昨日、最高裁において画期的な判決が出ました。国が事業認可した小田急線の高架化事業に関して、騒音被害を受ける周辺住民が行政訴訟を起こした「小田急高架訴訟」において、最高裁は、通例の判例を変更し、地権者以外の周辺住民にも原告適格を認めたのです。これまで公共事業に対する行政訴訟の原告は、「事業地内の地権者に限る」とされてきたので、画期的な判決でした。最近、ろくなニュースがない中で、久々に嬉しいことでした。
これで住民による行政訴訟は格段に起こしやすくなり、周辺住民が行政の暴走をチェックする機能は大いに高まります。官の横暴を住民が監視し、公共事業の民主的な実施への道も開くことでしょう。
いま、『読売』『毎日』『朝日』と三紙を見てきたのですが、いずれも一面で大きく取り上げて評価してくれており、大変に嬉しく思いました。読売と朝日は一面のトップでした。とくに、「行政訴訟の門戸を広げた最高裁」と社説でも取り上げ、住民の視点に立ってこの判決の歴史的意義をもっとも強調していたのは、意外なことに(?)『読売』でした。読売の姿勢を高く評価したいと思います。
それに対して、いちばんいい加減な記事を書いていたのは『朝日』のように思えました。何せ、一面の記事で、判決に関する国交省側の反論は掲載されているのに、住民側の見解が掲載されていないのです・・・・。こんな偏った記事ってあるでしょうか? やっぱりあの新聞、完全におかしくなっちゃったとしか思えません。
『毎日』は、扱いが一面トップではなかったのが不満ですが、記事の内容そのものは評価できるものでした。とくに『毎日』では、三面の「ひと」欄で、小田急訴訟の弁護団長の斉藤驍氏を取り上げて、この判決が「住民参加の公共事業に道を開く」のだという歴史的意義を強調しています。
『毎日』の「ひと」欄には、西和久記者の次のような文章もありました。
「(斉藤弁護士は)60年安保世代。東大全学連の活動家だった。そのため就職をあきらめ、弁護士の道を選んだ。属したのは当時、組織の中から体制を食い破ろうという『構造改革派』。かつての闘志が裁判というルートを通して、内側から一つ壁を突き破った。」
新聞にここまで過去のプライベートなことを書いちゃってよいのか、とも思いましたが、まあ、小泉「構造改革」とは別の、本来の意味での「構造改革」という用語がマスコミに登場することは全くないという状況にあって、ひさびさに本当の意味での「構造改革」という言葉が新聞に登場したことを評価したいと思います。
というのも、私の政治的スタンスも、小泉・竹中の「構造改革」論ではない、本来の意味での「構造改革」論だからです。(本ブログの2005年2月14日の記事を参照)
本来の構造改革論とは、市民的立場にたって、代替案を提示しながら行政と対峙し、官僚的体質を改めさせながら、地道な行政機構の民主的改革と、市場の暴走を許さない、経済の民主的で社会的な規制と計画化を求める運動です。
官主導の利権構造を改革しなければならないという点は小泉首相と同じでも、向いている方向が180度逆なのです。市場原理主義に任せれば、現実には民主主義も市民的自由も、安全も安心も、社会的モラルそのものも根本的に脅かされるのは、多くの人々が感じはじめているとおりです。
構造改革論とは、本来的には左派の概念なのです(源流は、イタリア共産党=現在のイタリア左翼民主党にあります)。私は、日本の左派の伝統の中から構造改革論が消えてしまったことが、日本の革新陣営のみじめな衰退をもたらしたと考えています。
構造改革論とは、行政と対峙しながら地道に民主的改革を求め続ける、永続的な社会改良運動です。革命が起これば全てが解決するというように考える、日本の多くの教条的左翼の安直なユートピア論とは世界観が根本的に異なるわけです。
小田急高架裁判を支えた、「市民専門家会議」は、座長が、構造改革論の理論的旗手の一人であった力石定一氏(法政大学名誉教授)です。メンバーも牧衷氏(元岩波映画製作所)をはじめ、50年代の当時の全学連の構造改革派の人々が中心でした。「市民専門家会議」は、高架化よりも地下化の方が安いことを計算で実証し、さらに、地下化して空いた土地に緑の生態回廊(エコロジカル・コリドー)を整備して緑地化しようという、じつに魅力的なエコロジカル都市計画の代替案を掲げ、原告側の訴えをサポートしました。
こうした代替案を対置しながら、行政の横暴を市民がコントロールしていこうというのが、構造改革論の運動戦略なのです。構造改革派は政治勢力としては消滅しましたが、現在でも、個人レベルにおいて脈々と日本の構造改革を目指しています。
そうした成果の一つが、公共事業に関する行政訴訟の原告適格の拡大という今回の判決でした。私は昨晩、緑の生態回廊の代替案を作成した「小田急市民専門家会議」で活動されてきた、知り合いの牧衷氏に電話で「おめでとうございます」と言ったのですが、牧さんは「15年も運動をやった甲斐があったよ」と本当に嬉しそうでした。
ちなみに、過去のことをもう少しほじくり返しますが、60年安保闘争は、構造改革派ではなく、全学連の主流派であった「ブント」が指導したものです。「ブント」の指導部には、いまをときめく西部邁氏とか青木昌彦氏のような有名人がキラ星のごとく並んでおりました。
しかし、ブントが全学連の執行部を握るのには、じつはウラがあったそうです。1959年の東大駒場の教養学部学生自治会の委員長選挙で、斉藤驍氏(構造改革派)と西部邁氏(ブント)が争った際、斉藤氏が得票数で勝っていたにも関わらず、ブントの人々が投票箱をすり替えるという恐るべき選挙違反を行使して、西部邁氏が委員長に「当選」してしまったそうなのです。この選挙違反に関しては、西部氏本人も認めているところです。
この選挙違反事件の後、全学連の主導権はブントが握るわけです。もしこの時、構造改革派の斉藤氏が当選していたら、安保闘争の歴史も若干変わったものになっていたかも知れません。構造改革派は、その後には共産党からも除名・粛清されて政治勢力としてはまったく影響力を無くしてしまったのでした。
ちなみに、構造改革派が全学連を指導していたのは、1956年の米軍砂川基地拡張阻止闘争の頃です。米軍砂川基地拡張阻止闘争は、全学連の歴史的勝利につながりました。このときに全学連を指導していたのが、構造改革派の牧衷氏や高野秀夫氏らだったのです。
砂川闘争の直後に、牧氏と高野氏は批判されて失脚するのですが、牧・高野氏を失脚させた急先鋒は、いまをときめく森田実氏だったそうです。
最近になって斉藤驍氏と西部邁氏は歴史的な(?)和解をしたという噂も聞きました(これは、斉藤氏とも西部氏とも関係の深い経済学者の宇沢弘文先生から間接的にお聞きしたのですが・・・)。これは非常によいことではないでしょうか。市場原理主義改革に対抗するため、過去のことは水に流さなければいけない時期になっていると思います。
これで住民による行政訴訟は格段に起こしやすくなり、周辺住民が行政の暴走をチェックする機能は大いに高まります。官の横暴を住民が監視し、公共事業の民主的な実施への道も開くことでしょう。
いま、『読売』『毎日』『朝日』と三紙を見てきたのですが、いずれも一面で大きく取り上げて評価してくれており、大変に嬉しく思いました。読売と朝日は一面のトップでした。とくに、「行政訴訟の門戸を広げた最高裁」と社説でも取り上げ、住民の視点に立ってこの判決の歴史的意義をもっとも強調していたのは、意外なことに(?)『読売』でした。読売の姿勢を高く評価したいと思います。
それに対して、いちばんいい加減な記事を書いていたのは『朝日』のように思えました。何せ、一面の記事で、判決に関する国交省側の反論は掲載されているのに、住民側の見解が掲載されていないのです・・・・。こんな偏った記事ってあるでしょうか? やっぱりあの新聞、完全におかしくなっちゃったとしか思えません。
『毎日』は、扱いが一面トップではなかったのが不満ですが、記事の内容そのものは評価できるものでした。とくに『毎日』では、三面の「ひと」欄で、小田急訴訟の弁護団長の斉藤驍氏を取り上げて、この判決が「住民参加の公共事業に道を開く」のだという歴史的意義を強調しています。
『毎日』の「ひと」欄には、西和久記者の次のような文章もありました。
「(斉藤弁護士は)60年安保世代。東大全学連の活動家だった。そのため就職をあきらめ、弁護士の道を選んだ。属したのは当時、組織の中から体制を食い破ろうという『構造改革派』。かつての闘志が裁判というルートを通して、内側から一つ壁を突き破った。」
新聞にここまで過去のプライベートなことを書いちゃってよいのか、とも思いましたが、まあ、小泉「構造改革」とは別の、本来の意味での「構造改革」という用語がマスコミに登場することは全くないという状況にあって、ひさびさに本当の意味での「構造改革」という言葉が新聞に登場したことを評価したいと思います。
というのも、私の政治的スタンスも、小泉・竹中の「構造改革」論ではない、本来の意味での「構造改革」論だからです。(本ブログの2005年2月14日の記事を参照)
本来の構造改革論とは、市民的立場にたって、代替案を提示しながら行政と対峙し、官僚的体質を改めさせながら、地道な行政機構の民主的改革と、市場の暴走を許さない、経済の民主的で社会的な規制と計画化を求める運動です。
官主導の利権構造を改革しなければならないという点は小泉首相と同じでも、向いている方向が180度逆なのです。市場原理主義に任せれば、現実には民主主義も市民的自由も、安全も安心も、社会的モラルそのものも根本的に脅かされるのは、多くの人々が感じはじめているとおりです。
構造改革論とは、本来的には左派の概念なのです(源流は、イタリア共産党=現在のイタリア左翼民主党にあります)。私は、日本の左派の伝統の中から構造改革論が消えてしまったことが、日本の革新陣営のみじめな衰退をもたらしたと考えています。
構造改革論とは、行政と対峙しながら地道に民主的改革を求め続ける、永続的な社会改良運動です。革命が起これば全てが解決するというように考える、日本の多くの教条的左翼の安直なユートピア論とは世界観が根本的に異なるわけです。
小田急高架裁判を支えた、「市民専門家会議」は、座長が、構造改革論の理論的旗手の一人であった力石定一氏(法政大学名誉教授)です。メンバーも牧衷氏(元岩波映画製作所)をはじめ、50年代の当時の全学連の構造改革派の人々が中心でした。「市民専門家会議」は、高架化よりも地下化の方が安いことを計算で実証し、さらに、地下化して空いた土地に緑の生態回廊(エコロジカル・コリドー)を整備して緑地化しようという、じつに魅力的なエコロジカル都市計画の代替案を掲げ、原告側の訴えをサポートしました。
こうした代替案を対置しながら、行政の横暴を市民がコントロールしていこうというのが、構造改革論の運動戦略なのです。構造改革派は政治勢力としては消滅しましたが、現在でも、個人レベルにおいて脈々と日本の構造改革を目指しています。
そうした成果の一つが、公共事業に関する行政訴訟の原告適格の拡大という今回の判決でした。私は昨晩、緑の生態回廊の代替案を作成した「小田急市民専門家会議」で活動されてきた、知り合いの牧衷氏に電話で「おめでとうございます」と言ったのですが、牧さんは「15年も運動をやった甲斐があったよ」と本当に嬉しそうでした。
ちなみに、過去のことをもう少しほじくり返しますが、60年安保闘争は、構造改革派ではなく、全学連の主流派であった「ブント」が指導したものです。「ブント」の指導部には、いまをときめく西部邁氏とか青木昌彦氏のような有名人がキラ星のごとく並んでおりました。
しかし、ブントが全学連の執行部を握るのには、じつはウラがあったそうです。1959年の東大駒場の教養学部学生自治会の委員長選挙で、斉藤驍氏(構造改革派)と西部邁氏(ブント)が争った際、斉藤氏が得票数で勝っていたにも関わらず、ブントの人々が投票箱をすり替えるという恐るべき選挙違反を行使して、西部邁氏が委員長に「当選」してしまったそうなのです。この選挙違反に関しては、西部氏本人も認めているところです。
この選挙違反事件の後、全学連の主導権はブントが握るわけです。もしこの時、構造改革派の斉藤氏が当選していたら、安保闘争の歴史も若干変わったものになっていたかも知れません。構造改革派は、その後には共産党からも除名・粛清されて政治勢力としてはまったく影響力を無くしてしまったのでした。
ちなみに、構造改革派が全学連を指導していたのは、1956年の米軍砂川基地拡張阻止闘争の頃です。米軍砂川基地拡張阻止闘争は、全学連の歴史的勝利につながりました。このときに全学連を指導していたのが、構造改革派の牧衷氏や高野秀夫氏らだったのです。
砂川闘争の直後に、牧氏と高野氏は批判されて失脚するのですが、牧・高野氏を失脚させた急先鋒は、いまをときめく森田実氏だったそうです。
最近になって斉藤驍氏と西部邁氏は歴史的な(?)和解をしたという噂も聞きました(これは、斉藤氏とも西部氏とも関係の深い経済学者の宇沢弘文先生から間接的にお聞きしたのですが・・・)。これは非常によいことではないでしょうか。市場原理主義改革に対抗するため、過去のことは水に流さなければいけない時期になっていると思います。
あまりコトバにこだわっても仕方ないのかもしれませんが、「市場原理主義改革に対抗するため、過去のことは水に流さなければいけない時期になっている」はそのとおりだと思います。そしてそのためにも現実直視の探求派が結集する新機軸としてのコトバが不可欠なのではないかとも考えております。
>そしてそのためにも現実直視の探求派が結集する新機軸としてのコトバが不可欠なのではないかとも考えております
この点、私も同意いたします。もっともボキャ貧な私としてはよいコトバは思いつかないので、感性の優れた方々に、ぜひ新機軸のコトバを生み出していっていただきたいと思います。
本当に、「構造改革」というコトバは、完全にあちら側の人々に持ってかれてしまいました。
私も以前は彼の選挙区に住んでおりました。雨に濡れながら彼が辻説法をするような光景を何度も見かけており、本当に誠実な人柄だなあと感心して、彼に投票したこともありました。評価する点もありますが、如何せん、防衛面でタカ派的すぎますね。まあ、それでも小泉ほどには対米従属派ではないようにも見えます。
ネガティブなニュースばかり追いかけているとだんだん気が滅入ってくるので、数少ないよいニュースを大きく取り上げて、「まだまだ捨てたものじゃないぞ」と励ますようなこともしていきたいと思います。
これからもよろしくお願いします。