昨日の投稿記事の続きを書きます。日本のケインズ派の「量ばかりに注目して質が分からない」という点でもう少し論じさせてください。
この間の日本でケインズ主義の立場から積極財政政策の必要性を声高に叫んできた代表的な論客としてリチャード・クー氏がいます。竹中平蔵氏の主張するサプライサイド政策・緊縮財政政策が現在の日本の状況下に照らし合わせて如何にトンチンカンかという点に関しては、基本的にリチャード・クー氏の主張通りだと思います[クー氏の著作としては『良い財政赤字悪い財政赤字』(PHP、2001年)『日本経済生か死かの選択』(徳間書店、2001年)などを参照]。
さて、私がクー氏に賛同するのは、彼のサプライサイド批判、マネタリスト批判に関してのみです。クー氏の政策に私が全面的に賛同しており、とくに付け加えることがないのであれば、何もこんな原稿を書きません。
今必要なのは、竹中流のサプライサイド政策とクー流のケインズ政策をアウフヘーベンすることだと思うのです。ケインズ流の失業対策・総需要管理が重要なのはいうまでもありませんが、エコテクノロジー革命によって、持続可能な社会を建設するための循環型の財を供給していくという点でサプライサイドの改革も重視せねばならないからです。
クー氏は、かつて私が勤務していた大学の客員教授もやっており、私はクー氏の講義を何回も聴いたことがあります。その中で、とくに印象が深かったエピソードを紹介いたします。2002年1月17日に行われたクー氏の講義で、彼はいつものように切れ味鋭く、マネタリストやサプライサイダーの俗論を攻撃いたしました。しかし、財政政策の必要性を訴える一方で、「財政をこの分野に出せ」という具体策は遂に語られませんでした。そこで、質疑応答の時間、ある学生が次のような趣旨の質問をしました。
「いまの状況において財政政策がいかに重要であるかという点に関してはたいへん良く分かりました。しかし、財政を出す場合、どの分野に重点的に出せば良いのでしょうか? やはり、財政支援によって伸ばすべき産業分野と、逆に淘汰されても仕方ない分野とあると思うのです…」
これに対するクー氏の回答は概ね次のようなものでした。
「平時の議論ならそれでよいのですが、総需要不足の現状下ではそうじゃないんです。例えば、瀬戸大橋を建設したことにより、港湾労働者が8000人も失業いたしました。役に立つものを造ると逆に失業者を増やし、かえって総需要を減衰させてしまうということも起こるのです。需要不足の状況においては、総供給を増やすことなく、需要だけ増やすことが必要となります。そのためには、穴を掘ってそれをまた埋め戻すような、できるだけ役に立たない事業を行う必要が出てくるのです。具体的に何を造れば良いのかということなのですが、例えば戦艦大和を造ってみるのは如何でしょう…」。
私はこの発言を聞いたとき、「あー、こりゃ駄目だ。こんなことを言っているから、ケインジアンの評判がガタ落ちになるのだ」と絶望的な気分になりました。
ちなみにクー氏が「戦艦大和を造れ」といったのは、軍事主義的観点からではありません。あくまで「役に立たないものを造るべき」ことの象徴として「大和」を挙げているのです。(大艦巨砲が実戦で威力を発揮したのはせいぜい日露戦争までで、空母の登場によってまったく意味を失ったのは周知のことです。彼が本当に軍事ケインズ主義者であったなら、「戦艦大和」ではなく「イージス艦を造れ」と主張したことでしょう)。
さて、実際に戦艦大和を造ったとすれば、第一に潤うのは、慢性的に設備過剰の状態にある(過剰供給力を抱えすぎている)鉄鋼業界と造船業界でしょう。鉄鋼業界と造船業界にとっては非常に大きな需要が発生することになり、設備稼働率は上昇します。一方で、戦艦大和という「インフラ」を整備しても、それが新たな財の供給力を生むことはほとんどなさそうです。「総供給を増やさずに総需要だけ増加させ」、需給ギャップを埋めることができるというわけです。現在の不況の原因は、総供給>総需要、ということなのですから、クー氏の戦略では、供給をなるべく増やさずに、需要だけを喚起する必要があります。
一方で、竹中氏の主張するサプライサイド政策とは、要は、「企業はどんどんリストラして、より効率的に、より安く、より大量に生産せよ」ということなのですから、必然的に総供給量だけどんどん増やす一方で、失業率はますます高くなって総需要量は減ることになります。その結果、需給ギャップはますます拡大してデフレスパイラルを加速させることになります(これはマルクス経済学の用語を使えば、「過剰生産恐慌」に他なりません)。竹中氏の主張通りに日本を「構造改革」したら、人間同士が騙しあい、憎しみあい、蹴落としあい、失業者と犯罪者と自殺者で溢れかえった、殺伐とした「競争社会」が出現するのは目に見えたことでした。
クー氏の考えでは、民間企業のバランスシートが改善され、再び設備投資意欲が活発化するまで、ひたすら政府は公共事業を通して民間の余剰生産物を吸収し、民間の借金を減らす努力をせねばなりません。一方で、新しい供給物を増やすような分野には投資すべきではないということなのですから、結局「政府支出によって衰退産業を救え」ということになります。
クー氏の主張の落とし穴は、「借金企業のバランスシートがきれいになった暁には、再び設備投資意欲が湧いてくる」という命題を暗黙のうちに前提としていることにあります。そのよう保証はどこにもないでしょう。財政政策によって民間設備投資を活発させるという波及効果を意図するのであれば、借金企業のバランスシートを改善するためにお金を使うよりも、全くバランスシートがきれいな新しい産業を育成することにお金を使った方が、はるかに効果的でしょう。
「持続可能な未来をつくるための新しいクリーン産業を育成して、雇用をそちらに移していき、環境破壊的なダーティ産業は徐々に市場から退場させる」という私の考えからすれば、クー氏の主張はとても容認できるものではありません。
昨日の投稿で紹介した力石定一氏は「選択的成長論」を掲げています。これは、失業対策としてのケインズ政策と、コンドラチェフ循環の駆動力としての新産業育成というシュンペーター的な経済戦略を、エコロジーの大原則の下で組み合わせようという公共投資論です。クー氏の議論に決定的に欠けているのは、このシュンペーター的な部分だといえます。
竹中氏の場合は、「新産業の育成」ということは頭の中にあるにせよ、その方策としてはせいぜい「規制緩和」という漠然とした一般論を言うくらいなのです。戦略的にどのような産業を育成して、どのような未来社会を創るのかという具体的なアイディアに関しては、彼の頭の中には何もありません。彼の理論では、新しい産業は市場が創るべきものであり、政府が育成すべきものではないからです。
結局のところ、クー氏と竹中氏では主張が180度違うように見えますが、「未来社会に対する具体的な青写真がない」という点において両者は共通しているのです。
竹中氏のような市場原理主義者にとって、淘汰すべき産業と育成すべき産業を選別する判断基準は、「市場競争力があるか否か」という一点に尽きます。一方、力石氏が主張する「選択的成長論」では、その産業がエコロジカルにクリーンか否か、人類社会の長期的な持続的発展を展望した際に有用か否かという一点に尽きるのです。ケインズとシュンペーターを、さらにエコロジーの大原則に立脚して統合させようというのが、力石氏と牧衷氏が『発想』(季節社刊、全4集)の中で提起した「エコロジカル・ニューディール政策」なのです。(季節社HPを参照。http://www.kisetusha.jp/ )
力石氏や牧衷氏の「構造改革論」が、小泉内閣の「市場原理主義的構造改革論」と本質的に違う点は、未来社会のために育成すべき産業は、民主的な手法で、社会的需要を反映させ、確かな未来予測の下で、人間の英知でもって選び取るものであり、そのためには補助金を入れてもよいし、国家プロジェクトによって政府が意図的に需要をつくりだしてもよい、ありとあらゆる手段を講じて計画的・戦略的に、その産業を育成すべきだと考えている点でしょう。
その産業を育成するために、緩和すべき規制があれば緩和するし、逆に強化すべき規制があれば強化する。あくまで、未来社会の青写真と大方針が先にあって、それを実現するための政策は後で検討すべきということになります。そうした具体的な未来像なくして、「規制か規制緩和か」などという抽象論をしても、全く不毛なのです。
この間の日本でケインズ主義の立場から積極財政政策の必要性を声高に叫んできた代表的な論客としてリチャード・クー氏がいます。竹中平蔵氏の主張するサプライサイド政策・緊縮財政政策が現在の日本の状況下に照らし合わせて如何にトンチンカンかという点に関しては、基本的にリチャード・クー氏の主張通りだと思います[クー氏の著作としては『良い財政赤字悪い財政赤字』(PHP、2001年)『日本経済生か死かの選択』(徳間書店、2001年)などを参照]。
さて、私がクー氏に賛同するのは、彼のサプライサイド批判、マネタリスト批判に関してのみです。クー氏の政策に私が全面的に賛同しており、とくに付け加えることがないのであれば、何もこんな原稿を書きません。
今必要なのは、竹中流のサプライサイド政策とクー流のケインズ政策をアウフヘーベンすることだと思うのです。ケインズ流の失業対策・総需要管理が重要なのはいうまでもありませんが、エコテクノロジー革命によって、持続可能な社会を建設するための循環型の財を供給していくという点でサプライサイドの改革も重視せねばならないからです。
クー氏は、かつて私が勤務していた大学の客員教授もやっており、私はクー氏の講義を何回も聴いたことがあります。その中で、とくに印象が深かったエピソードを紹介いたします。2002年1月17日に行われたクー氏の講義で、彼はいつものように切れ味鋭く、マネタリストやサプライサイダーの俗論を攻撃いたしました。しかし、財政政策の必要性を訴える一方で、「財政をこの分野に出せ」という具体策は遂に語られませんでした。そこで、質疑応答の時間、ある学生が次のような趣旨の質問をしました。
「いまの状況において財政政策がいかに重要であるかという点に関してはたいへん良く分かりました。しかし、財政を出す場合、どの分野に重点的に出せば良いのでしょうか? やはり、財政支援によって伸ばすべき産業分野と、逆に淘汰されても仕方ない分野とあると思うのです…」
これに対するクー氏の回答は概ね次のようなものでした。
「平時の議論ならそれでよいのですが、総需要不足の現状下ではそうじゃないんです。例えば、瀬戸大橋を建設したことにより、港湾労働者が8000人も失業いたしました。役に立つものを造ると逆に失業者を増やし、かえって総需要を減衰させてしまうということも起こるのです。需要不足の状況においては、総供給を増やすことなく、需要だけ増やすことが必要となります。そのためには、穴を掘ってそれをまた埋め戻すような、できるだけ役に立たない事業を行う必要が出てくるのです。具体的に何を造れば良いのかということなのですが、例えば戦艦大和を造ってみるのは如何でしょう…」。
私はこの発言を聞いたとき、「あー、こりゃ駄目だ。こんなことを言っているから、ケインジアンの評判がガタ落ちになるのだ」と絶望的な気分になりました。
ちなみにクー氏が「戦艦大和を造れ」といったのは、軍事主義的観点からではありません。あくまで「役に立たないものを造るべき」ことの象徴として「大和」を挙げているのです。(大艦巨砲が実戦で威力を発揮したのはせいぜい日露戦争までで、空母の登場によってまったく意味を失ったのは周知のことです。彼が本当に軍事ケインズ主義者であったなら、「戦艦大和」ではなく「イージス艦を造れ」と主張したことでしょう)。
さて、実際に戦艦大和を造ったとすれば、第一に潤うのは、慢性的に設備過剰の状態にある(過剰供給力を抱えすぎている)鉄鋼業界と造船業界でしょう。鉄鋼業界と造船業界にとっては非常に大きな需要が発生することになり、設備稼働率は上昇します。一方で、戦艦大和という「インフラ」を整備しても、それが新たな財の供給力を生むことはほとんどなさそうです。「総供給を増やさずに総需要だけ増加させ」、需給ギャップを埋めることができるというわけです。現在の不況の原因は、総供給>総需要、ということなのですから、クー氏の戦略では、供給をなるべく増やさずに、需要だけを喚起する必要があります。
一方で、竹中氏の主張するサプライサイド政策とは、要は、「企業はどんどんリストラして、より効率的に、より安く、より大量に生産せよ」ということなのですから、必然的に総供給量だけどんどん増やす一方で、失業率はますます高くなって総需要量は減ることになります。その結果、需給ギャップはますます拡大してデフレスパイラルを加速させることになります(これはマルクス経済学の用語を使えば、「過剰生産恐慌」に他なりません)。竹中氏の主張通りに日本を「構造改革」したら、人間同士が騙しあい、憎しみあい、蹴落としあい、失業者と犯罪者と自殺者で溢れかえった、殺伐とした「競争社会」が出現するのは目に見えたことでした。
クー氏の考えでは、民間企業のバランスシートが改善され、再び設備投資意欲が活発化するまで、ひたすら政府は公共事業を通して民間の余剰生産物を吸収し、民間の借金を減らす努力をせねばなりません。一方で、新しい供給物を増やすような分野には投資すべきではないということなのですから、結局「政府支出によって衰退産業を救え」ということになります。
クー氏の主張の落とし穴は、「借金企業のバランスシートがきれいになった暁には、再び設備投資意欲が湧いてくる」という命題を暗黙のうちに前提としていることにあります。そのよう保証はどこにもないでしょう。財政政策によって民間設備投資を活発させるという波及効果を意図するのであれば、借金企業のバランスシートを改善するためにお金を使うよりも、全くバランスシートがきれいな新しい産業を育成することにお金を使った方が、はるかに効果的でしょう。
「持続可能な未来をつくるための新しいクリーン産業を育成して、雇用をそちらに移していき、環境破壊的なダーティ産業は徐々に市場から退場させる」という私の考えからすれば、クー氏の主張はとても容認できるものではありません。
昨日の投稿で紹介した力石定一氏は「選択的成長論」を掲げています。これは、失業対策としてのケインズ政策と、コンドラチェフ循環の駆動力としての新産業育成というシュンペーター的な経済戦略を、エコロジーの大原則の下で組み合わせようという公共投資論です。クー氏の議論に決定的に欠けているのは、このシュンペーター的な部分だといえます。
竹中氏の場合は、「新産業の育成」ということは頭の中にあるにせよ、その方策としてはせいぜい「規制緩和」という漠然とした一般論を言うくらいなのです。戦略的にどのような産業を育成して、どのような未来社会を創るのかという具体的なアイディアに関しては、彼の頭の中には何もありません。彼の理論では、新しい産業は市場が創るべきものであり、政府が育成すべきものではないからです。
結局のところ、クー氏と竹中氏では主張が180度違うように見えますが、「未来社会に対する具体的な青写真がない」という点において両者は共通しているのです。
竹中氏のような市場原理主義者にとって、淘汰すべき産業と育成すべき産業を選別する判断基準は、「市場競争力があるか否か」という一点に尽きます。一方、力石氏が主張する「選択的成長論」では、その産業がエコロジカルにクリーンか否か、人類社会の長期的な持続的発展を展望した際に有用か否かという一点に尽きるのです。ケインズとシュンペーターを、さらにエコロジーの大原則に立脚して統合させようというのが、力石氏と牧衷氏が『発想』(季節社刊、全4集)の中で提起した「エコロジカル・ニューディール政策」なのです。(季節社HPを参照。http://www.kisetusha.jp/ )
力石氏や牧衷氏の「構造改革論」が、小泉内閣の「市場原理主義的構造改革論」と本質的に違う点は、未来社会のために育成すべき産業は、民主的な手法で、社会的需要を反映させ、確かな未来予測の下で、人間の英知でもって選び取るものであり、そのためには補助金を入れてもよいし、国家プロジェクトによって政府が意図的に需要をつくりだしてもよい、ありとあらゆる手段を講じて計画的・戦略的に、その産業を育成すべきだと考えている点でしょう。
その産業を育成するために、緩和すべき規制があれば緩和するし、逆に強化すべき規制があれば強化する。あくまで、未来社会の青写真と大方針が先にあって、それを実現するための政策は後で検討すべきということになります。そうした具体的な未来像なくして、「規制か規制緩和か」などという抽象論をしても、全く不毛なのです。
本来であれば、このような内容を投稿するべきではないのかもしれませんが、周りに経済に興味をもつ人もおらず本屋に出向いても、素人では良書かどうかの判断もつかず、こちらに書き込みいたしました。お許しください。
ケインズは、ゼロ金利でも貸出しが増加しない理由として「流動性の罠」という表現を使いました。しかし、これはよく分からない概念で、私は、何かごまかされた感じがしておりました。
クー氏は、「バランスシート不況」という概念で、ケインズが説明できなかったことを見事に明らかにしていると思います。
現在の日本の経済政策の主流派であるマネタリストとサプライサイダーの理論が、日本の現状に照らして如何に間違っているかという点に関しては、クー氏の言うとおりだと思います。
私の批判は、クー氏が「役に立たない公共投資でもよい」と主張する、その一点です。
日本のケインズ派で、「役に立つ公共投資をすべきだ」といっているのは、例えば小野善康氏です。
小野善康『誤解だらけの構造改革』(日本経済新聞社)はお勧めです。
ただ、小野氏にしても、具体案はまだまだ貧困だと私は思っています。このブログでも、もっと具体案を出していきますので、よろしくお願いします。
この問題で、1ドルが60円くらいにまで暴落する必然性を分かりやすく解説した本として、リチャード・ダンカン『ドル暴落から、世界不況が始まる』(日本経済新聞社)は良書です。
経済学において絶対不可侵と思われている「自由貿易論」に異議を唱え、またマネタリストの処方箋が役に立たないことを見事に明らかにしています。
さらに円とドルの関係に関しては、「帝国循環」の構造を明らかにした吉川元忠氏の業績が、やはりすばらしいと思います。吉川氏のような人こそ、ノーベル賞をもらうべきだと私は思います。
吉川元忠『マネー敗戦』(文春新書)などです。また最近、吉川氏は『円がドルに呑み込まれる』(徳間書店)という著書を出したらしいです。私もまだ読んでないので、これから読むつもりです。
しばらくこちらで勉強させていただこうと思います。日々の更新ご苦労様です。では。
何で同じ単語に相互に矛盾した二つの意味内容が入っているのでしょう。ドイツ語とは不思議な言葉ですね。
きっとヘーゲルはこの「アウフヘーベン」という言葉の矛盾したところが大好きで哲学用語に採用したのでしょうね。保持しながら否定する、対立し、矛盾しているもの同士をより高次の段階へと統合する。
とかく世間では不毛な二項対立論争が多いです。不毛な対立を避けるためにも、両者の良いところを持ち寄って第三の選択をしましょうよという意味で、私は好んで使っています。
日本でも日常用語として定着するとよいのになあ、と私は思っています。
でも、役に立たない経済活動をやれというのは一理あるような感じがしますし、現実の経済もそういう方向にあるような感じがします。管理のための管理であるリスクマネジメントとか、各種監査業務とか、各種リサーチ・コンサルティング・講師商売とか、ソフトウェア開発とかの記号を増やしているだけの仕事はまったくもってそれだと思います。何千時間の労働成果も環境を汚すことなく瞬時に消去できる基本的には意味のない労働、これこそ21世紀型の仕事だと思います。まあ、未来は神経症と精神病が蔓延する世界ということですね。あと、歴史的には新しい産業は常に民需ではなく軍需が作ってきたというのがホントのところじゃないでしょうか。
>でも、役に立たない経済活動をやれというのは一理
>あるような感じがしますし
環境への負荷のないサービス業でしたら、それはそれでよいのかも知れませんね。でも資源浪費型の土建公共事業となると話しは別です。枯渇性資源浪費型の公共事業に関しては、再生可能エネルギー振興型で循環型の公共事業に替えねばならない、その意味でディマンドサイドのみならず、サプライサイドの改革も必要だというのがこの記事の趣旨でした。
>あと、歴史的には新しい産業は常に民需ではなく軍
>需が作ってきたというのがホントのところじゃない
>でしょうか。
まあ、有効需要拡大のために政府が予算を付けやすいのは、ナショナリズムを煽って軍事費を増額することですから、これまでの歴史ではどうしてもそうなりがちでした。
新しい時代で、その負の歴史からいかに脱却できるのかは、私たちに課せられた使命だと思います。
財政支出の方向性についてですが
現代社会を見ておりますと、あらゆる産業が発達しすぎ、出尽くし感があるように感じられます。
新しい事業を始めるにしても、大抵は既存のビジネスモデルの範疇に収まってしまいますよね。
このような状況下では、有効活用でき、尚且つ新しい産業と一言で言っても、そうそう見出せるものでもないと思います。
現在の日本で、ほとんど手付かずの産業と言えば、
航空・宇宙・軍事産業(輸出を前提とした)くらいのものでしょうか。
その中で三菱重工やホンダ等が小型ジェット機の開発に取り掛かっておりますが、この分野では日本はロシア機に対抗できないと思います。
また大型機ですと、現在の所、ボーイング等の下請けに過ぎず、この流れから独り立ちできるとはとても思えません。
とすると、航空産業はいくら育成しようとも限界がありますので、消去法でいきますと、宇宙開発・軍需産業の2択となるのではないでしょか。
その場合、宇宙開発(JAXA等の予算増)は本当に有効なのかの疑問も発生するのではないでしょうか。
勿論そこで得られた各種の宇宙開発に絡んだデータは人類全体にとって有益なものではありますが、宇宙開発に携わる労働人口は極々一部にすぎて、景気を底支えするには役不足すぎるのではないでしょうか。
JAXAの人員は僅かに1600人程度ですし。
とすると、残るは輸出を前提とした軍需産業、又は防衛予算の増額に財政支出を、とならざるを得ないのでは?
またアメリカにとっての公共事業は、軍需産業の育成及び軍事支出であると思っております。
日本ではナショナリズムの台頭が、と言われるのでそれができないので、公共事業に金を注ぎ込むしかなかったわけですが・・・。
公共事業は削減、軍事支出の増大はもっとだめ、では積極財政のしようがありませんよね。
他にも、日本を銃器社会として、銃砲メーカーを育成する事もできますが、現実的ではありません。
麻薬を解禁し、麻薬産業を育成するのも同じです。
関氏の代替案とは、具体的にどのような産業をお考えでしょうか。