現政権は支持しなくても、そのファーストレディだけは信頼し尊敬してきた。それなのに・・・・・。裏切られた気分である。
アッキーが名誉校長を務め、「神道教育」を掲げる森友学園が、国有地を適正価格の1割で購入したという事件。この事件を2月9日にスクープした朝日新聞は大いに称えたい。事件の詳報は以下のサイトを参照されたい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170216-00010000-bfj-soci
補助金をエサにした文科省官僚の大学へのあっせん天下りにしろ、国有資産の政権縁者への安値譲渡にしろ、国民の血税と資産を、政権が私物化して、仲良し縁故グループで分け合って、私腹を肥やしているという構図である。
東南アジアでは、かつてのマルコス独裁政権(フィリピン)やスハルト独裁政権(インドネシア)がこうしたことをやってきて、「クローニー資本主義」と批判され、最後は民衆の力で打倒された。日本でいま展開されているのは、まさに「クローニー資本主義」の末期症状そのものである。
南スーダンの「戦闘」問題にしろ、この国有地払下げ問題にしろ、内閣総辞職に相当するスキャンダルだろう。
明治以来続く長州閥の伝統
山城屋事件
権力を得ると、国家資産を私物化し始めるのは長州閥の伝統だ。
明治5年、長州閥の兵部大輔・山縣有朋は、陸軍省の公金(国民の血税)を、同じ長州閥の御用商人・山城屋和助に貸し付け、山城屋はその公金を生糸相場での投機に用いて、巨額の損失を出した。その損失にもかかわらず、それを取り返そうと山縣はさらに公金を追加で山城屋に貸し付け、山城屋は巨額の損失を膨らませながら、その公金でパリで豪遊していたという。
この汚職が発覚すると、山城屋は山縣をかばって証拠書類を全て焼き捨てた上、陸軍省で割腹自殺した。
本来ならば、ここで山縣有朋の政治生命は終わったはずなのである。しかし、陸軍大将・西郷隆盛が温情で山縣を救ってしまったがために、山縣は復活し、覇王のように明治の政界に君臨するようになってしまった。
国民の血税を勝手に投機に回すという手法は、現在の安倍政権で、国民年金を勝手に株式運用して、5兆円もの損失を出すという事象にまで引き継がれているといえるだろう。
尾去沢銅山事件
大蔵大輔の長州閥・井上馨が、旧南部藩の村井家所有の尾去沢銅山を不法な手段で無理やりに没収し、国有化した上で、それを自分の家に出入りしていた政商の岡田平蔵に不当な安値で売却し、私腹を肥やした事件。これも本来であれば、井上の政治生命はここで終わったはずであるが、長州閥の力でたすけられた。
これなど、いま展開されている国有地の森友学園への売却事件にそのまま通じる事件である。
この時、井上馨はいったんは大蔵大輔の辞職に追い込まれている。今回の森友学園問題で、誰も責任を取らないとすれば、現代長州閥政治は、明治の頃よりもさらに後退・悪化しているといえるだろう。
インドネシア賠償事件
時代は下って、昭和の長州閥・岸信介内閣。岸内閣の当時、日本の戦争責任を償うため、「戦後賠償」として、フィリピン、インドネシア、ビルマなどに対し、国民の血税による賠償がなされた。戦時中は東條内閣の閣僚であり、戦争を起こした当事者の側であった岸信介は、あろうことか賠償資金を着服して私腹を肥やしていた。
一例として対インドネシア賠償においては、日本製の中古船舶が供給されることになった。その船舶供給を落札したのは、岸信介の政商の木下茂であった。その船舶は、中古船であるにもかかわらず、なぜか新造船舶よりも高値で落札され、インドネシアに供給された。
このように、対インドネシアやフィリピンへの賠償をめぐっては、おおむね、岸内閣の取り巻きたちが談合による水増し価格で落札し、その利ザヤが、岸信介の政治資金となって還流していたのである。
もちろん賠償資金は、国民の血税であった。戦争を起こしたことへの償いに使われるべき資金が、あろうことか戦犯の一人である岸信介が私腹を肥やすために使われていたのである。
国民の血税である賠償資金で、東南アジアの政権を手なづけると共に、その資金を還流させて私腹を肥やしたという岸元首相の手法は、今も国民の血税をフィリピンやインドやアフリカやアメリカで威勢よくバラまいている安倍首相の外交姿勢にも受け継がれているといえるだろう。
国民の血税を詐取するのは長州レジームの伝統なのである。
アッキーが名誉校長を務め、「神道教育」を掲げる森友学園が、国有地を適正価格の1割で購入したという事件。この事件を2月9日にスクープした朝日新聞は大いに称えたい。事件の詳報は以下のサイトを参照されたい。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20170216-00010000-bfj-soci
補助金をエサにした文科省官僚の大学へのあっせん天下りにしろ、国有資産の政権縁者への安値譲渡にしろ、国民の血税と資産を、政権が私物化して、仲良し縁故グループで分け合って、私腹を肥やしているという構図である。
東南アジアでは、かつてのマルコス独裁政権(フィリピン)やスハルト独裁政権(インドネシア)がこうしたことをやってきて、「クローニー資本主義」と批判され、最後は民衆の力で打倒された。日本でいま展開されているのは、まさに「クローニー資本主義」の末期症状そのものである。
南スーダンの「戦闘」問題にしろ、この国有地払下げ問題にしろ、内閣総辞職に相当するスキャンダルだろう。
明治以来続く長州閥の伝統
山城屋事件
権力を得ると、国家資産を私物化し始めるのは長州閥の伝統だ。
明治5年、長州閥の兵部大輔・山縣有朋は、陸軍省の公金(国民の血税)を、同じ長州閥の御用商人・山城屋和助に貸し付け、山城屋はその公金を生糸相場での投機に用いて、巨額の損失を出した。その損失にもかかわらず、それを取り返そうと山縣はさらに公金を追加で山城屋に貸し付け、山城屋は巨額の損失を膨らませながら、その公金でパリで豪遊していたという。
この汚職が発覚すると、山城屋は山縣をかばって証拠書類を全て焼き捨てた上、陸軍省で割腹自殺した。
本来ならば、ここで山縣有朋の政治生命は終わったはずなのである。しかし、陸軍大将・西郷隆盛が温情で山縣を救ってしまったがために、山縣は復活し、覇王のように明治の政界に君臨するようになってしまった。
国民の血税を勝手に投機に回すという手法は、現在の安倍政権で、国民年金を勝手に株式運用して、5兆円もの損失を出すという事象にまで引き継がれているといえるだろう。
尾去沢銅山事件
大蔵大輔の長州閥・井上馨が、旧南部藩の村井家所有の尾去沢銅山を不法な手段で無理やりに没収し、国有化した上で、それを自分の家に出入りしていた政商の岡田平蔵に不当な安値で売却し、私腹を肥やした事件。これも本来であれば、井上の政治生命はここで終わったはずであるが、長州閥の力でたすけられた。
これなど、いま展開されている国有地の森友学園への売却事件にそのまま通じる事件である。
この時、井上馨はいったんは大蔵大輔の辞職に追い込まれている。今回の森友学園問題で、誰も責任を取らないとすれば、現代長州閥政治は、明治の頃よりもさらに後退・悪化しているといえるだろう。
インドネシア賠償事件
時代は下って、昭和の長州閥・岸信介内閣。岸内閣の当時、日本の戦争責任を償うため、「戦後賠償」として、フィリピン、インドネシア、ビルマなどに対し、国民の血税による賠償がなされた。戦時中は東條内閣の閣僚であり、戦争を起こした当事者の側であった岸信介は、あろうことか賠償資金を着服して私腹を肥やしていた。
一例として対インドネシア賠償においては、日本製の中古船舶が供給されることになった。その船舶供給を落札したのは、岸信介の政商の木下茂であった。その船舶は、中古船であるにもかかわらず、なぜか新造船舶よりも高値で落札され、インドネシアに供給された。
このように、対インドネシアやフィリピンへの賠償をめぐっては、おおむね、岸内閣の取り巻きたちが談合による水増し価格で落札し、その利ザヤが、岸信介の政治資金となって還流していたのである。
もちろん賠償資金は、国民の血税であった。戦争を起こしたことへの償いに使われるべき資金が、あろうことか戦犯の一人である岸信介が私腹を肥やすために使われていたのである。
国民の血税である賠償資金で、東南アジアの政権を手なづけると共に、その資金を還流させて私腹を肥やしたという岸元首相の手法は、今も国民の血税をフィリピンやインドやアフリカやアメリカで威勢よくバラまいている安倍首相の外交姿勢にも受け継がれているといえるだろう。
国民の血税を詐取するのは長州レジームの伝統なのである。
「子供たちにナチス以外の教育を受けさせたくない」と言ったゲッベルズ夫人を連想してしまいました。(映画「ヒットラー最後の12日間」のおしまいの方)
これで自然だ有機農法だと言われても、ナチスや石原慎太郎が自然好きであることと何ら変わりなく思えます。
ところで、戦時中の情報統制が徹底していたはずの時代より今日の方が息苦しいと感じてしまうのですが、戦後の「民主主義教育」は何が間違っていたのでしょうか。
ここ数十年で「民主主義」がゆらいでしまうのは、ネット時代の新手の情報戦略のせいなのか、それとも戦後民主主義になにかが欠けていたせいなのか気になります。それとも何も変わっておらず、変わったのはこの国に展望がないことが露呈しただけ、なのかもしれませんが。
ともかく、民衆はかつてないほどなめられていますね。
>アッキーは「公立へ行ったとたんに(愛国教育が)揺らいでしまう」
アッキーに関しては、民族差別をするような感性に賛同する人のようには思えませんが・・・・。
森友学園の名誉校長は辞職して、反差別のスタンスを示してほしいと願います。
>戦時中の情報統制が徹底していたはずの時代より今日の方が息苦しいと感じてしまう
かつての大日本帝国は、複数民族をその支配下に置く「帝国」だったため、為政者の側がタテマエ的には「五族協和」とか「内鮮一体」とか、差別を認めないというスタンスを掲げてはいました。
いまは、為政者の側が平然とヘイトスピーチまがいの発言をしますから、下手をすると大日本帝国時代よりも劣化しています。二世代目・三世代目の世襲政治家は劣化コピーにすぎないということでしょう。
>戦後の「民主主義教育」は何が間違っていたのでしょうか。
やはり自分たちで勝ち取った民主主義でなかったという点は、あったかも知れません。
今度こそ、自分たちの手で民主主義を勝ち取るという経験をする必要があるのかと思います。
失礼ながら、さすがに上記には失笑してしまいした。
まあ、以下の行動に信頼、尊敬する感性の持ち主だというならば特にツッコミもありませんけども。
https://www.facebook.com/akieabe/posts/10153324319836779
いい加減、政治を語られる言葉ではなく為された結果で判断するくらいの節操は持った方が良いのでは、と人事ながらに思いました。
靖国神社(=私の定義では長州神社)を参拝しているからといって、もちろん、その人の人格・人物を否定することなどできません。
そういうステレオタイプで紋切り型の人物判断をするから、左派は嫌がられるし、社会的な支持を得られないのだと思います。
純粋な気持ちで非戦の誓いを胸に参拝している方々の気持ちを理解した上で、長州神社の真実を伝え、あの場所では非戦の誓いなどできないということを訴えるだけです。
それはさておき、かの学校法人が経営する幼稚園の教育内容が、疑獄とは別に伝わっています。
いわく、お弁当に犬の毛が入っているからと言って弁当を捨てさせる、あとで保護者に電話をかけて犬を処分しろという。
2歳児に「海軍のしきたり」と称して水やお茶を飲ませない。おむつをさせずおもらしすると汚れたパンツを通園鞄に入れて持ち帰らせる。本人には「ボク赤ちゃんでした。ごめんなさいごめんなさい」と謝らせる。退園した保護者が、何か失敗してごめんなさいを繰り返すわが子を「こんな風にしつけた覚えはないのに」と話していたといったことが国会でも取りあげられました。
こういう「教育」をすると教育勅語が頭に入ったり、愛国心が身についたりするのでしょうか。
「基本的人権」が嫌いだからと言ってそこまでやるのか。
こういう教育を受けた人間で構成される軍隊は攻めているときは強いかもしれませんが、もっと強いものが現れたらそいつに平伏してひーこらするに決まっています。
捕虜になっても大脱走をして敵を困らせるとか彼らにはできそうにないです。
昭恵夫人には期待も嫌悪もしていなかったのですが、森永は買わないことにします。
http://www.youtube.com/watch?v=emqjG4qiDnI
これは愛国心を養う教育とはいえません。頭の悪い大人の自己満足です。こんなことをやったら、逆に安部さんのイメージが悪くなるだけでしょう。もし民主党政権の首相だったとしても、普通に不気味な光景です。森友学園側が、「安部さんは特別な存在だからこれは正しい」と思っているのでしょうか?
そうだとしたら明らかに異常です。
>日本会議のことを「日の丸や教育勅語の好きな極左」
自分たちだけが正しいと信じ込み、人の話を聞かず、特定の人々をレッテル貼りで排斥し、寛容性がない・・・などの点でまさに、日本会議はひところの左翼前衛政党と体質的には変わらないですね。
少なくともアッキーは、自分と考えの異なる人々の主張に耳を傾け、対話し、理解し合おうという思考性を持った方だとは思います。ですので感性的には、日本会議の全体主義にも、左翼の前衛主義にも同調しない人だとは思います。
その上で、今回のことはアッキーにとっては、痛恨の大失敗だったと思います。
http://yuruneto.com/tukamoto-tyousyuu/
ゆるねとにゅーす
いくら日本人が明治維新が好きだからいっても、これはどうかと思いますね。やっぱり違和感しかありません。
でも彼女の経歴にこの社会の矛盾と向き合った記録なんてないでしょう。出身成分だけを根拠にこき下ろすのは問題だけど、同時に彼女を信頼する要素もないんです。ちょっと入れ込みすぎたんじゃないですか?
でも、もっと言うなら安倍晋三の連れ合いという属性しか持たない(この辺ヒラリーとは違う)彼女がここまで注目されるのが異常です。およそ民主主義の原則に反する。現行資本主義社会の封建制から引き継いだファーストレディの制度が異常です。明らかに王侯の原則です。彼女は何ら民衆の負託を受けていないし、であるならば公人であるはずがない。にもかかわらず、右(森友学園、あるいは日本会議)も左(一部脱原発派、一部高江支援者、関さんも)も彼女の動向を政治的に規定し、しかもそれが現実の政治において一定の有効度を持っていることこそを批判しなければならないと思うのですがどうですかね。
もちろん彼女のすべての見解に賛同しているわけではありませんが、右派であっても保守であっても、課題ごとに共闘できる部分があれば当然するべきだと思います。