代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

渋沢栄一による赤松小三郎の評価

2019年09月22日 | 赤松小三郎
 だいぶ遅れましたが、渋沢栄一の一万円札の肖像就任と再来年の大河ドラマ主役抜擢を祝ってこの記事を書きます。
 紹介したいのは、渋沢栄一が議会政治の先唱者として赤松小三郎を高く評価していたという事実です。

 紙幣の肖像に始めて旧幕臣としてのアイデンティティーを持つ人物が採用された点はまことに意義深いと思う。福沢諭吉も一時期幕臣であったが、彼は「幕臣」としてのアイデンティティーを持ち合わせていたようには見えない。
 
 渋沢栄一は、深谷の豪農出身であるが、その才を見込まれて一橋慶喜の家臣に取り立てられ、「幕府」派遣でフランスに留学もした。この渋沢の事例そのものが、江戸時代の身分は世襲であり、身分の壁を乗り越えることはできなかったという俗説の誤りを雄弁に語っている。

 「日本資本主義の父」と呼ばれるようになった渋沢栄一も、若いころは藤田東湖の息子の藤田小四郎と交流し、すっかり水戸学思想に感化された一人である。渋沢は文久3年に同志70名を集めて横浜焼き討ちテロを計画している。

 開明的で合理的な実業家となる渋沢栄一ですら、若いころはこうだった。その優秀な若いエネルギーを、未来のための生産的な方向性に向かわせるのではなく、破滅へ向かわせていたのが水戸学イデオロギーのなせる業であった。

 たぶん大河ドラマでは、明治になってからの財界の大物としての活躍よりも、波乱万丈の幕末の頃の渋沢を中心に描くことになるのではなかろうか。水戸学に感化されてテロを計画していた頃の渋沢をどう描くのかなど見ものである。

 さて、渋沢は、明治財界のリーダーとして多忙な中で、旧主の慶喜の伝記である『徳川慶喜公伝』(原著大正6年刊行)の編纂に心血を注いだ。

 この書は、単なる旧主礼賛の類の本ではない。戦前における実証的歴史学が成し遂げた金字塔であるように思える。慶喜本人への聞き取りと一次史料の双方を組み合わせて真相を探るあたり、歴史学の手法としても、現代に通じる斬新で精緻な手法であったと思う。

 例えば同書は、徳川慶喜が議会政治を目指して大政奉還を行ったことを明らかにしている。にもかかわらず、戦後の歴史学は、「幕府は封建制の枠組みから抜け出られなかったから薩長に武力で打倒されるしかなかった」というテーゼに固執するあまり、渋沢が明らかにしたこの事実関係を無視し続けたと言ってよいだろう。


 慶喜が土佐藩の大政奉還建白書を受け入れた理由は、土佐藩の建白書に「上院に公卿・諸大名、下院に諸藩士を選補し、公論によりて事を行はば、王政復古の実を挙ぐるを得ん」とあるのを見て、それを大いに喜び、それが実現されるのであればと、腹心の板倉伊賀守と永井玄蕃頭と相談の上、決したとのことである(渋沢、『徳川慶喜公伝』4、平凡社東洋文庫:55頁)。

 もっとも慶喜の理解には若干の誤りがある。実際には、土佐藩の大政奉還建白書には、下院議員の被選挙権は諸藩士のみではなく庶民にまで広げることが唱えられていた。いずれにしても、慶喜は議会政治の導入を前提として大政奉還に同意したというのが真相なのである。

 その上で渋沢は、当時、慶喜も含めて議会政治を開始する機運が高まった背景として、当時高まっていた公議政体論の系譜を紹介する。渋沢は、土佐藩の大政奉還建白書の提出に先立つ幕末の公議政体論として、阿部正弘、横井小楠、大久保一翁、フランス人モンブラン、そして赤松小三郎を紹介している。とりわけ、全体の記述の半分近くを赤松小三郎の議会政治論の紹介に充て、それを評価するのである。以下の引用箇所は、以前、ブログ「本に溺れたい」のrenqinさんから紹介されて知ったものである。謝した上で、若干長くなるが引用させていただく。


***以下、渋沢栄一『徳川慶喜公伝』4、平凡社東洋文庫、1968年:39~41頁より引用。原文は、全文が一段落であるが、読みやすいよう改行した

 按ずるに、公議政体の論は其由来する所久し、初め嘉永六年米艦の渡来するや、幕府は其国書を諸大名・諸有司に示して広く意見を徴したり、これ国家の安危に関する大事について、公議輿論を重んずる思想の事実に顕れし嚆矢とすべし。

 尋(つい)で、安政元年阿部伊勢守が烈公に示したる幕政改革案の中には、新たに一局を設け、諸藩の俊才を此に集めて、国事諮問の機関たらしめんとせること見えたり(水戸藩史料)、実行の運びには至らざりしかど、此思想の発展漸く急なるを察すべきなり。

 まして文久・慶応の交に至りては、海外の事情に注意する者多かりければ、欧洲に行はるゝ議院制度の如きも、やゝ伝聞する者あり、天下の公論を以て天下の政治を行はんとの思想は、漸く識者の間に普及せるものゝ如く、文久二年横井平四郎(時存、小楠と号す)は、「大に言路を開き、天下と与に公共の政をすべし」と建言し(小楠遺稿)、慶応二年の春、大久保一翁(忠寛)は、「大小の公議会を設け、大公議会は全国に関する事件を議し、小公議会は一地方に止まる事件を議する所とし、其議場は、前者は京都或は大坂に置き、後者は江戸其他各都会の地に置くべし。又大公議会の議員は諸大名を以て之に充て、内五名を選びて常議員とし其他の議員は、諸大名自ら議場に出づるも、管内の臣民を選びて出場せしむるも妨げなきことゝすべし。五年に一回之を開き、臨時議すべき事件あらば、臨時にも開くべし。小公議会の議員・及会期は、之に準じて適宜の制を定めん」と論じたり。

 其頃仏人モンブランは薩藩士に語りて、「上下両院の制を設け、上院は公卿・諸大名、下院は諸大名の家臣集会して国事を議定し、斯くて天皇に奏聞して天下に施行すべし」といえる由も伝はれり(続再夢紀事)。
 横井平四郎も亦、「大変革の時節なれば、議事院を建て、上院は公武御一席、下院は広く天下の人才御挙用あるべし」と建言せり(小楠遺稿)。

 同三年上田藩士赤松小三郎が越前藩に提出せる意見書にも、「大君・堂上・諸大名・旗本の中より六人択びて、主上輔佐の宰相たらしめ、内一人は国政を総理し、他は銭貨出納・外国交際・海陸軍・刑法・租税を分掌し、其以下の諸官も、門閥を論ぜずして広く人才を採用し、万機悉く朝廷より出づべし。又別に議政局を設け、之を上下の二局に分ち、下局は国の大小に応じて、諸国より道理に明なる人を、自国・及隣国の入札にて凡そ百三十人を選出し、其三分の一は常に都府に駐在せしめ、年限を定めて勤めしむべし。上局は堂上・諸大名・旗本の中にて、入札を以て凡そ三十人を選び、交代在都して勤めしむべし。国事は総べて此両局にて決議の上、天朝へ建白し、御許容の上、天朝より国中へ命じ、若し御許容なき箇条は、議政局にて再議し、愈(いよいよ)公平の説に帰すれば、此令は是非とも下さゞるを得ざる旨を天朝に建白して、直に議政局より国中に布告すべし。両局人選の法は、門閥・貴賎に拘(かかわ)らず、道理を明辯して私なく、且人望の帰する人を公平に選ぶべし。又其局の主務は、旧例の失を改め、万国普通の法律を立て、并に諸官の人選を司り、万国交際・財貨出入・富国強兵・人才教育・人気一和の法律を立つるを掌(つかさど)る」とあり(続再夢紀事)。

 是等は其細目に差異はあれども、竜馬の公議政体論と其揆(そのき)を一にするものにして、蓋(けだ)し気運の然らしむる所、欧洲思想の模倣とのみは言ふ能(あた)はざるなり。


***引用終わり***************


 渋沢は、土佐の建白書に先立つ公議政体論の紹介として、全体の約半分の記述を赤松小三郎の建白書の紹介に宛てていた。

 赤松小三郎が京都で活躍していた当時、渋沢はヨーロッパに留学していたので、小三郎との面識はなかったであろう。しかし大政奉還に先立つ公議政体論の系譜をたどる中で、小三郎の建白書の重要性を認識したのだと思う。

 その上で、「幕末」の議会思想を概括し、「蓋し気運の然らしむる所、欧洲思想の模倣とのみは言ふ能はざるなり」と総括する。この箇所は本当に「よく言ったものだ」と嬉しく思う。

 著者も前著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』の中で論じたが、赤松小三郎は、英米の議会政治制度を単純に模倣しているのではない。英からも米からも、日本の国柄に合うようにと、その良い部分を取り入れようとしている。普通選挙という民主的なところはアメリカから学びつつ、大統領の権限が強すぎるのはアメリカ政治の問題点で、日本の国柄に合わないとしてこれを退け、議院内閣制を良しとした。渋沢の言う通り、これはたんなる欧米思想の模倣ではないのである。

 大正時代に、渋沢栄一ほどの人物がこれほど赤松小三郎を評価していたにもかかわらず、長薩史観に凝り固まった戦後の歴史学は、これを半ば意図的に忘れ去ったのである。
  


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