2016年の大河ドラマが三谷幸喜氏の脚本による「真田丸」と決まったというニュースが入ってきた。本来は当然大坂夏の陣400周年である来年2015年の大河になるはずだったのだが、安倍政権が干渉して・・・・・。まあ、その話は置いておこう。
「真田丸」放映決定を記念して、私が漠然と疑問に思っていたことを書き留めておきたい。しっかりとした結論があるような話ではなく単なる仮説でしかない。まあ、話題提供ということで。
そもそも、この表題を見るなり「江戸城の真田丸だぁ? 真田丸は大坂城だろう。何バカなことを言ってるんだ?」という声が聞こえてきそうである。
まず、あなたが江戸城を総攻撃しようとする西郷隆盛の立場だったらと想定して欲しい。下の江戸城の縄張り図を見て欲しい。この日本最大の城郭を、どこから攻めればよいのであろうか?
江戸城の西方には台地が広がる。ここを制圧すれば、江戸城を見下ろせる管制高地となる。いまの上智大学から迎賓館の辺りである。ここが一番標高が高い。寄せ手とすれば、江戸城の西方から四谷の管制高地を制圧し、そこを拠点に攻めかかろうとするであろう。
逆に守り手とすればこの台地を敵に奪取されないよう、鉄壁な防御機構を構築せねばならないことになる。

出所)四谷駅付近の外濠公園の説明版より
江戸城の惣構えの中でいちばん標高が高い台地上に、最深部で13メートルも台地を掘削して水堀にするという壮大な工事が行われた。それが真田濠である。真田信之と息子の信吉・信政らが工事を担当したことから、この名が付けられた。江戸城の最大の弱点を掘削し、最重要の防御機構を構築するという難工事を真田家が担わされていたことになる。江戸城の惣構えの最後の難所を完成させたのが真田家だったのだ。工事を担当した大名の名が冠されているのは、江戸城の外堀の中でも真田濠だけであり、これも謎となっている。
この真田濠、残念ながら現在は埋め立てられてJRと丸の内線の四ツ谷駅、さらに上智大学のグラウンドになっている。(写真参照)しかし、上智大学のグラウンドに沿って築かれた高い土居を見れば、現在でも往時が十分にしのばれる。

現在は上智大学グラウンドと四谷駅になっている真田濠(喰違虎口より)

真田濠に付属する喰違虎口より弁慶濠を望む。真田濠の水面から弁慶濠の水面のあいだには十メートル以上の落差があった。
また、真田濠と西南側の弁慶濠のあいだの喰違虎口は、入り組んだ独特の構造がよく残されており、この台地の防御に細心の注意を払われていた様子が今でも実感できる。
大阪城における真田幸村と江戸城における真田信之、何かパラレルになっているように感じられるのは私だけであろうか?
大坂城の最大の弱点は惣構えの外に広がる南側の台地であった。この台地に真田丸を構築して鉄壁の防御を敷いたのが真田幸村である。大坂冬の陣では、真田丸のさらに外側にある管制高地である篠山をめぐって攻防が繰り広げられていた。幸村は、罠を仕掛けて篠山をわざと敵に明け渡し、挑発して真田丸を攻撃させ、大損害を与えたのだった。
江戸城の惣構えである外堀の工事が行われたのは、大坂の陣から20年の後、徳川家光の治世である寛永年間であった。このとき幸村の兄の真田伊豆守信之はまだ現役の松代城主であった。江戸城の最大の弱点の普請を、あえて徳川家の仇ともいえる真田家に割り振った公儀側の思惑は何だったのであろうか?
そもそも第一の疑問は、はたしてこの台地の上に水を張ること可能だったのかという疑問である。ネットで検索すると法政大学の岡本哲志氏の論文「江戸における外濠と玉川上水の都市機能としての役割に関する研究序説」が見つかった。この論文では、地下水位から考えて真田濠に水を張るのは寛永年間には不可能で、後に玉川上水が開通して初めて真田濠は水堀になったという仮説を提示している。論文は下記サイト。
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kurashi/volunteer/renke/h22-chosa/documents/d0013254_4.pdf
図のように牛込濠から最高地点の真田濠の標高差は20メートルもある。この高台上を掘削しても地下水位に届かなかったのであれば、寛永年間にどのように水を引いたのか、不明なのである。逆に、もしこれが可能だったとするならば、真田家はどのような土木技術を駆使したのだろうか。謎が謎を呼ぶのである。

出所)岡本哲史、前掲サイト。
次にこの難工事をあえて真田家に行わせたのは何故かという疑問である。一つには、一番カネのかかりそうな工事場所を担当させることによって、20万両以上という莫大な蓄財をしていたといわれる真田信之の財力を削ぐという目的が上げられるだろう。これは想像に難くない。しかし理由はそれだけだろうか?
真田家に恨みを持っていた二代将軍秀忠は、事あらば真田を改易処分にしようと狙っていたとも言われている。(それを題材に池波正太郎は何本も小説を書いた)。
しかし徳川家光と真田信之の関係はよかったと思われる。家光は、伊達政宗や藤堂高虎や立花宗茂などを御咄衆として、戦国時代を知る彼らから昔の合戦話などを聞くのを何よりの楽しみにしていたという。真田信之は、正宗や宗茂などが死去して後も生きていた、戦国武将最後の生き残りとなった。家光は「伊豆守は天下の飾りである」という理由をつけて、信之の隠居も許さなかった。
家光としては、苦労知らずのボンボン大名が増えていく中で、戦国乱世を知る最後の大名・真田信之を「天下の重し」として登城させ続け、他の大名の手本にさせることで、政権の安定にもつながると考えたのではないだろうか。
その家光の代に行われた外堀の普請工事。家光は、大坂城の弱点に出丸を築いて難攻不落とし、さんざんに徳川軍を悩ませた真田幸村の作事能力と作戦能力を、内心では高く評価していたのではなかろうか。それならば「江戸城最大の弱点を補う難工事は幸村の兄の信之にやらせてしまおう。幸村の兄である信之の威光をもってすれば、江戸城攻撃などという大それたことを考える輩は未来永劫いなくなるだろう・・・」と考えても不思議ではない。そういう特別の場所であったために、江戸城の外堀の中でも、この区間だけが工事担当者の名が冠されているのではないだろうか。
以上、単なる私の仮説である。
いずれにせよ、大坂城の真田丸が全く痕跡をとどめていない一方、江戸城の「真田丸」である真田濠は埋め立てられているとはいえ、なかなか見応えのある遺構である。
最後にもう一つ、江戸に残る真田信之の遺構を紹介したい。上野の東照宮が落成したのは、慶安4(1651)年4月17日。その日付で、諸国の大名が銅灯篭や石灯籠を奉納し、真田信之のものもある。真田信之が奉納した石灯籠は、黒門から社殿に向かって左側の三つ目にある。

上野東照宮にある真田信之寄進の石灯籠

石灯籠の刻文。慶安四(1651)年四月一七日の日付で、「真田伊豆守滋野朝臣信之」とある。この1651年の時点で戦国武将の生き残り大名はすでに信之だけになっていた。
東照宮の落成を見届けるように、落成式の三日後に徳川家光は亡くなり、家綱に代替わりした。真田信之は、この家綱にも仕え、さらに家督相続をめぐる孫同士のお家騒動を解決した後、1658年に死去した。江戸城の天守閣も焼け落ちた明暦の大火の翌年である。享年93歳。
「真田丸」放映決定を記念して、私が漠然と疑問に思っていたことを書き留めておきたい。しっかりとした結論があるような話ではなく単なる仮説でしかない。まあ、話題提供ということで。
そもそも、この表題を見るなり「江戸城の真田丸だぁ? 真田丸は大坂城だろう。何バカなことを言ってるんだ?」という声が聞こえてきそうである。
まず、あなたが江戸城を総攻撃しようとする西郷隆盛の立場だったらと想定して欲しい。下の江戸城の縄張り図を見て欲しい。この日本最大の城郭を、どこから攻めればよいのであろうか?
江戸城の西方には台地が広がる。ここを制圧すれば、江戸城を見下ろせる管制高地となる。いまの上智大学から迎賓館の辺りである。ここが一番標高が高い。寄せ手とすれば、江戸城の西方から四谷の管制高地を制圧し、そこを拠点に攻めかかろうとするであろう。
逆に守り手とすればこの台地を敵に奪取されないよう、鉄壁な防御機構を構築せねばならないことになる。

出所)四谷駅付近の外濠公園の説明版より
江戸城の惣構えの中でいちばん標高が高い台地上に、最深部で13メートルも台地を掘削して水堀にするという壮大な工事が行われた。それが真田濠である。真田信之と息子の信吉・信政らが工事を担当したことから、この名が付けられた。江戸城の最大の弱点を掘削し、最重要の防御機構を構築するという難工事を真田家が担わされていたことになる。江戸城の惣構えの最後の難所を完成させたのが真田家だったのだ。工事を担当した大名の名が冠されているのは、江戸城の外堀の中でも真田濠だけであり、これも謎となっている。
この真田濠、残念ながら現在は埋め立てられてJRと丸の内線の四ツ谷駅、さらに上智大学のグラウンドになっている。(写真参照)しかし、上智大学のグラウンドに沿って築かれた高い土居を見れば、現在でも往時が十分にしのばれる。

現在は上智大学グラウンドと四谷駅になっている真田濠(喰違虎口より)

真田濠に付属する喰違虎口より弁慶濠を望む。真田濠の水面から弁慶濠の水面のあいだには十メートル以上の落差があった。
また、真田濠と西南側の弁慶濠のあいだの喰違虎口は、入り組んだ独特の構造がよく残されており、この台地の防御に細心の注意を払われていた様子が今でも実感できる。
大阪城における真田幸村と江戸城における真田信之、何かパラレルになっているように感じられるのは私だけであろうか?
大坂城の最大の弱点は惣構えの外に広がる南側の台地であった。この台地に真田丸を構築して鉄壁の防御を敷いたのが真田幸村である。大坂冬の陣では、真田丸のさらに外側にある管制高地である篠山をめぐって攻防が繰り広げられていた。幸村は、罠を仕掛けて篠山をわざと敵に明け渡し、挑発して真田丸を攻撃させ、大損害を与えたのだった。
江戸城の惣構えである外堀の工事が行われたのは、大坂の陣から20年の後、徳川家光の治世である寛永年間であった。このとき幸村の兄の真田伊豆守信之はまだ現役の松代城主であった。江戸城の最大の弱点の普請を、あえて徳川家の仇ともいえる真田家に割り振った公儀側の思惑は何だったのであろうか?
そもそも第一の疑問は、はたしてこの台地の上に水を張ること可能だったのかという疑問である。ネットで検索すると法政大学の岡本哲志氏の論文「江戸における外濠と玉川上水の都市機能としての役割に関する研究序説」が見つかった。この論文では、地下水位から考えて真田濠に水を張るのは寛永年間には不可能で、後に玉川上水が開通して初めて真田濠は水堀になったという仮説を提示している。論文は下記サイト。
https://www.city.chiyoda.lg.jp/koho/kurashi/volunteer/renke/h22-chosa/documents/d0013254_4.pdf
図のように牛込濠から最高地点の真田濠の標高差は20メートルもある。この高台上を掘削しても地下水位に届かなかったのであれば、寛永年間にどのように水を引いたのか、不明なのである。逆に、もしこれが可能だったとするならば、真田家はどのような土木技術を駆使したのだろうか。謎が謎を呼ぶのである。

出所)岡本哲史、前掲サイト。
次にこの難工事をあえて真田家に行わせたのは何故かという疑問である。一つには、一番カネのかかりそうな工事場所を担当させることによって、20万両以上という莫大な蓄財をしていたといわれる真田信之の財力を削ぐという目的が上げられるだろう。これは想像に難くない。しかし理由はそれだけだろうか?
真田家に恨みを持っていた二代将軍秀忠は、事あらば真田を改易処分にしようと狙っていたとも言われている。(それを題材に池波正太郎は何本も小説を書いた)。
しかし徳川家光と真田信之の関係はよかったと思われる。家光は、伊達政宗や藤堂高虎や立花宗茂などを御咄衆として、戦国時代を知る彼らから昔の合戦話などを聞くのを何よりの楽しみにしていたという。真田信之は、正宗や宗茂などが死去して後も生きていた、戦国武将最後の生き残りとなった。家光は「伊豆守は天下の飾りである」という理由をつけて、信之の隠居も許さなかった。
家光としては、苦労知らずのボンボン大名が増えていく中で、戦国乱世を知る最後の大名・真田信之を「天下の重し」として登城させ続け、他の大名の手本にさせることで、政権の安定にもつながると考えたのではないだろうか。
その家光の代に行われた外堀の普請工事。家光は、大坂城の弱点に出丸を築いて難攻不落とし、さんざんに徳川軍を悩ませた真田幸村の作事能力と作戦能力を、内心では高く評価していたのではなかろうか。それならば「江戸城最大の弱点を補う難工事は幸村の兄の信之にやらせてしまおう。幸村の兄である信之の威光をもってすれば、江戸城攻撃などという大それたことを考える輩は未来永劫いなくなるだろう・・・」と考えても不思議ではない。そういう特別の場所であったために、江戸城の外堀の中でも、この区間だけが工事担当者の名が冠されているのではないだろうか。
以上、単なる私の仮説である。
いずれにせよ、大坂城の真田丸が全く痕跡をとどめていない一方、江戸城の「真田丸」である真田濠は埋め立てられているとはいえ、なかなか見応えのある遺構である。
最後にもう一つ、江戸に残る真田信之の遺構を紹介したい。上野の東照宮が落成したのは、慶安4(1651)年4月17日。その日付で、諸国の大名が銅灯篭や石灯籠を奉納し、真田信之のものもある。真田信之が奉納した石灯籠は、黒門から社殿に向かって左側の三つ目にある。

上野東照宮にある真田信之寄進の石灯籠

石灯籠の刻文。慶安四(1651)年四月一七日の日付で、「真田伊豆守滋野朝臣信之」とある。この1651年の時点で戦国武将の生き残り大名はすでに信之だけになっていた。
東照宮の落成を見届けるように、落成式の三日後に徳川家光は亡くなり、家綱に代替わりした。真田信之は、この家綱にも仕え、さらに家督相続をめぐる孫同士のお家騒動を解決した後、1658年に死去した。江戸城の天守閣も焼け落ちた明暦の大火の翌年である。享年93歳。
「真田丸」の感想を書いているけれど、全然追いつかない状況で最終回になってしまいました。いま、こちらの「真田戦記 その深層」カテゴリの記事を順に拝読しています。
ここで、江戸城の真田濠について書かれていますが、関様は和歌山城の真田堀のことをご存知ですか?私は真田堀の方を知っていたので、江戸城にも真田の名のつく濠があるとは知りませんでした。しかし、徳川家の2つの城に真田の名を冠した堀があるということは、やはり、真田家が掘削技術や堀を用いた戦争ノウハウに定評があり、それを徳川家が評価していたということなのかなと思います。それは幸村1人に由来するのではなく、昌幸以来(あるいはそれ以前から)の真田の伝統かもしれませんね。
また、「おんな城主直虎」も相当に期待できるのではないかと思います。
>関様は和歌山城の真田堀のことをご存知ですか?
以前関西に住んでいたのに、なぜか、和歌山城には訪れておらず、まったく知りませんでした。
どうして真田堀という名前になったのでしょう?
和歌山城の普請にも真田家がかかわっていたということなのでしょうか? 興味深い話です。また、教えてくだされば幸いです。
ところで、話は「真田丸」と離れますが、関様のTPP反対、トランプ候補歓迎の記事には同意しながら読んでおりました。私の周りには同意してくれる友人がいなかったのです。大統領選の結果が出ると、アメリカ人の大学関係者、アメリカ留学経験者などが一斉にSNSなどで「恥ずべき結果」というような怒りの声を発表しまくりましたが、彼らの「正義感」とトランプ候補への嫌悪反応の画一さに、アメリカの知的階層の人たちとその他の人たちの大きなギャップを感じました。
今後もこちらの記事を楽しみにしております。
「黄金の日々」とか「草燃える」の頃の大河黄金時代のファンは、「真田丸」を評価しない方が多いような印象を持っていたので、その頃の大河と比べて遜色のない本格大河という分析を読み、うれしく思いました。
意欲的で斬新な脚本と時代考証担当者たちの最新の研究成果とがうまく噛み合ったのが何よりもすばらしかったと思います。大河とセットになって歴史研究も進みました。
この「江戸城の真田丸」物語も、スピンオフドラマにしてほしいものです(笑)。
>アメリカの知的階層の人たちとその他の人たちの大きなギャップを感じました
政財界や富裕層・学者・マスコミなどのエスタブリッシュメント層と地に足のついた生活者の実感がどんどん乖離していくのはまことに憂慮すべきことです。
学者たちが、認識のギャップの理由を考えようとしないのですから、彼ら、「知識人」とも言えない、ただのインサイダーです。