拙著『赤松小三郎ともう一つの明治維新』(作品社)を上梓してから3年が経ちました。おかげさまで6刷まで版を重ねました。続編を書いていますが、古文書と格闘しており、なかなか完成しません。来年のできるだけ早い時期には出したいです。
この間、肯定的な評価もたくさんいただき、また批判的意見もいただきました。批判は保守派(あるいは右派)からもリベラル派(あるいは左派)からもあります。肯定的な評価も右派からもあれば左派からもあるということで、面白い現象だと思っております。
「吉田松陰先生を貶めるなんて許せない!」という批判のメールをいただいたこともありました。これは当然来るだろうと思っていました。
本日は、先日いただいた共産党支持者の方からの批判に対する私の回答を述べさせていただきます。私は、著書の中で、自民党を「長州右派」、共産党を「長州左派」と書いたので、当然批判されるだろうと思っておりました。しかしながら、『しんぶん赤旗』が評価して下さったのを皮切りに、じつは共産党の支持者の方々も、意外にも私の本を評価して下さる方が多かったのです。
しかしやはり批判的意見もやってまいります。先日いただいた批判は以下のようなものでした。
>(講座派歴史学者として)遠山茂樹や井上清を挙げていましたが、この二人はマルクス主義の方法論にたち、講座派の影響を受けていたかもしれませんが活躍したのは戦後で、いわゆる講座派の学者、研究者と呼ばれるのは戦前に活躍した野呂栄太郎、山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎、大塚金之助等をさします。この人々は長州出身ですか? 吉田松陰の尊敬者ですか? この規定は誤解を与えるので削除するか訂正文を載せるべきです。
この批判に対して、私は以下のように回答させていただきました。
戦前の講座派マルクス主義は、資本主義や地主制などもっぱら経済史を論じており、政治史はほとんど扱っておりません。(当時は学問の自由、言論の自由がないので政治問題は扱えなかった)。
講座派の中で、明治維新の政治史を通史として体系的に論じたのは、遠山茂樹氏だと考えます。戦後歴史学の主流を形成したのは遠山茂樹氏と、それに連なる講座派マルクス主義史学です。彼らは、戦前は扱えなかった政治史を正面から論じ、戦後の講座派の歴史観をつくり上げたのです。
戦後の講座派による明治維新の政治史の定型を生み出したのは遠山茂樹氏の『明治維新』(岩波書店、1951年)だと思います。遠山氏は、維新変革の主体を、長州の尊攘派が倒幕派へと転換していく過程にあると論じました。
その歴史学者が長州出身者であるか否かの問題ではなく、明治維新を長州中心に論じるか否かの問題です。戦後の講座派は明確に維新変革の主体を長州中心に論じ、それゆえ「佐幕派」というレッテルを貼られた諸藩の研究を徹底的に遅らせる空気を生み出してしまったのです。
たとえば出自が講座派の歴史学者である松浦玲氏は1970年の著作で次のように述べておられます。
「これまで、長州の尊攘激派が倒幕派に転化していくコースが明治維新の主流だと考えられ、その政治の力学を理解できないものは明治維新を語る資格がないと思われる傾きが強かった」(松浦玲『日本の名著30 佐久間象山・横井小楠』中央公論、81頁)。
当時の講座派の雰囲気がよくわかる文章です。戦後の講座派は明確に長州中心史観をつくったのです。
こうした雰囲気の中では、赤松小三郎が無視されるのも当然でした。公儀や「佐幕」というレッテルを貼られた諸藩の側の多くの人材の研究が進まなかった主要な原因は、講座派マルクス主義史学の長州中心史観にあり、そえゆえ私は講座派を「長州左派」と呼びました。
いまでも講座派の歴史学者は、吉田松陰を高く評価する一方で、佐久間象山も不当に扱っておりますし、赤松小三郎も不当に評価しています。これは私が本の中で批判している通りです。
>「自民・共産の両党に、吉田松陰的なエートスから脱却してほしい・・・」この「吉田松陰的エートス」とはどんなことを言おうとしているのか分かりませんが、9条改憲を進めること、対外侵略の空気を煽ることを指しているのなら自民党にはあてはまりますが、共産党にはてはまらないでしょう。
「吉田松陰的エートス」とは、いざとなればテロや超法規的措置も辞さずに、少数の革命的結社が「正義(と信じたこと)」を断行してしまうことです。吉田松陰の松下村塾の門人たちがやった数々の暗殺行為や、英国公使館の焼き討ちや、京都御所への武力攻撃や、外国船無差別砲撃などがそれに相当します。
そして、共産党がそういうことをやりかねない集団だと思われているのは、マルクスのプロレタリア独裁論や前衛党理論を放棄しないからです。プロレタリア独裁論を放棄するということは、すなわちマルクス主義を放棄することを意味します。
マルクス主義=社会主義ではありませんから、マルクス主義を放棄した上で、社会主義を論じればよいだけかと思います。
確かに、共産党はマルクスの「プロレタリア独裁」を、「プロレアリアの執権」、さらに「社会主義を目指す権力」などと言い換えていますが、それは単に訳語を変えただけです。マルクスのその考えそのものは批判していなのですから、訳語を変えても、その本質は変わらないと言わざるを得ません。
共産党が護憲政党であるためには、まずはマルクスのプロレタリア独裁論を放棄する必要があります。プロレタリア独裁論と前衛党理論は、三権分立を否定する理論です。
権力を徹底的に分散し、一極に権力が集中しないようにすることこそ、民主主義の土台です。権力を集中させようとするマルクスのプロレタリア独裁論はその真逆の発想なのです。
護憲というなら、プロレタリア独裁論を放棄しない限り、立憲主義の精神と合致しません。野党共闘の足かせになるのも、究極的には共産党がプロレタリア独裁論を放棄しないという、その一点だと思います。
これまでの社会主義が失敗してきたのは、プロレタリア独裁の名の下に、一党独裁が正当化されてきたからです。マルクス主義は明確に反立憲主義です。護憲を掲げながら、同時にマルクス主義を擁護するということが矛盾であるという事実に、どうか共産党の皆さまには気づいていただきたいと考えます。
この間、肯定的な評価もたくさんいただき、また批判的意見もいただきました。批判は保守派(あるいは右派)からもリベラル派(あるいは左派)からもあります。肯定的な評価も右派からもあれば左派からもあるということで、面白い現象だと思っております。
「吉田松陰先生を貶めるなんて許せない!」という批判のメールをいただいたこともありました。これは当然来るだろうと思っていました。
本日は、先日いただいた共産党支持者の方からの批判に対する私の回答を述べさせていただきます。私は、著書の中で、自民党を「長州右派」、共産党を「長州左派」と書いたので、当然批判されるだろうと思っておりました。しかしながら、『しんぶん赤旗』が評価して下さったのを皮切りに、じつは共産党の支持者の方々も、意外にも私の本を評価して下さる方が多かったのです。
しかしやはり批判的意見もやってまいります。先日いただいた批判は以下のようなものでした。
>(講座派歴史学者として)遠山茂樹や井上清を挙げていましたが、この二人はマルクス主義の方法論にたち、講座派の影響を受けていたかもしれませんが活躍したのは戦後で、いわゆる講座派の学者、研究者と呼ばれるのは戦前に活躍した野呂栄太郎、山田盛太郎、平野義太郎、羽仁五郎、大塚金之助等をさします。この人々は長州出身ですか? 吉田松陰の尊敬者ですか? この規定は誤解を与えるので削除するか訂正文を載せるべきです。
この批判に対して、私は以下のように回答させていただきました。
戦前の講座派マルクス主義は、資本主義や地主制などもっぱら経済史を論じており、政治史はほとんど扱っておりません。(当時は学問の自由、言論の自由がないので政治問題は扱えなかった)。
講座派の中で、明治維新の政治史を通史として体系的に論じたのは、遠山茂樹氏だと考えます。戦後歴史学の主流を形成したのは遠山茂樹氏と、それに連なる講座派マルクス主義史学です。彼らは、戦前は扱えなかった政治史を正面から論じ、戦後の講座派の歴史観をつくり上げたのです。
戦後の講座派による明治維新の政治史の定型を生み出したのは遠山茂樹氏の『明治維新』(岩波書店、1951年)だと思います。遠山氏は、維新変革の主体を、長州の尊攘派が倒幕派へと転換していく過程にあると論じました。
その歴史学者が長州出身者であるか否かの問題ではなく、明治維新を長州中心に論じるか否かの問題です。戦後の講座派は明確に維新変革の主体を長州中心に論じ、それゆえ「佐幕派」というレッテルを貼られた諸藩の研究を徹底的に遅らせる空気を生み出してしまったのです。
たとえば出自が講座派の歴史学者である松浦玲氏は1970年の著作で次のように述べておられます。
「これまで、長州の尊攘激派が倒幕派に転化していくコースが明治維新の主流だと考えられ、その政治の力学を理解できないものは明治維新を語る資格がないと思われる傾きが強かった」(松浦玲『日本の名著30 佐久間象山・横井小楠』中央公論、81頁)。
当時の講座派の雰囲気がよくわかる文章です。戦後の講座派は明確に長州中心史観をつくったのです。
こうした雰囲気の中では、赤松小三郎が無視されるのも当然でした。公儀や「佐幕」というレッテルを貼られた諸藩の側の多くの人材の研究が進まなかった主要な原因は、講座派マルクス主義史学の長州中心史観にあり、そえゆえ私は講座派を「長州左派」と呼びました。
いまでも講座派の歴史学者は、吉田松陰を高く評価する一方で、佐久間象山も不当に扱っておりますし、赤松小三郎も不当に評価しています。これは私が本の中で批判している通りです。
>「自民・共産の両党に、吉田松陰的なエートスから脱却してほしい・・・」この「吉田松陰的エートス」とはどんなことを言おうとしているのか分かりませんが、9条改憲を進めること、対外侵略の空気を煽ることを指しているのなら自民党にはあてはまりますが、共産党にはてはまらないでしょう。
「吉田松陰的エートス」とは、いざとなればテロや超法規的措置も辞さずに、少数の革命的結社が「正義(と信じたこと)」を断行してしまうことです。吉田松陰の松下村塾の門人たちがやった数々の暗殺行為や、英国公使館の焼き討ちや、京都御所への武力攻撃や、外国船無差別砲撃などがそれに相当します。
そして、共産党がそういうことをやりかねない集団だと思われているのは、マルクスのプロレタリア独裁論や前衛党理論を放棄しないからです。プロレタリア独裁論を放棄するということは、すなわちマルクス主義を放棄することを意味します。
マルクス主義=社会主義ではありませんから、マルクス主義を放棄した上で、社会主義を論じればよいだけかと思います。
確かに、共産党はマルクスの「プロレタリア独裁」を、「プロレアリアの執権」、さらに「社会主義を目指す権力」などと言い換えていますが、それは単に訳語を変えただけです。マルクスのその考えそのものは批判していなのですから、訳語を変えても、その本質は変わらないと言わざるを得ません。
共産党が護憲政党であるためには、まずはマルクスのプロレタリア独裁論を放棄する必要があります。プロレタリア独裁論と前衛党理論は、三権分立を否定する理論です。
権力を徹底的に分散し、一極に権力が集中しないようにすることこそ、民主主義の土台です。権力を集中させようとするマルクスのプロレタリア独裁論はその真逆の発想なのです。
護憲というなら、プロレタリア独裁論を放棄しない限り、立憲主義の精神と合致しません。野党共闘の足かせになるのも、究極的には共産党がプロレタリア独裁論を放棄しないという、その一点だと思います。
これまでの社会主義が失敗してきたのは、プロレタリア独裁の名の下に、一党独裁が正当化されてきたからです。マルクス主義は明確に反立憲主義です。護憲を掲げながら、同時にマルクス主義を擁護するということが矛盾であるという事実に、どうか共産党の皆さまには気づいていただきたいと考えます。
山林の保水力の保全と河川堤防の強化について、関さんが一貫して注意を喚起してこられた先見の明を思い知りました。
ネオリベラリズムの目の先の定量的効率のもとの大学に対する上意下達中央集権の官僚的管理強化でペーパーワークや手続きがむやみに増え、へたをすれば研究どころか教育どころではなくなるなかでのご奮闘で極度にお忙しいのであろうかとお察ししておりました。お元気そうでなによりです。
じつは、この間、いまエルドアン・トルコが民族浄化侵攻をこころみているロジャヴァのクルドによるデモクラティック・コンフェデラリズムに、その金融経済インフラとして研究がなされているという仮想通貨とともに、強い関心を持ち始めています。
中東関係の研究者や識者からは、個人崇拝の独裁者に擬せられて非難されるオジャランがトルコの獄中で政治思想について書いたものを読もうとこころみています。
そのペーパーバックの裏表紙に、アダム・スミス/メンガーからマルクス、さらに新古典派までの前庭となっている、交換による貨幣と市場の発生という神話を人類学の観点からひっくり返した『負債論』のデヴィッド・グレーバーがメッセージを寄せているのに驚きました。
デヴィッド・グレーバーのツィッターには、トルコのロジャヴァ侵略を非難するデモでハンドマイクを握る姿が出ていて、これは、と思いました。「1%vs99%」というスローガンは彼が言い出したそうなのです。
彼は、金融機関が信用創造によってつくりだすものが圧倒的である現在の通貨はすでに仮想通貨であると言っています。仮想通貨の発行をいわゆる寡占記入資本が独占する経済を当然とするか、あたらしいインフラをつくりだすか、という問題でしょうか。
山本太郎と共産党の方々との自然な親和性に期待しつつ、関さんのご論旨からあわてて連想しましたことを。まずお見舞いをと思いまして大急ぎで。
ただ、別所線の鉄橋の崩落が痛かったです。赤字ローカル線なので廃線が濃厚・・・・。
ご指摘の通り、ドルも円ももはや仮想通貨のようなもので、遠からぬ大暴落 → インフレは避けられないと思います。