、想像しただけで、「ああ見てみたい!」と思ってしまいます。まあ、その辺は視聴者の想像に任せるのが三谷脚本なのでしょう。

 今回の大河、あくまでも源次郎信繁の目線に徹して描かれています。信繁が見ていないものは映さないので、本能寺の変もスルーです。この描き方がよいと思います。あくまで信繁目線で、視聴者が信繁の人生をいっしょに追体験するという描き方でよいと思います。ああ、でも三方ケ原の回想シーンだけは、信繁が見ていないにしても、ちょこっと入れて欲しかったかも。そのシーンの撮影だけでえらいお金がかかりそうですが・・・・。

 
 さて、第4話で描かれた二回目の対決は、昌幸優位だった三方ケ原の対決のときとは変わって、家康優位です。その気になれば家康は昌幸を葬ることも可能な立場です。さすが策士の家康は、同じ策士の昌幸が考えそうなことは分かるわけですね。つまり織田に真田を高く売るために、上杉からも勧誘されているというウソの手紙をつくったのではないか・・・・と。家康は昌幸のウソを見抜きつつも、昌幸を許すわけです。まあ、これから昌幸が織田に臣従するのなら味方同士ですから、ここで昌幸を潰すのは得策ではないですね。とりあえず家康としては、あの武藤喜兵衛がどれほどの者かと、昌幸の人物の品定めをするために鎌をかけてみたという感じでした。

 
 さて、このタヌキとキツネの化かし合い。家康vs昌幸の次の「対決」はどのように描かれるのか楽しみです。ドラマはいよいよ天正壬午の乱に入っていきます。ドラマや映画で天正壬午の乱が描かれるのは本邦初のはず。三谷さんも堺さんも、天正壬午の乱はびっくりの展開なので、できるだけ予習しないで見るようにと言っていました。私も平山優さんの本を読んではじめて『天正壬午の乱』の史実の詳細が分かったのですが、史実は小説よりも奇なり・・・でした。今にしてみれば、読まない方がドラマがより面白くなってよかっただろうに・・・・・と後悔です。予習すると面白さが半減しますので、ネタバレ注意でドラマを楽しんでいきましょう!
 

 
P.S. 番組末の「紀行」では、昌幸が娘を信長に人質に差し出したという『加沢記』の一節が紹介されていました。国立国会図書館の近代デジタルライブラリーの以下のページの50コマにあります。
 
 http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1020961/42?tocOpened=1

「昌幸公始め矢沢、祢津、芦田、室賀、3月15日高遠へ出仕し給て人質被出け、昌幸公も御娘子を被渡ける、人々本領安堵無相違の旨・・・・」
 
 『加沢記』では、諏訪ではなく、高遠に行ったことになっていますが、長女を人質に出したのは確かなことでしょう。
 また、昌幸が信長に馬を贈ったのは確実です。信長が昌幸に出した天正10年4月8日付けの礼状が残っているからです。
 信長はさっそく昌幸からもらった馬を試乗したらしく、「馬形・乗り心地比類なき」と絶賛しています。ちなみにこの信長の手紙、宛先が「佐那田弾正殿」となっています。真田の字も間違え、昌幸の官職名も間違い(弾正ではなく安房守!)。ずいぶん失礼・・・。ちなみに、「弾正」は昌幸の父の幸隆(幸綱)の官職名なので、「さなだ弾正」(字は分からないにせよ・・・)の武名は信長の耳にも鳴り響いていたことの証左でしょうか?

 


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