最近、渡邉恒雄氏(読売新聞グループ会長)の「左派的(?)」な発言を聞くことが増えてきました。それで私は、渡邉恒雄氏に対する評価を大きく改めるようになっています。昨日、月刊『現代』の今月号を買って読んでいました。その中の渡邉恒雄氏(以下ナベツネ氏)と佐高信氏の異色の(?)対談「小泉君の本音、安倍君への注文」がじつに面白いのです。まず対談の冒頭では、ナベツネ氏による靖国神社批判が展開されます(単に首相の参拝を批判するというのみならず、国家神道そのものを、本来の神道の姿ではないと批判しています)。彼の靖国批判は既に有名な事実かと思われますので、ここでは割愛します。圧巻だったのは、ナベツネ氏による市場原理主義批判でした。私は、それを読んでいて、思わず嬉しくなってしまいました。以下、ナベツネ発言の一節を紹介いたします。
<引用開始>
渡辺「(オリックスの)宮内さんは市場原理主義者ですよね。市場原理主義というものが、日本経済をかなり蝕んでいるのは間違いないと思います。
(中略)
10年不況が続き株価も下落します。そこで日本人よりも先にハゲタカが目を付けた。日本人の中にもハゲタカの手先になっているのがいて、PBR(株価純資産倍率)の低いものを餌食にしようとしている。
(中略)
でも敵対的買収で上手くいった例はほとんどない。タイム・ワーナーとAOLの例が典型ですよ。
アメリカでも、市場原理主義にはある程度統制を加えなければならないという論調が強まっているんです。あのジョージ・ソロスでさえ、株式市場には秩序が必要だと言い出している。
だからアメリカの市場原理主義者ももう醒めてしまって、やはり国家秩序、国民生活、企業で働く従業員を無視しちゃいけないと反省している。ステークホルダーっていうのは、第一に従業員ですよ。経営者だって従業員の一部ですしね。その次が顧客、読売新聞で言えば読者です。そういう人々がいないと企業は成立しないのに、もう株式至上主義で、『株主さえもうけさせればいいんだ、そのためには何をしてもいいのだ』ということになれば、当然、高配当をしろということになる。あるいは非生産部門は切ってしまえ、と」。
<引用終わり>
いい発言ですねー。ナベツネ氏は、「株主よりも従業員の方が大事なのだ」と声を高くして宣言しています。私は、この点こそが、日本型資本主義と米国型資本主義を違いを特徴づける、もっとも重要な分水嶺だと思っています。日本では、何といっても株主なんかより従業員の方が大事だったのです(少なくともこれまでは)。最近の日本は「従業員よりも株主が第一」という、米国型資本主義に大きく変質しようとしていますが、ナベツネ氏はそれが誤りだと声を大にして訴えているわけです。
さすがにナベツネ氏は、元東大共産党細胞の指導者だっただけのことはあるということでしょうか。
前の記事で、全学連の過去の話題を提供したら面白がってもらえました。そこで本日も、ナベツネ氏の共産党時代の過去話など提供したいと思います。ナベツネ氏は、『現代』における佐高氏との対談でも、東大共産党の指導者を追われたという学生時代の思い出を、いまだに悔しさをにじませながら回顧しておりました。よほど悔しい経験だったようです。
じつは、ナベツネ氏を1947年12月7日に、東大共産党の指導者の地位から追い落としたのは、いま私も一緒に仕事をさせていただいている力石定一先生(このブログのエコロジカル・ニューディール政策の提唱者)だったのです。当時、新入生だった力石氏は、ナベツネ氏の指導方針にはとてもついて行けないと悲鳴をあげて、沖浦和光氏や武井昭夫氏らとともに細胞会議に除名決議案を提出して追い落とすことを決意したのでした。
「除名」というのはいささか乱暴な方法だと私は思うのですが、現在も続くナベツネ氏のワンマン指導ぶりを見れば、このときの新入生たちの思いには共感できる部分もあります。そして、ナベツネ氏を追い出した力石氏らは、翌年に晴れて全学連を結成したのでした(もっとも力石氏らも、後に宮本顕治氏と対立して党を離れるわけです)。
さて、東大学生運動の最高権力者の地位から一夜にして追い落とされたという、その挫折経験がナベツネ氏を複雑に屈折させ、その後の人生における保守政党への擦り寄りと、権力への飽くなき執着心を生み出したのだと、ジャーナリストの魚住昭氏は分析しています。(魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社)。
でも、基本的に欲しいものは全て手に入れたナベツネ氏が、ここにきてヒューマニズムの原点に回帰しているように、私には思えるのですが如何でしょうか? いまのナベツネ氏は、決して権力に迎合してはおらず、むしろ権力者の誤りを指摘するご意見番として機能している部分が大きいように思えます。
多分、ナベツネ氏は、「力石定一」という名前に、今でも激しい怒りを覚えることかと思われます。でも前の記事に書きましたように、そのナベツネ氏の『読売』が、力石氏が一生懸命に取り組んできた「小田急高架訴訟」の最高裁判決(行政・企業よりも地域住民を優先することに道を開いた)を、社説でも取り上げて他紙よりも高く評価してくれたのは、私には嬉しいことでした。
<引用開始>
渡辺「(オリックスの)宮内さんは市場原理主義者ですよね。市場原理主義というものが、日本経済をかなり蝕んでいるのは間違いないと思います。
(中略)
10年不況が続き株価も下落します。そこで日本人よりも先にハゲタカが目を付けた。日本人の中にもハゲタカの手先になっているのがいて、PBR(株価純資産倍率)の低いものを餌食にしようとしている。
(中略)
でも敵対的買収で上手くいった例はほとんどない。タイム・ワーナーとAOLの例が典型ですよ。
アメリカでも、市場原理主義にはある程度統制を加えなければならないという論調が強まっているんです。あのジョージ・ソロスでさえ、株式市場には秩序が必要だと言い出している。
だからアメリカの市場原理主義者ももう醒めてしまって、やはり国家秩序、国民生活、企業で働く従業員を無視しちゃいけないと反省している。ステークホルダーっていうのは、第一に従業員ですよ。経営者だって従業員の一部ですしね。その次が顧客、読売新聞で言えば読者です。そういう人々がいないと企業は成立しないのに、もう株式至上主義で、『株主さえもうけさせればいいんだ、そのためには何をしてもいいのだ』ということになれば、当然、高配当をしろということになる。あるいは非生産部門は切ってしまえ、と」。
<引用終わり>
いい発言ですねー。ナベツネ氏は、「株主よりも従業員の方が大事なのだ」と声を高くして宣言しています。私は、この点こそが、日本型資本主義と米国型資本主義を違いを特徴づける、もっとも重要な分水嶺だと思っています。日本では、何といっても株主なんかより従業員の方が大事だったのです(少なくともこれまでは)。最近の日本は「従業員よりも株主が第一」という、米国型資本主義に大きく変質しようとしていますが、ナベツネ氏はそれが誤りだと声を大にして訴えているわけです。
さすがにナベツネ氏は、元東大共産党細胞の指導者だっただけのことはあるということでしょうか。
前の記事で、全学連の過去の話題を提供したら面白がってもらえました。そこで本日も、ナベツネ氏の共産党時代の過去話など提供したいと思います。ナベツネ氏は、『現代』における佐高氏との対談でも、東大共産党の指導者を追われたという学生時代の思い出を、いまだに悔しさをにじませながら回顧しておりました。よほど悔しい経験だったようです。
じつは、ナベツネ氏を1947年12月7日に、東大共産党の指導者の地位から追い落としたのは、いま私も一緒に仕事をさせていただいている力石定一先生(このブログのエコロジカル・ニューディール政策の提唱者)だったのです。当時、新入生だった力石氏は、ナベツネ氏の指導方針にはとてもついて行けないと悲鳴をあげて、沖浦和光氏や武井昭夫氏らとともに細胞会議に除名決議案を提出して追い落とすことを決意したのでした。
「除名」というのはいささか乱暴な方法だと私は思うのですが、現在も続くナベツネ氏のワンマン指導ぶりを見れば、このときの新入生たちの思いには共感できる部分もあります。そして、ナベツネ氏を追い出した力石氏らは、翌年に晴れて全学連を結成したのでした(もっとも力石氏らも、後に宮本顕治氏と対立して党を離れるわけです)。
さて、東大学生運動の最高権力者の地位から一夜にして追い落とされたという、その挫折経験がナベツネ氏を複雑に屈折させ、その後の人生における保守政党への擦り寄りと、権力への飽くなき執着心を生み出したのだと、ジャーナリストの魚住昭氏は分析しています。(魚住昭『渡邉恒雄 メディアと権力』講談社)。
でも、基本的に欲しいものは全て手に入れたナベツネ氏が、ここにきてヒューマニズムの原点に回帰しているように、私には思えるのですが如何でしょうか? いまのナベツネ氏は、決して権力に迎合してはおらず、むしろ権力者の誤りを指摘するご意見番として機能している部分が大きいように思えます。
多分、ナベツネ氏は、「力石定一」という名前に、今でも激しい怒りを覚えることかと思われます。でも前の記事に書きましたように、そのナベツネ氏の『読売』が、力石氏が一生懸命に取り組んできた「小田急高架訴訟」の最高裁判決(行政・企業よりも地域住民を優先することに道を開いた)を、社説でも取り上げて他紙よりも高く評価してくれたのは、私には嬉しいことでした。
その間に巨人軍の人気ががた落ちになりました
独裁者ぶりが嫌われたのもありますが巨人のためのプロ野球を堂々と標榜する彼の発言に嫌気をさしている人も多いです。今年の巨人軍の平均視聴率は、過去最低の10.2%です。10月の試合などは、深夜に追いやられたほどです。
原監督解任事件などのファンを無視した言動が目立ちます
ナベツネは、巨人軍を頂点とした1リーグ制を画策しホリエモンに邪魔され、コントロールできると思った三木谷さんに新球団をやらせることにしただけです。
その三木谷にTBS買収問題でマスコミ界をかき回されたことへの批判でしょう。
今こそ、「カネで人間の心は買えないのだ」と叫ばなければならないと思います。
http://www.tbs.co.jp/jijihoudan/last/050918.html
ただ、関さんがこの記事をあげられてから、同意コメントを思い留まっていたのも事実で、やはり彼が「カネで人間の心は買えないのだ」と吐くとき、それをお前はやってこなかったか?と訊きたくもなるという気持ちがあるからです。
今も昔もルールは金で、それが見えないよう建前で隠されているか、その建前も取っ払われているかの違いだけの気がしてなりません。
小泉が(ある部分の人たちから)喝采を受けるのは、そういう建前で隠されたものが明らかにされているからじゃないかと考えたりもします(非常にグロテスクな形ですが)。
まあ、ただ、確かにナベツネ氏がこのタイミングでそうした発言をするのは、機能面だけをとれば良いことかもしれませんね。
私の判断は、そのようなわけでアンビバレントです。倫理面を見るのか、機能面をみるのか。難しいところです。
ナベツネ氏は、巨人のオーナーを辞めた時期、脳梗塞か何かで倒れて生死をさまよっていたナベツネ夫人の看護をつきっきりでしていたみたいです。その甲斐もあってか夫人は奇跡的に回復したみたいなのです。
大事な人間の生死と直面して、カネよりも大事な何かを悟られたのかも知れません。なので、本質的に倫理面でも、彼の内面に変化が生じてくれているのではないかとも思えるのです。
今後の彼の行動を注意深く見守りましょう。カネの亡者かと思っていた人物が、内面でも本質的に変化しているとすれば、私たちにとっても良いことだと思います。
それでは私も遠目から期待しておきます。
ありがとうございました。
http://www.asahi.com/national/update/0104/TKY200601030247.html
という記事が出ていました.
> 読売新聞の渡辺恒雄主筆と朝日新聞の若宮啓文論説主幹が初めて対談した。
のだそうです.短い記事ですが,末尾の
>対談は5日発売の朝日新聞社の月刊誌「論座」2月号に掲載される。
が注目されるところです.細かい内容を知りたい場合には論座を買うというわけですね.
靖国問題では、多分、安形さんも私も「ともに素人」なのではないかと思うのですが、こっちの問題でも、私は「一市民としての意見を述べる」という立場に変化はありません。
現世に相当に執着心がありそうなので、長生きされるのではないでしょうか?