去る12月13日、戦後の米国を代表する経済学者ポール・サミュエルソンが亡くなりました。ちょっと遅れましたが追悼文を書かせていただきます。私から見て、サミュエルソンの業績を一言で評せば、「経済学に非科学的な方法論を導入するのに貢献した第一級の人物」ということになりましょうか。サミュエルソンご本人を送ると共に、サミュエルソンの遺した悪しき方法論そのものも送ることにいたしましょう。
私のような非経済学者がこんなことを言うと、経済学者の中は「何をシロートがアホなことをぬかすか。サミュエルソンは経済学を科学的なものにした第一級の功労者ではないか」といった反論をされる方が多いことでしょう。
数学的方法論と科学的方法論は別もの
私はこのブログにおいて、多くの新古典派経済学者が陥っているのは「ピグマリオン症」という名の深刻なビョーキであると論じてきました(たとえばこの記事)。
経済学は確かに「数学的方法論」は採用しているが、数学的方法論と科学的方法論は別ものです。数学は科学ではありません。科学には「実験・実証」がありますが、数学には「実験」がありません。経済学がなぜ「エセ科学」かといえば、実験によらずして、恣意的な仮定を前提とし、黒板上で数学的に導き出した命題をもって「真理」と主張するからです。私はそれがピグマリオン症だと論じてきました。
そんな方法論がまかり通るのなら、恣意的な公理系(例えば合理的経済人のような)を導入しさえすれば、あらゆる「ウソ八百」を数学的に証明したとして、真理と主張することが可能になるからです。それを「真理」だと思ってしまった時点で既にビョーキなのです。
もっとも、経済学の方法論が非科学でトンデモなのだと、サミュエルソン的方法論を信仰している経済学者に訴えたところで、理解してもらうのは本当に困難なのです。それはカルトの信者を改宗させるような試みだからです。
しかし、ごくふつうの科学的方法論・科学的認識論を共有している人々に、経済学者の方法論がいかにトンデモかということを伝えるのはたやすいことです。私は、非経済学分野の人々に新古典派経済学の方法論の非科学性を伝え、経済学そのものをお笑いの対象にし、ふつうの人々が新古典派経済学者の垂れ流すウソだらけの言説を信用しなくなれば、既にこちらの勝ちだろう、そう考えてきました。
女性の視点から見た「お笑い経済学」
如何せん私は筆ベタで、「経済学をお笑いの対象にする」という点には全く成功していません。
最近、面白い本を読みました。経済学を一般の人々に分かりやすくお笑いの対象にするという点で非常に良い線をいっていると思います。今年の7月に文庫版が出た、ディアドラ・N・マクロスキー著(赤羽隆夫訳)『ノーベル賞経済学者の大罪』(ちくま学芸文庫、2009年、英語の原著出版は1996年)です。
著者のディアドラ・マクロスキーは、元は男であったが性転換手術をして女性になったというアメリカ人の経済学者です。女性に経済学者が少ないのはなぜか? 実生活に根ざした現実世界に関心のある女の目から見れば、男の経済学者たちのやっている数学モデル作りの作業は、単なる「お砂場遊び」にしか見えないからなのだと。
この本は、著者が男だった時代に惚れ込んだ「サミュエルソン的方法論」を、女になった時点で如何にアホらしいものか笑い飛ばしたものです。
マクロスキーが「黒板経済学」と呼ぶサミュエルソンの方法論とは、「経済学者の主たる仕事は実証でなく、黒板上で数学的命題を証明することである」というものです。サミュエルソンを犯人の一人として(他にも犯人は多いのですが)、数学モデル構築が崇高な営みであり、実証研究は軽視されるというトンデモがまかり通るようになったといえるでしょう。著者は、男たちが大真面目で取り組む「黒板経済学」を坊やたちのお砂場遊びと笑い飛ばします。
ちょっと本の第一章の「お砂場遊びの坊やたち」の一節をい引用させていただきます。
**マクロスキー、前掲書、30-34頁より抜粋して引用******
経済学者たちは、その多くは男たちだが、機械的な方法論は正しく、したがって正しい結果を導いていると確信している。・・・・・・彼らはマッチョ的な業績に満足し、大得意である。
・・・・
私はいまお砂場遊びに興じている三歳の甥っ子とその友達らを見守る叔母の気持ちでいる。坊やたちは遊びに夢中で、自信と活力に満ちており、遊びが現実であることを少しも疑っていない。
・・・・・
ここに女性の出番がある。・・・どうすれば経済学を現実世界に引き戻せるかと。・・・・男性はつねに女性から笑われることを恐れる。だから、みんなで一緒になって男たちの尊大な態度を笑ってやりましょう。
***引用終わり******
著者は経済学の三つの悪徳として、「サミュエルソンの黒板経済学」「クラインの統計的優位性」「ティンハーゲンの社会工学」の三つを挙げています。私は、著者のティンハーゲン批判は全く賛成できないので、本書の内容は半分支持して半分支持しません。しかし第3章の「黒板経済学の不毛」に書かれているサミュエルソンやドブルーの批判には、私は全面的に賛同いたします。
彼女は第3章で「諸定理に関するメタ定理(あるいはAプライム・Cプライム定理)」を導入します。このメタ定理は、ある前提条件Aを置けば、Cという含意が得られますし、前提条件Aをちょっとだけ変えたA'という条件の下ではCとは全く異なるDという含意が得られるという誰にでも分かる原理を述べたもので、著者はそこから、仮定を自由に選択し、どんな非現実な結論も思いのままに導出する黒板経済学の「お砂遊び」を笑い飛ばすのです。この第3章の論点が分かるだけで、一般の人々は、経済学者など何も恐れる必要がなく、安心してお笑いの対象とすることが可能になるでしょう。ぜひご一読ください。
マンデル=フレミング・モデル(笑)
マッチョな男たちの「お砂遊び」を笑い飛ばすという点で、面白い記事を一つ紹介しときます。ブログ界にいつも面白い話題を提供して下さる池田信夫先生は、その存在そのものがお笑いという感じがいたします。その大先生が財政政策を否定する際に「ナントカの一つ覚え」で必ず持ち出してくるのが、「マンデル=フレミング・モデル」という黒板経済学です。
ある女性ブロガーが、2008年10月3日の投稿記事で、池田先生のご高説を以下のように笑い飛ばしておりました。大変に笑えたので、一部紹介しておきます。
***以下引用*****
http://minami4669.blogspot.com/2008/10/2008-09-25-economics-713-21g71.html
池田信夫センセイの「マンデル・フレミング」モデル講義(笑)
池田信夫センセイは、なかなか面白い人ですね。中川昭一や麻生太郎の「経済政策」が、小泉・竹中流の緊縮財政を基調とする「構造改革路線」から大幅に後退して財政出動型の「ケインズ路線」に逆行しつつあることを、怒っているようですね。(中略)
そして池田信夫センセイが、出してくるのが「反ケインズ経済学」としての「マンデル・フレミング」モデルというわけです。たしかに「マンデル・フレミング」モデルは、ケインズ型の経済学を批判したものですが、この批判が有効かどうかは、必ずしも自明の事実ではありません。批判する人も少なくないのです。単に学説の一つですから。
しかし、池田信夫センセイは、「こんなことも知らないのか」「大学一年程度の経済学の常識だ」と言います。面白いですね。「マンデル・フレミング」モデルを「鵜呑み」にして、絶対化しているのは明らかに池田信夫センセイということだけは、はっきりしていますね。
(後略)
***引用終わり********
やはり女性の視点で笑い飛ばすというのは効果的ですね。このブロガーのminamiさん、最近更新していないのですが、じつに惜しいです。
ちなみにマンデル=フレミング・モデルというものは以下のようなものです。
財政赤字の拡大 → 実質長期金利が上昇し、民間投資が冷え込む(クラウディング・アウト効果) → 実質長期金利が上昇すると自国通貨が高くなる → 通貨高になると輸出が減少して輸入が増加するためGDPが減少する
ほとんど「風が吹けば桶屋が儲かる」という類のモデルです。池田センセイ、これを金科玉条にしておられるので、本当に面白い方です。
このモデルの前提として、政府の財政出動が実質長期金利を上昇させ、民間投資を冷え込ませるというクラウディング・アウト効果が仮定されていますが、これはもちろん一般化できるような命題ではありません。
だいたい1990年代には日本政府が一生懸命に財政赤字を出しても、実質長期金利など上昇しませんでした。その時点でこのモデルは破綻しているといえるでしょう。
そもそも財政政策が有効か無効かは、財政の出し方に依存するのであり、一概に一般化できるわけがございません。財政支出が、新規産業に結び付かないムダな財政出動ならば民間投資を減衰させること(=クラウディング・アウト)もあるかも知れません。しかし財政政策を通して新産業に結び付けば、その産業の将来的な期待利潤率が高まって民間投資は逆に増加することもあります。さらにその新産業が自然エネルギー産業のような輸入代替的なものであれば、輸入も減らすでしょう。財政出動が民間投資を促し輸入も減らせば、当然にGDPも高まります。
賢く財政を出せば有効ですし、ムダに出せば残念な結果になるかも知れないというだけのことです。それが「賢い財政」か否かは、最終的には実験してみねばわからないのです。経済は生き物ですから。
しかるに黒板経済学は、空想的世界の中の空想的前提の下で、質を無視した「財政」なる空疎な概念で一般化して、やれ有効だやれ無効だと論じるのです。こりゃ現実から乖離した「お砂場遊び」になりますわ。やれやれ。
私のような非経済学者がこんなことを言うと、経済学者の中は「何をシロートがアホなことをぬかすか。サミュエルソンは経済学を科学的なものにした第一級の功労者ではないか」といった反論をされる方が多いことでしょう。
数学的方法論と科学的方法論は別もの
私はこのブログにおいて、多くの新古典派経済学者が陥っているのは「ピグマリオン症」という名の深刻なビョーキであると論じてきました(たとえばこの記事)。
経済学は確かに「数学的方法論」は採用しているが、数学的方法論と科学的方法論は別ものです。数学は科学ではありません。科学には「実験・実証」がありますが、数学には「実験」がありません。経済学がなぜ「エセ科学」かといえば、実験によらずして、恣意的な仮定を前提とし、黒板上で数学的に導き出した命題をもって「真理」と主張するからです。私はそれがピグマリオン症だと論じてきました。
そんな方法論がまかり通るのなら、恣意的な公理系(例えば合理的経済人のような)を導入しさえすれば、あらゆる「ウソ八百」を数学的に証明したとして、真理と主張することが可能になるからです。それを「真理」だと思ってしまった時点で既にビョーキなのです。
もっとも、経済学の方法論が非科学でトンデモなのだと、サミュエルソン的方法論を信仰している経済学者に訴えたところで、理解してもらうのは本当に困難なのです。それはカルトの信者を改宗させるような試みだからです。
しかし、ごくふつうの科学的方法論・科学的認識論を共有している人々に、経済学者の方法論がいかにトンデモかということを伝えるのはたやすいことです。私は、非経済学分野の人々に新古典派経済学の方法論の非科学性を伝え、経済学そのものをお笑いの対象にし、ふつうの人々が新古典派経済学者の垂れ流すウソだらけの言説を信用しなくなれば、既にこちらの勝ちだろう、そう考えてきました。
女性の視点から見た「お笑い経済学」
如何せん私は筆ベタで、「経済学をお笑いの対象にする」という点には全く成功していません。
最近、面白い本を読みました。経済学を一般の人々に分かりやすくお笑いの対象にするという点で非常に良い線をいっていると思います。今年の7月に文庫版が出た、ディアドラ・N・マクロスキー著(赤羽隆夫訳)『ノーベル賞経済学者の大罪』(ちくま学芸文庫、2009年、英語の原著出版は1996年)です。
著者のディアドラ・マクロスキーは、元は男であったが性転換手術をして女性になったというアメリカ人の経済学者です。女性に経済学者が少ないのはなぜか? 実生活に根ざした現実世界に関心のある女の目から見れば、男の経済学者たちのやっている数学モデル作りの作業は、単なる「お砂場遊び」にしか見えないからなのだと。
この本は、著者が男だった時代に惚れ込んだ「サミュエルソン的方法論」を、女になった時点で如何にアホらしいものか笑い飛ばしたものです。
マクロスキーが「黒板経済学」と呼ぶサミュエルソンの方法論とは、「経済学者の主たる仕事は実証でなく、黒板上で数学的命題を証明することである」というものです。サミュエルソンを犯人の一人として(他にも犯人は多いのですが)、数学モデル構築が崇高な営みであり、実証研究は軽視されるというトンデモがまかり通るようになったといえるでしょう。著者は、男たちが大真面目で取り組む「黒板経済学」を坊やたちのお砂場遊びと笑い飛ばします。
ちょっと本の第一章の「お砂場遊びの坊やたち」の一節をい引用させていただきます。
**マクロスキー、前掲書、30-34頁より抜粋して引用******
経済学者たちは、その多くは男たちだが、機械的な方法論は正しく、したがって正しい結果を導いていると確信している。・・・・・・彼らはマッチョ的な業績に満足し、大得意である。
・・・・
私はいまお砂場遊びに興じている三歳の甥っ子とその友達らを見守る叔母の気持ちでいる。坊やたちは遊びに夢中で、自信と活力に満ちており、遊びが現実であることを少しも疑っていない。
・・・・・
ここに女性の出番がある。・・・どうすれば経済学を現実世界に引き戻せるかと。・・・・男性はつねに女性から笑われることを恐れる。だから、みんなで一緒になって男たちの尊大な態度を笑ってやりましょう。
***引用終わり******
著者は経済学の三つの悪徳として、「サミュエルソンの黒板経済学」「クラインの統計的優位性」「ティンハーゲンの社会工学」の三つを挙げています。私は、著者のティンハーゲン批判は全く賛成できないので、本書の内容は半分支持して半分支持しません。しかし第3章の「黒板経済学の不毛」に書かれているサミュエルソンやドブルーの批判には、私は全面的に賛同いたします。
彼女は第3章で「諸定理に関するメタ定理(あるいはAプライム・Cプライム定理)」を導入します。このメタ定理は、ある前提条件Aを置けば、Cという含意が得られますし、前提条件Aをちょっとだけ変えたA'という条件の下ではCとは全く異なるDという含意が得られるという誰にでも分かる原理を述べたもので、著者はそこから、仮定を自由に選択し、どんな非現実な結論も思いのままに導出する黒板経済学の「お砂遊び」を笑い飛ばすのです。この第3章の論点が分かるだけで、一般の人々は、経済学者など何も恐れる必要がなく、安心してお笑いの対象とすることが可能になるでしょう。ぜひご一読ください。
マンデル=フレミング・モデル(笑)
マッチョな男たちの「お砂遊び」を笑い飛ばすという点で、面白い記事を一つ紹介しときます。ブログ界にいつも面白い話題を提供して下さる池田信夫先生は、その存在そのものがお笑いという感じがいたします。その大先生が財政政策を否定する際に「ナントカの一つ覚え」で必ず持ち出してくるのが、「マンデル=フレミング・モデル」という黒板経済学です。
ある女性ブロガーが、2008年10月3日の投稿記事で、池田先生のご高説を以下のように笑い飛ばしておりました。大変に笑えたので、一部紹介しておきます。
***以下引用*****
http://minami4669.blogspot.com/2008/10/2008-09-25-economics-713-21g71.html
池田信夫センセイの「マンデル・フレミング」モデル講義(笑)
池田信夫センセイは、なかなか面白い人ですね。中川昭一や麻生太郎の「経済政策」が、小泉・竹中流の緊縮財政を基調とする「構造改革路線」から大幅に後退して財政出動型の「ケインズ路線」に逆行しつつあることを、怒っているようですね。(中略)
そして池田信夫センセイが、出してくるのが「反ケインズ経済学」としての「マンデル・フレミング」モデルというわけです。たしかに「マンデル・フレミング」モデルは、ケインズ型の経済学を批判したものですが、この批判が有効かどうかは、必ずしも自明の事実ではありません。批判する人も少なくないのです。単に学説の一つですから。
しかし、池田信夫センセイは、「こんなことも知らないのか」「大学一年程度の経済学の常識だ」と言います。面白いですね。「マンデル・フレミング」モデルを「鵜呑み」にして、絶対化しているのは明らかに池田信夫センセイということだけは、はっきりしていますね。
(後略)
***引用終わり********
やはり女性の視点で笑い飛ばすというのは効果的ですね。このブロガーのminamiさん、最近更新していないのですが、じつに惜しいです。
ちなみにマンデル=フレミング・モデルというものは以下のようなものです。
財政赤字の拡大 → 実質長期金利が上昇し、民間投資が冷え込む(クラウディング・アウト効果) → 実質長期金利が上昇すると自国通貨が高くなる → 通貨高になると輸出が減少して輸入が増加するためGDPが減少する
ほとんど「風が吹けば桶屋が儲かる」という類のモデルです。池田センセイ、これを金科玉条にしておられるので、本当に面白い方です。
このモデルの前提として、政府の財政出動が実質長期金利を上昇させ、民間投資を冷え込ませるというクラウディング・アウト効果が仮定されていますが、これはもちろん一般化できるような命題ではありません。
だいたい1990年代には日本政府が一生懸命に財政赤字を出しても、実質長期金利など上昇しませんでした。その時点でこのモデルは破綻しているといえるでしょう。
そもそも財政政策が有効か無効かは、財政の出し方に依存するのであり、一概に一般化できるわけがございません。財政支出が、新規産業に結び付かないムダな財政出動ならば民間投資を減衰させること(=クラウディング・アウト)もあるかも知れません。しかし財政政策を通して新産業に結び付けば、その産業の将来的な期待利潤率が高まって民間投資は逆に増加することもあります。さらにその新産業が自然エネルギー産業のような輸入代替的なものであれば、輸入も減らすでしょう。財政出動が民間投資を促し輸入も減らせば、当然にGDPも高まります。
賢く財政を出せば有効ですし、ムダに出せば残念な結果になるかも知れないというだけのことです。それが「賢い財政」か否かは、最終的には実験してみねばわからないのです。経済は生き物ですから。
しかるに黒板経済学は、空想的世界の中の空想的前提の下で、質を無視した「財政」なる空疎な概念で一般化して、やれ有効だやれ無効だと論じるのです。こりゃ現実から乖離した「お砂場遊び」になりますわ。やれやれ。
この主張が正しいというのならデータで示してください。
いつ日本に金利が上昇しないように外貨が流入してきたのですか? バブル崩壊以降、低金利の日本の金融資産はネットでみて、高金利の海外に流出する一方です。
日本において「財政赤字を出して金利が上がっても、外貨が流入したからまた金利が下がった」などという現象は発生していません。
日本の場合、民間に資金需要がないから金利が上昇せず、従って外貨も流入しないのでしょう。
>典型的な馬鹿っぷり
この言葉あなたにそのままお返しします。
あなたがそのような愚劣な言葉を使えば使うほど、経済学という学問そのものを貶めているのが分からないのですか?
あなたのコメントを見た一般読者は「やはり経済学なんて勉強するとモデルばかり信仰して現実も見えなくなり、おまけに品性も劣化していくのかな」と思うことでしょう。
まあ、当然その程度の思考力あるいは理解力しかお持ちでないようなので仕方ないことですが、他に記事も実にトンデモ揃いですね。
マンデルフレミングモデルでは、金利が上昇しないように外貨が流入してきます。つまり、金利上昇ということは観察できません。金利が上がっていないのはマンデルフレミングモデルに従えば当然であり、そこにデフレで期待インフレ率が下がれば金利が下がっていくのも当然なのです。それを
>だいたい1990年代には日本政府が一生懸命に財政赤字を出しても、実質長期金利など上昇しませんでした。その時点でこのモデルは破綻しているといえるでしょう。
なんて言ってしまうのは、「ワタシはモデルが何を示しているか全然理解できていませんよ」と告白しているようなものです。で、理解していないことを示しながらモデルを批判しているのですから、「ボクの理解できないモデルなんて嘘っぱちだい」って言っているようにも見えます。あるいは、モデルを理解できていないことも理解できていない馬鹿かのどちらかです。
ちなみにマンデル・フレミング信奉者の池田信夫氏は、麻生太郎がバラマキをやったら「物価上昇率は10%を超えるだろう」「金利も20%ぐらいになるだろう」と主張していました。実験結果はごらんのとおり、麻生がバラマキをしても、長期金利はまったく上がりません。逆に下がったくらいです。
マンデル・フレミングでこれだけ滑稽な大嘘が主張されたことを、あなたはどう思うのでしょう。
罵倒するだけの非礼な方とはまともな議論が成立しませんので、もう二度と書き込まないでください。
そもそも経済学のモデル(仮説)を使って、実証研究をおこなおうにも、パラメータが多すぎて、データにフィットするカーブを作ろうとすると、相当恣意的な初期条件とか係数の設定が必要になるんではないかと感じています。
で、そこで設定された値から逆に起きた事を説明しようとするという…。
(でなければ方程式を使って大儲けとか、方程式を使って景気循環を平準化できちゃうはずですよね。もっとも理論が実体経済の動向に組み込まれて自己言及的な矛盾が起きちゃいそうですが)
これでは確かに数字の遊びに見えてしまう。
ただ、何らかのフィットを得られればそれこそファラデーのおこなったように、背後の機構の解明に結びついて行くのだろうと思いますが。
DSGEモデルというのはパラメータ設定を自然におこなえる印象があるので、もしかしてこちらの手法が経済学が科学足りえる方向性なのかなとも。
ご返答とブックマークありがとうございました。私のブログからもリンクさせていただきました。今後ともよろしくお願いいたします。
ちなみに、再び、記事の本分に関することですが、サミュエルソン自身は経済学を必ずしも胸をはって科学だとは言い切っていなかったかもしれません。下はサミュエルソンの亡くなる前に残した言葉です。
「There 's a lot of causality in economics, even though it's very far from an exact science. (Jun 18 2009, 9:30AMAn Interview With Paul Samuelson, Part Two)」(経済学には多くの因果関係が見られる、それが厳密な科学からは程遠いものだとしても。)
ご指摘ありがとうございました。その通りです。私の記述に問題がありました。クラウディング・アウトが起こるか否かは、民間に資金需要があるか否かに依存しますね。書き方がまずかったです。
民間資金需要がなければ、政府が財政出動をしてもクラウディング・アウトは起こらず、逆に財政出動で新産業のインフラ整備を行えば、資金需要を誘発し民間投資を活性化させる効果の方が期待できるということを言いたかったのです。本文中の下記の部分を訂正しときます。
× 「財政支出が、新規産業に結び付かないムダな財政出動ならば民間投資を減衰させること(=クラウディング・アウト)もあるかも知れません。しかし財政政策を通して新産業に結び付けば、・・・・」
↓
○ 「民間に資金需要があるにも関わらず不要な財政支出を行えば民間投資が落ち込む(=クラウディング・アウト)もあるでしょう。しかし財政政策を通して新産業に結び付けば・・・」
今後とも、民間の新規投資を誘発するような賢い財政出動のあり方を考えてまいりましょう。
Philnewsさまのブログ、ブックマークさせていただきました。今後もよろしくお願い申し上げます。
ただ、ここで問題にしたのは、彼が黒板上での定理の証明に重きを置き、実証・実験・観察を軽視する風潮を生みだすのに貢献してしまったという点でした。
単なるモデルを真理であるかのように主張するという経済学者の悪癖は、ケインジアンか新古典派かの学派を問わずに存在するので(新古典派にその悪癖はより濃厚ですが)、それを問題にしたのです。
>モデルは必要ですよ。数理モデルなくして、考慮すべきパラメータが複数ある錯綜した状況をどうやって整理して理解するのですか?
私ももちろんモデルは必要だと思います。ただ、「モデル」と「自然」や「社会」は別のものです。モデルはもちろん重要ですが、実験・観察を離れて独り歩きしてはならないと思います。
自然科学では、モデルと実験・観察は不即不離の関係で、モデルが実験・観察から離れて独り歩きすることはないですが、経済学では「モデルの独り歩き」横行しています。それで「モデルの悪用」が起こりやすくなります。
その悪しき風潮の元をたどっていくと、サミュエルソンの責任は大きいように思えます。
>日銀が10兆円金融緩和すれば、それは本来の目的とはすれ違い、コモディティ投資、資源の投機へと向かう。
具体的な成長分野・産業分野がない状態で金融緩和しても、農産物や資源価格を押し上げるだけで、実質的にファンド救済のための庶民増税にしかなりませんね。
「財政支出が、新規産業に結び付かないムダな財政出動ならば民間投資を減衰させること(=クラウディング・アウト)もあるかも知れません。」
とのことですが、果たしてムダな財政出動なのか、有用な財政出動なのかがクラウディング・アウトするかどうかに関係するでしょうか?
一般的には使っていない、余っている資源を政府が調達した場合には、そもそも民間と競合しないのでクラウディング・アウトは発生せず、民間で活用している資源を政府が奪ってくるようなときに民間と競合して発生するのかな?と考えていました。
例えば、民間の資金需要がほとんどない中で、政府が国債発行により資金を市場から調達しても、市場金利は上がらないだろうし、失業者が多数存在する中では、公共事業で失業者を雇い入れても、それが労働市場での賃金上昇を招くとは思えません。
つまり、クラウディング・アウトの有無は財政支出が新産業に結びつくかどうかで決まるのではなくて、遊休資源の有無で決まるのではないかと考えますが、如何でしょうか?
次に、有用な財政支出なのか、ムダな財政支出なのか?という問いに関しては、まさに、おっしゃるとおり、財政支出が新たな企業投資や個人消費を呼び込む場合には、経済的に見て大変有用な財政支出に当たるというのは、その通りだと思います。
もし、財政支出が新たな投資や消費を呼び込まないとすると、その時には失業が解消され、GDPの底支えもできるものの、一旦、財政支出を停止すれば、また、失業者が増加し、GDPも下落するという、ネバー・エンディングな状態になってしまいますから。
近年、財政支出の有効性が疑われているのも、こうした新たな投資や消費を呼び込む公共事業をなかなか見つけられないからなのでしょう。
加速度原理とかの論文を読む限りでは、彼は実体経済のメカニズムについてのファラデー的な直観を数式に落とす経済学者であって、おもちゃをもて遊んでいる感じはしません。
モデルは必要ですよ。数理モデルなくして、考慮すべきパラメータが複数ある錯綜した状況をどうやって整理して理解するのですか?
個々のモデルの前提と限界を踏まえて、目の前の経済を理解する物差しとしてモデルを利用するのだと思います。
素粒子物理とかでも、観測器がある一連のシグナルを出せば、特定の粒子が生成されたと理解するわけですが、それは理論があってのことです。理論なくして、その観測結果をその粒子だと考えることはできません。 理論と独立した「自然」が人間の外にあるわけではないのです。
もっとも、だからといって、経済モデルを「悪用する」人まで擁護するつもりはありませんが、ちょっと気になったのでコメントさせていただきました。