代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

本来の構造改革論とは?

2005年02月14日 | 運動論
 50代後半より上の世代の方々は、ご存知の方が多いと思いますが、かつて「構造改革」という言葉は、現在とは180度違う意味で使われていました。本日は、1950年代後半から60年代を通して一世を風靡した、本来の意味での「構造改革論」について書きたいと思います。
 いま私は、1967年に発行された力石定一著『転形期の経済思想 ―その政治力学的考察―』(徳間書店)を読み返しているのですが、その発想の新鮮さ、理論的洞察の斬新さに驚いています。いまの時点で読み返してもちっとも古くないのです。そこで、その本の中から、本来の「構造改革論」のエッセンスを抽出して紹介したいと思うのです。

 ちなみに当時、構造改革論の旗手として活躍された力石定一氏(法政大学名誉教授)は、1948年に全学連(全日本学生自治会総連合)が結成された際の中心的人物であった人です。
 最近でも小田急線の高架問題で、地下化の費用が高架建設よりも安価であることを実証した「小田急連続立体交差工事に関する市民専門家会議」の座長を務め、小田急裁判の一審勝訴の原動力となりました。また、吉野川可動堰の代替案としての「緑のダム」の機能を実証した「吉野川流域ビジョン21委員会」の委員も務めるなど、現在に至るまで市民運動で活躍をされております。

 さて、力石氏は1967年の著作である『転形期の経済思想』(74-90頁)において、1960年代当時の世界における、経済政策思想の潮流として、以下の三大潮流と七つの流派をあげています。

(1)自由企業学派:「資本主義(国家干渉を排除し、私企業の自由な行動を最大限に発揮させるという本来の意味での)は存続すべきであり、また存続しうる」と考える。自由企業派は、さらに二つに分けられる。

①新自由主義派: 基本的に政府の干渉を排すべきと考えるが、政府の機能として例外的に独占禁止法による公的介入やマネーサプライの管理などを消極的に承認する。ミルトン・フリードマン、ハイエク、ロビンズなどが含まれる。

②旧自由主義派: 独占禁止法など最低限の介入すら認めたがらない。ミーゼス、リュエフなど。

(2)改良主義派:「資本主義は、もし改革されるならば、存続することができ、また存続すべきである」と考える。以下の三つの流派がある。

③ケインズ派:財政金融政策を積極的に行使して経済のマクロ的均衡を維持し、経済成長を計画化しようとする。ハンセン、サミュエルソン、ハロッド、ドーマーなど。

④新資本主義派:私的企業の営利主義的利潤追求行動にも批判を加え、企業の主導権を私的所有者から産業技術者に移し、労資協調体制を作り出し、資本主義の害悪を制限する必要があると考える。ヴェブレン、クラーク、ガルブレイス、ペルー、サラチェーノなど。

⑤民主社会主義派: 労働運動の中から出てきて、ケインズ等の改良主義を受容して発展させようとしているもの。クロスランド、ティンベルゲン、ミュルダールなど。

(3)社会主義学派:「資本主義は存続すべきでなく、また存続することもできない」と考える。以下の二つの流派がある。

⑥構造改革派: 改良主義の諸潮流が主張するような、資本主義に修正を迫る制度的改革を積極的に評価し、その制度的な改良の積み重ねを、体制変革の戦略目標へと結びつけていこうとする。ルチアーノ・バルカ、フォセール、ジョン・ヒューズなど。

⑦最大限綱領主義派(マキシマリスト): 体制変革以前に小手先の改革は不可能であり、かりに改革を実行しても、結局は資本家階級を利するだけであると考える。ソ連共産党、フランス共産党など当時の世界の共産党の大多数。また内容的には異なるが中国共産党。

 力石氏の構造改革路線とは、「より改良主義的な潮流と手を握り、次々と改革を実行に移し、その時点もっとも右端に位置する最保守派を順次片付けて、重心を次第に左に移動させていくこと」です。もっとも当時の構造改革派の敵は、最右端の自由主義学派とともに、最左端の最大限綱領主義派でありました。なぜなら、自由主義学派と最大限綱領主義派は、実質的に「反ケインズ」で協力関係を形成していたからです。
 力石氏は、1960年代初頭の段階で、「右翼と最大限綱領主義派という左右の両端を片づけて」(204頁)しまわないと、日本の改革は前に進まないと考えていました。
 当時の自民党の池田隼人内閣はケインズ派の内閣であり、資本主義における経済の計画化が可能であることを実証しました。ケインズ理論に基づいて計画的な所得倍増と高度成長を実現させたのです。もちろん公害問題など数多くの問題は引き起こしましたが、そうであっても、吉田茂が「計画はアカだ」と主張する自由企業派の政権であったことを考えると、格段の進歩であったとはいえるのです。高度成長の結果としての公害問題は、彼らが構築したケインズ的計画化の地平の上に立って、そのシステムをさらに改良する民主的・社会的な計画化によって解決すべき問題だと考えられるからです。自由放任主義に回帰したら、問題はさらに深刻化することは間違いないでしょう。
 そこで、構造改革論の立場から見れば、日本の左派や労働運動は、池田隼人や宮沢喜一と手を握って、当時の自民党内の最右端にあった自由企業派を壊滅させることを考えなければいけないことになります。
 しかしながら、基本的に最大限綱領主義派であった日本の革新政党(社会党と共産党)は、ほとんど「自由企業派」と同じような論法(インフレ批判、安価な政府論、財政均衡論)をもって池田ケインズ派を攻撃し、自民党右派の左の同盟者のようになって、池田の追い落としに貢献しました。
 「革命がなければすべての改革は不可能」と考える、思考停止ともいえる最大限綱領主義派は、批判をするだけで、歴史的に見て、経済政策としては何ら価値ある積極的な理論を提起してこなかったといえるでしょう。ちなみに社会党と共産党は、党内に存在していた構造改革派を順次、党外へと追い出していき、最大限綱領主義を死守するという愚行を行いました。私は、それが現在のように惨めな革新勢力の全面的な崩落を迎えることになった主因だと思います。

 教条的マルクス主義と新古典派経済学の市場原理主義は、歴史的に見ても意外に類似性を持ちます。例えば、1929年に始まる世界恐慌時代に、米国の自由企業派であったフーバー大統領と、ドイツの社会民主党政権で大蔵大臣であったマルクス主義者のヒルファディングは共に、「恐慌は恐慌のみによって解決される」という無策・傍観主義を決め込んで、両国の経済を破滅に追い込みました。それがドイツではナチスの政権獲得につながったのです。
 力石氏によれば、いちはやく恐慌からの脱出を実現したのはスウェーデンの社会民主党政権であり、顧問として積極財政政策を指導した経済学者は民主社会主義派のグンナー・ミュルダールでした。この結果、スウェーデンは第二次大戦に巻き込まれることを回避できたのです(力石定一「私の総合経済戦略について」力石定一・牧衷編『発想』No.4、季節社刊、2002年、を参照)。

 さて左からの援護射撃によって、池田倒閣後の自民党は佐藤栄作を首相に迎え、旧来の保守路線に回帰しました。力石氏は前掲書の中で、「中期計画を葬り去れ」と叫ぶ佐藤や福田赳夫を新自由主義の最右派と見て、当時の佐藤内閣にあっては藤山愛一郎、田中角栄、三木武夫などケインズの分かりそうな政治家への期待を表明しています。

 それから40年近くが経ちました。先の7つの経済思想潮流に照らしてみると、今の日本では最右派である自由企業派の「一人勝ち」となり、他の流派は押しなべて「元気がない」か、あるいは壊滅状態になっています。力石氏は当時、まさか40年後の世界において、最右派である福田赳夫の思想遺伝子を引き継ぐ人物が首相として君臨し、日本経済を破局に追い込むような愚策を繰り広げることになろうとは、予想もしなかったでしょう。
 もちろん、その間、力石氏が期待していたケインズ派の田中角栄が権力を握り、日本型ケインズ政策の全盛時代をつくりました。しかし今や田中角栄路線は、右派と一般市民、マスコミからの全面的な攻撃にさらされ、思想的には壊滅状況にあります。
 ケインズ派を評価していた力石氏は間違ったのでしょうか? いや違います。当時、力石氏がケインズ派をどのように評価し、また批判していたのかを見ておきましょう。

「構造改革派は、(ケインズ派の)補整的財政政策が、社会的・民主的支出の増大を通じて行使されるかぎり、それは財政制度の一種の社会化であるとみなして支持するが、次のような留保つきでそうするのである。『いかなる公共支出も、釣合いのとれた発展を保証するに足る一定量の追加的民間投資を引出すことができるのだというような“ケインズ的あいまいさ”とでも呼びうるものを克服すべきである。・・・・・第一に考慮すべきことは、投資の量ではなくて、むしろその質である』」
(力石『転形期の経済思想』79-80頁)

 これこそが、日本のケインズ派が最後まで理解しなかった点なのです。公共投資を考える上で、もっとも考慮すべきものは「量」ではなくて「質」なのです。この点さえ真剣に考慮されていたならば、「失われた10年」はこんなに深刻なものとはならなかったでしょう。
 構造改革派が指摘していた公共投資の「民主化」「社会化」そして「質」の重要性を、ついに理解することのなかった日本のケインズ派は、この十数年にわたって「穴を掘ってまた埋め戻す」を実行するに至りました。その暴挙が、経済理論は分からないが、しかし社会正義の意識に燃える市民層の広範な怒りを呼び起こしました。
 福田赳夫の遺伝子を引き継ぐ小泉純一郎という市場原理主義者は、経済理論の分からない市民層の怒りを「同盟者」として利用し、政権を奪取するに至ったのです。「改革派」を詐称する右派のクーデターは、再び、左からの同盟者の力を得て行われたといえるかも知れません。しかも、世界を1929年以前の状態に戻そうとする、単なる復古主義者でしかない右派たちが、「構造改革派」を名のるとは、いったい何という歴史の皮肉でしょうか!!! このまま自由放任主義化が放置されてしまえば、大恐慌から世界大戦へというあの悪夢のような惨劇が繰り返されてしまうかも知れません。
 「本当の構造改革派」が健在であったら、市民の怒りを「公共事業の民主化・社会化・質の改善」の要求運動へとつなげてケインズ派の腐った部分を切り落とすことにつなげようとしたでしょう。それができれば、みすみす小泉になど政権を渡すことを回避できたことでしょう。

 公共投資に当たって、第一に何を考慮すべきなのかは、前の記事の「ダムと森林整備の経済効果の比較」にも書きましたので参照ください。
 力石氏は、ダムや堰の建設による治水公共事業の代替案として「森林保水力の強化」が有効であることを日本でもっとも早くから指摘し(1993年から)、緑のダム政策を運動として組織してこようとした方です。力石氏が1993年の段階で、「ダムの代わりに森林保水力強化を」という論陣を張ったのは、バブル崩壊後に「公共事業の前倒し実施」を掲げた自民党のケインズ派が、「穴を掘ってまた埋め戻す」に至ることを予見した上で、先行的に公共事業の「民主的で社会的な運用」と「質の改善」という構造改革要求を提起しようとしたものなのです。(力石定一「長良川河口堰 -鉄とセメントより自然林植林を」『エコノミスト』1993年7月6日号、毎日新聞社、を参照のこと)。

 東西冷戦崩壊後、「最大限綱領主義派」としての左翼革新派は惨めに衰退しました。今後、日本で革新勢力の再建が可能であるとすれば、新たな構造改革論による理論武装によってしか果たされることはないのではないかと思います。(「構造改革」という言葉は手アカがついてしまったので、何か別のネーミングを考えた方がよいかも知れませんが)。 日本ではいまだにグラムシ愛好者が多いことを見ても、その可能性はあるのかも知れません。

このまま自由放任主義から大恐慌へという経路を放置するのか、それとも破滅の前に方向転換を実現し、市場経済の欠陥を民主的で社会的な計画化によって是正するのか―― 今や、世界史は重要な分岐点にさしかかっているのだと思います。一刻も早く手を打たないと、取り返しのつかないことになってしまうでしょう。
 
 マスコミの皆さん。「構造改革」という言葉は、本来は、小泉氏や竹中氏が使うような、非人道的で、残虐な概念ではないのですよ。多くの人々も、そろそろ中味のない「構造改革ごっこ」に飽き飽きしているところでしょう。心あるマスコミがまだ日本にあるのでしたら、力石氏に本来の構造改革論とはどのようなものか語ってもらって記事にしてみては如何でしょうか? 未来社会への展望は確実に開けてくるはずなのです。


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