前のエントリーの続きを書きます。フィリピンにおいても、「解放者」としての日本に期待をかけた人々は大勢いました。本日は、そうした人々も含め、太平洋戦争中のフィリピン人の複雑な国民感情について書きます。1899年に、スペインからの独立革命戦争を経て建国されたフィリピン第一共和国(マロロス共和国)は、勇敢に米国(スペインに代わってフィリピンを植民地化しようとした)の侵略軍と戦いました(比米戦争)。米軍は、戦闘員・非戦闘員を問わず、村々を焼き払いながら無差別な殺戮作戦を展開し、フィリピン側には20万人の犠牲者が出たといわれています。1901年、大統領のエミリオ・アギナルドが北部ルソンで米軍に逮捕され、フィリピン第一共和国は崩壊しました。第一共和国軍の政治家や将軍たちの中で戦死しなかった者は、米軍に忠誠を誓えば恩赦が与えられ、忠誠を拒めば流刑になりました。
こうした中で、第一共和国には、最後まで米国への忠誠を拒否し、米国と戦い続けると決意した不屈の将軍がいました。アルテミオ・リカルテ将軍です。リカルテ将軍は、追放先の香港から奇跡的に脱獄して日本に亡命したのです。
それ以来、フィリピンには、日本に亡命したリカルテ将軍がいつか必ず日本軍の支援を受けてフィリピンに上陸し、米軍を追い出してフィリピンを解放してくれるだろうという伝説が生まれました。
リカルテ信奉者たちは、1930年代、ベニグノ・ラモスを党首として「サクダル党」という政党を組織します。「米国からの即時独立」「大土地所有制の打倒」などのスローガンを掲げ、都市部のインテリ層や貧しい小作農民のあいだに急速に広がり、30万人の党員を擁するまでに成長します。彼らは「リカルテ将軍がいずれ日本軍の援助を受けて必ず祖国解放のために戻ってくるだろう」と信じていました。
そして1935年についにサクダル党は、「即時独立」を求めて武装蜂起を敢行しますが鎮圧されてしまいます。しかしながら、こうした根強い独立運動の中で、米国も1934年にはついに「将来のフィリピンの独立」を約束するに至ったのです。
サクダル党の反乱が鎮圧された後、同党の小作農民への影響力は低下し、代わって農村へはフィリピン共産党の影響力が増大します。コミンテルンに加盟しているフィリピン共産党系の農民運動は、ソ連に期待をかけました。
しかし、サクダル党も共産党も、フィリピンの困窮の原因が、米国の支配と米国と結託した大地主エリート支配層にあるという理解で共通していました。「農地改革」と「独立」というスローガンも両党に共通のものでした。両党の差異は、解放を支援してくれる国として、日本に期待するかソ連に期待するかの差だったのかも知れません。
さて、真珠湾攻撃の後、日本に亡命していたリカルテ将軍は、本当に日本軍とともにフィリピンに再上陸します。サクダル党の支持者だった人々が歓喜の声をあげたのは言うまでもありません。
日本の占領下、フィリピンは分裂しました。まずサクダル党の後継政党であったガナップ党は日本軍に全面的に協力します。
フィリピン共産党は、「反ファシズム統一戦線」というコミンテルンの方針にそって、米軍と協力して日本軍と戦う道を選択します。共産党は、フクバラハップ(Hukubong Bayan ng Laban sa Hapon,=抗日人民軍)という武装ゲリラを組織して、日本軍にゲリラ戦を仕掛けました。
緒戦で日本軍に敗れた米国極東軍(ユサッフェ)は、マッカーサーの指令でやはり抗日ゲリラを組織し、日本軍に抵抗します。共産党系のフクバラハップと米軍は、昨日までは敵同士だったのですが、当面の「敵」である日本を倒すために共闘するようになったのです。
逆に、ガナップ党(旧サクダル党)とフクバラハップは、本来は同じ小作農民を支持基盤として、同じ目標(独立と農地改革)に向かって努力していた政治勢力であったにも関わらず、日本軍の占領下でお互いに殺し合うという悲劇的な事態になったのです。
1944年9月、日米のレイテ決戦が近づく中で、それまで左遷されていた山下奉文将軍が突如司令官として呼び戻されてフィリピンに赴任します。さすがに知恵者だった山下将軍は、もともと反米だったフクバラハップを日本の味方につけようとして接触を計ります。しかしときは既に遅しでした。フクバラハップは最後まで日本と戦う道を選択します。
山下将軍は、ガナップ党など親日勢力を集めてマカピリ(Kalipunang Makabayan ng mga Pilipino=フィリピン愛国同士会)という義勇軍を組織させ、日本軍に協力させます。
こうしてフィリピンでは、マカピリ、フクバラハップ、ユサッフェ・ゲリラの三つの民兵義勇軍組織が、三つ巴の殺し合いを展開するという凄惨な事態になりました。
戦中は、フクバラハップとユサッフェ・ゲリラが共闘し、日本軍およびマカピリと戦ったわけです。しかし日本の敗戦後、米軍がフィリピンを再占領すると、昨日まで米国の味方だったはずのフクバラハップを、米軍は過酷に弾圧するようになりました。議会活動も封じられた結果、ついにフクバラハップは再武装して反乱を起こします。以来、フクバラハップは人民解放軍と名前を変えて、1954年に鎮圧されるまで、米軍の支援を受けたフィリピン政府(第三共和国)との間で内戦状態に突入するのです。
戦後、ユサッフェ・ゲリラに参加していたフィリピン人はその過去を誇ることができ、米国から軍人年金を需給することもできました(今も年金をもらっています)。しかしマカピリやフクバラハップに参加していた人々は、たとえ生き残っても、社会的に過酷に差別され、その過去にも口を閉ざし、ひっそりと暮らして行かねばならなくなったのです。
長くなってきました。また続きを書きたいです。
<補記>
なお、ここで書いたことについてもっと深く知りたい方は、日本語で読める文献として以下のものを推薦します。
*サクダル党などフィリピンの農民運動について
・滝川勉『東南アジア農業問題論』勁草書房
*日本占領下のフィリピンについて
・池端雪浦編『日本占領下のフィリピン』岩波書店
・レナト・コンスタンティーノ、レティシア・R・コンスタンティーノ(鶴見良行他訳)『フィリピン民衆の歴史Ⅲ』井村文化事業社
こうした中で、第一共和国には、最後まで米国への忠誠を拒否し、米国と戦い続けると決意した不屈の将軍がいました。アルテミオ・リカルテ将軍です。リカルテ将軍は、追放先の香港から奇跡的に脱獄して日本に亡命したのです。
それ以来、フィリピンには、日本に亡命したリカルテ将軍がいつか必ず日本軍の支援を受けてフィリピンに上陸し、米軍を追い出してフィリピンを解放してくれるだろうという伝説が生まれました。
リカルテ信奉者たちは、1930年代、ベニグノ・ラモスを党首として「サクダル党」という政党を組織します。「米国からの即時独立」「大土地所有制の打倒」などのスローガンを掲げ、都市部のインテリ層や貧しい小作農民のあいだに急速に広がり、30万人の党員を擁するまでに成長します。彼らは「リカルテ将軍がいずれ日本軍の援助を受けて必ず祖国解放のために戻ってくるだろう」と信じていました。
そして1935年についにサクダル党は、「即時独立」を求めて武装蜂起を敢行しますが鎮圧されてしまいます。しかしながら、こうした根強い独立運動の中で、米国も1934年にはついに「将来のフィリピンの独立」を約束するに至ったのです。
サクダル党の反乱が鎮圧された後、同党の小作農民への影響力は低下し、代わって農村へはフィリピン共産党の影響力が増大します。コミンテルンに加盟しているフィリピン共産党系の農民運動は、ソ連に期待をかけました。
しかし、サクダル党も共産党も、フィリピンの困窮の原因が、米国の支配と米国と結託した大地主エリート支配層にあるという理解で共通していました。「農地改革」と「独立」というスローガンも両党に共通のものでした。両党の差異は、解放を支援してくれる国として、日本に期待するかソ連に期待するかの差だったのかも知れません。
さて、真珠湾攻撃の後、日本に亡命していたリカルテ将軍は、本当に日本軍とともにフィリピンに再上陸します。サクダル党の支持者だった人々が歓喜の声をあげたのは言うまでもありません。
日本の占領下、フィリピンは分裂しました。まずサクダル党の後継政党であったガナップ党は日本軍に全面的に協力します。
フィリピン共産党は、「反ファシズム統一戦線」というコミンテルンの方針にそって、米軍と協力して日本軍と戦う道を選択します。共産党は、フクバラハップ(Hukubong Bayan ng Laban sa Hapon,=抗日人民軍)という武装ゲリラを組織して、日本軍にゲリラ戦を仕掛けました。
緒戦で日本軍に敗れた米国極東軍(ユサッフェ)は、マッカーサーの指令でやはり抗日ゲリラを組織し、日本軍に抵抗します。共産党系のフクバラハップと米軍は、昨日までは敵同士だったのですが、当面の「敵」である日本を倒すために共闘するようになったのです。
逆に、ガナップ党(旧サクダル党)とフクバラハップは、本来は同じ小作農民を支持基盤として、同じ目標(独立と農地改革)に向かって努力していた政治勢力であったにも関わらず、日本軍の占領下でお互いに殺し合うという悲劇的な事態になったのです。
1944年9月、日米のレイテ決戦が近づく中で、それまで左遷されていた山下奉文将軍が突如司令官として呼び戻されてフィリピンに赴任します。さすがに知恵者だった山下将軍は、もともと反米だったフクバラハップを日本の味方につけようとして接触を計ります。しかしときは既に遅しでした。フクバラハップは最後まで日本と戦う道を選択します。
山下将軍は、ガナップ党など親日勢力を集めてマカピリ(Kalipunang Makabayan ng mga Pilipino=フィリピン愛国同士会)という義勇軍を組織させ、日本軍に協力させます。
こうしてフィリピンでは、マカピリ、フクバラハップ、ユサッフェ・ゲリラの三つの民兵義勇軍組織が、三つ巴の殺し合いを展開するという凄惨な事態になりました。
戦中は、フクバラハップとユサッフェ・ゲリラが共闘し、日本軍およびマカピリと戦ったわけです。しかし日本の敗戦後、米軍がフィリピンを再占領すると、昨日まで米国の味方だったはずのフクバラハップを、米軍は過酷に弾圧するようになりました。議会活動も封じられた結果、ついにフクバラハップは再武装して反乱を起こします。以来、フクバラハップは人民解放軍と名前を変えて、1954年に鎮圧されるまで、米軍の支援を受けたフィリピン政府(第三共和国)との間で内戦状態に突入するのです。
戦後、ユサッフェ・ゲリラに参加していたフィリピン人はその過去を誇ることができ、米国から軍人年金を需給することもできました(今も年金をもらっています)。しかしマカピリやフクバラハップに参加していた人々は、たとえ生き残っても、社会的に過酷に差別され、その過去にも口を閉ざし、ひっそりと暮らして行かねばならなくなったのです。
長くなってきました。また続きを書きたいです。
<補記>
なお、ここで書いたことについてもっと深く知りたい方は、日本語で読める文献として以下のものを推薦します。
*サクダル党などフィリピンの農民運動について
・滝川勉『東南アジア農業問題論』勁草書房
*日本占領下のフィリピンについて
・池端雪浦編『日本占領下のフィリピン』岩波書店
・レナト・コンスタンティーノ、レティシア・R・コンスタンティーノ(鶴見良行他訳)『フィリピン民衆の歴史Ⅲ』井村文化事業社