本日の『信濃毎日新聞』(2016年6月1日付)に赤松小三郎に関する新事実発見の記事が掲載されました。「赤松小三郎 幕府にも建白」という記事です。
歴史作家の桐野作人氏が発見したものです。日本で初めて議会制民主主義の建白書を提出した赤松小三郎。これまで越前の松平春嶽と薩摩の島津久光に提出した建白書が知られていました。今回の発見は、小三郎は、島津久光に出したのと同じ内容の建白書を徳川公儀(幕府)にも出していたというものです。歴史作家の桐野作人氏が、盛岡藩の記録である『慶応丁卯雑記』の中から発見したものです。盛岡藩が幕府の書類の中から赤松小三郎の建白書を慶応三年11月にひそかに転写して、藩の記録の中に収めていたのです。小三郎が幕府に出したという記録は現在までのところ発見されていませんが、盛岡藩が幕府の書類の中から転写していることから、幕府にも出していたはずだという間接的な証拠になります。
『信濃毎日新聞』2016年6月1日朝刊(部分のみです)
小三郎が春嶽と久光に建白書を出したのが慶応三年五月です。盛岡藩の記録には「赤松小太郎卯六月幕府に建白」と書かれています。盛岡藩は誤って「赤松小太郎」と転写しているのですが、これはご愛嬌といったところでしょうか。
建白書の題は「数件御改正の儀申し上げ奉り候口上書」であり、これは島津版の建白書と全く同じ内容です。赤松小三郎は五月に薩摩や越前など四候会議の側に議会政治を働きかけていたわけですが、四候会議が流産に終わると、小三郎は独自に幕府に対しても働きかけを開始していたことになります。
六月というのは薩摩と土佐が、慶喜に対して将軍を辞職し、政権を朝廷に返し、さらに立法府としての上下の議事院の設立を要求するという「薩土盟約」を締約した月です。小三郎は薩摩と土佐の動きを後押ししながら、他方では幕府に対しても働きかけを行い、薩摩と幕府が、武力衝突を回避し、話し合いにより大政奉還と議会開設で合意に達するよう、懸命な努力を行っていたことがうかがわれます。
小三郎は兄あての手紙で、若年寄格の永井尚志などに働きかけていると記述していることから、私は、おそらく永井のルートで出したのかと考えています。また、中村半次郎は「京在日記」で、小三郎は慶喜にも会っているので、幕府のスパイの動かぬ証拠であると書いていることから、実際に小三郎は、慶喜に拝謁して直接渡していた可能性もあると思います。
なお、私も会員である赤松小三郎研究会では、10月に桐野作人氏の講演会を企画しています。今回の発見をどう読み解くのかも含め、桐野氏に薩摩と幕府と赤松小三郎について縦横に語っていただく予定です。
詳しいことが決まりましたら、またこのブログでも広報いたします。
P.S. 誤りの訂正 2016年6月2日
「信濃毎日新聞」に盛岡藩の『慶応丁卯雑記』の現物の写真があります。冒頭の文章を私は「赤松小太郎卯六月幕府に建白」と読んでいたのですが、先ほど発見者の桐野さんからメールをいただき、これは「赤松小太郎卯五月幕府え建白」と書いてあるのだと教えていただきました。崩し字に慣れていないもので、「五」と「六」を間違えて読んでおりました。申し訳ございません。
桐野さんの解釈では、赤松小三郎は、四候会議が流産した後に幕府に建白したのではなく、四候会議の最中に越前や薩摩などの四候側と幕府側とにそれぞれ建白していた。小三郎は、四候会議によって有力諸侯と幕府が協調する契機になり、建白書の実現可能性も高くなると見込んでいたのだろうということです。私は「六月」と誤読しておりましたが、五月であれば、桐野さんの解釈が妥当であろうと思います。
歴史作家の桐野作人氏が発見したものです。日本で初めて議会制民主主義の建白書を提出した赤松小三郎。これまで越前の松平春嶽と薩摩の島津久光に提出した建白書が知られていました。今回の発見は、小三郎は、島津久光に出したのと同じ内容の建白書を徳川公儀(幕府)にも出していたというものです。歴史作家の桐野作人氏が、盛岡藩の記録である『慶応丁卯雑記』の中から発見したものです。盛岡藩が幕府の書類の中から赤松小三郎の建白書を慶応三年11月にひそかに転写して、藩の記録の中に収めていたのです。小三郎が幕府に出したという記録は現在までのところ発見されていませんが、盛岡藩が幕府の書類の中から転写していることから、幕府にも出していたはずだという間接的な証拠になります。
『信濃毎日新聞』2016年6月1日朝刊(部分のみです)
小三郎が春嶽と久光に建白書を出したのが慶応三年五月です。盛岡藩の記録には「赤松小太郎卯六月幕府に建白」と書かれています。盛岡藩は誤って「赤松小太郎」と転写しているのですが、これはご愛嬌といったところでしょうか。
建白書の題は「数件御改正の儀申し上げ奉り候口上書」であり、これは島津版の建白書と全く同じ内容です。赤松小三郎は五月に薩摩や越前など四候会議の側に議会政治を働きかけていたわけですが、四候会議が流産に終わると、小三郎は独自に幕府に対しても働きかけを開始していたことになります。
六月というのは薩摩と土佐が、慶喜に対して将軍を辞職し、政権を朝廷に返し、さらに立法府としての上下の議事院の設立を要求するという「薩土盟約」を締約した月です。小三郎は薩摩と土佐の動きを後押ししながら、他方では幕府に対しても働きかけを行い、薩摩と幕府が、武力衝突を回避し、話し合いにより大政奉還と議会開設で合意に達するよう、懸命な努力を行っていたことがうかがわれます。
小三郎は兄あての手紙で、若年寄格の永井尚志などに働きかけていると記述していることから、私は、おそらく永井のルートで出したのかと考えています。また、中村半次郎は「京在日記」で、小三郎は慶喜にも会っているので、幕府のスパイの動かぬ証拠であると書いていることから、実際に小三郎は、慶喜に拝謁して直接渡していた可能性もあると思います。
なお、私も会員である赤松小三郎研究会では、10月に桐野作人氏の講演会を企画しています。今回の発見をどう読み解くのかも含め、桐野氏に薩摩と幕府と赤松小三郎について縦横に語っていただく予定です。
詳しいことが決まりましたら、またこのブログでも広報いたします。
P.S. 誤りの訂正 2016年6月2日
「信濃毎日新聞」に盛岡藩の『慶応丁卯雑記』の現物の写真があります。冒頭の文章を私は「赤松小太郎卯六月幕府に建白」と読んでいたのですが、先ほど発見者の桐野さんからメールをいただき、これは「赤松小太郎卯五月幕府え建白」と書いてあるのだと教えていただきました。崩し字に慣れていないもので、「五」と「六」を間違えて読んでおりました。申し訳ございません。
桐野さんの解釈では、赤松小三郎は、四候会議が流産した後に幕府に建白したのではなく、四候会議の最中に越前や薩摩などの四候側と幕府側とにそれぞれ建白していた。小三郎は、四候会議によって有力諸侯と幕府が協調する契機になり、建白書の実現可能性も高くなると見込んでいたのだろうということです。私は「六月」と誤読しておりましたが、五月であれば、桐野さんの解釈が妥当であろうと思います。