新年あけましておめでとうございます。雇用情勢は全くめでたくないのですが・・・。しかし今年は苦しい中でも未来に向けた明るい希望の灯がともりますように。そういう願いをこめて、新年のあいさつをしたいと思います。
さて、私がこのブログを始めてから4年が経過しました。このブログを始めた直接の契機は「エコロジカル・ニューディール政策」を宣伝・普及するためでした。当時の私自身は「フリーター研究者」にすぎず、社会的な力は皆無でしたが、ブログで論陣を張っていれば、きっと政策への理解者も現れるのではないかと思って書き始めたのです。当時は小泉構造改革礼賛論一色。一種の社会的狂乱状態の中ではじめた、微々たる抵抗でした。
私ができるのは微細な蝶の羽ばたきにすぎないが、微細な羽ばたきでも「バタフライ効果」を起こすことはできるかも知れない、そう考えて書き続けてきたのです。
道路やダムへの公共事業のみを思考停止的に続ける「日本型土建ケインジアン路線」と、規制緩和・民営化・自由化を信仰するだけの、これまた思考停止的な「市場原理主義的構造改革路線」をアウフヘーベンしなければならない、私はそう宣言してこのブログを始めたものでした。
「エコロジカル・ニューディール政策」とは力石定一先生(法政大学名誉教授、社会工学、経済学)が「日本経済の失われた10年から脱却する方法」として1999年に提唱した概念です。(力石定一・牧衷編集『発想』第1号、季節社:2000年5月刊参照)。力石先生は、ケインズ型の需要サイドに立つ雇用対策事業を重視しつつも、コンドラチェフの長期循環波動の駆動力となるための供給サイドの創造的破壊をも実施せねば、この危機から脱却するのはことはできないと強く主張されました。そして次の50年間のコンドラチェフ波動を生み出すのはクリーン・エネルギーなど環境面での技術革新をおいて他にはない、その供給面の「創造的破壊」を政府の適切な介入によって推進せよと訴えたわけです。つまりケインズとシュンペーターのエコロジカルな統合が必要なのだと。
私は1999年にそれを聞いて目からウロコが落ち、以来、私なりの考えを付加し、盛り込みつつ、その政策の普及と宣伝を行ってきました。
そしてついに昨年9月のリーマン破たんを契機に、あれよあれよという間にエコロジカル・ニューディール的なコンセプトは急速に求心力を得て広まりました。ついにパン・キムン国連事務総長まで「グリーン・ニューディール政策」と言い出し、オバマ次期政権の中でも、米国経済を救うには「グリーン・ニューディールしかない」という認識が共有されています。
私などが何を言っても全く扱ってくれなかった日本のマスコミも、「グリーン・ニューディール」「環境版ニューディール」「新しいニューディール」など、それぞれ言葉を選びつつも、基本的に私どもがこの9年間訴えてきた政策内容を社説などで書くようになったのです。
私が「新古典派の総本山」などと呼んで批判してきた『日本経済新聞』すらがリーマン・ショック以降、たびたび社説でこういう主張をするようになりました。サブプライム・ショック以前は、「なぜこんな単純な理屈を日本のマスコミは理解できないのだろう」などと、ブログ上でもたびたび愚痴って参りましたが、この数カ月の急速な世論の変化はまさに隔世の感があります。複雑系のシステム変化はこういう急激なものなのです。
まさに「エコロジカル・ニューディール10年目の勝利」という感じがいたします。力石先生と先日電話でお話ししたところ、「やっぱり一つの政策を提唱してから理解されるまでには10年かかるね」とおっしゃっていました。でも、この期に及んでも力石先生への取材などは何もないそうです。やれやれ。何で日本のマスコミは、ホンモノの知識人とニセモノの知識人を見分けることもできないのか…。
私は、いわゆる「複雑系」の実証的研究も行っています。複雑系の最重要な特質とは、システムが臨界状態にあるとき、微細な逸脱が正のフィードバック効果によって増幅し、システムの旧い構造が崩壊して、新しい構造が生成するという点にあります。微細な蝶の羽ばたき程度でも、それを起こすことが可能である。これが「バタフライ効果」です。そして、複雑系の研究でいちばん面白いのは、自らが微細な蝶となって羽ばたき、バタフライを起こす側として社会の中の実践にたずさわりつつ、その効果を参与観察することでしょう。そう考えて、蝶の羽ばたき程度であっても、地道にエコロジカル・ニューディール政策を訴え続けてまいりました。
しかし、やはりシステムが臨界状態にならないと新しい構造の生成は起こりにくいということも実感しました。米国発金融恐慌の事態に至るまで、こうした主張が国際世論で求心力を得て広がることはなかったのです。
日本に関していえば、1992年以降は慢性的に危機なのだから、もっと早くこちらの方向へ舵を切っていてもおかしくなかった。しかし残念ながら日本のマスコミの知性の低さも手伝って、こうした世論が求心力を得ることはなかったのです。
私のような在野のフリーター人間が言っても理解しないが、米国で言われ始めたとたん、急激にそっちに飛びつくのですから……。結局、彼らは知性で理解しているのではない。権威があるかないかに判断を任せているのです…。
私は一応研究者ですが、本職は熱帯林の保全策であり、途上国の森林再生策の研究なので、経済学で論文を書こうなどというインセンティブはありません。このブログは基本的に本職以外で、一納税者としてこれだけは言いたいという雑多な政策提案を書きつづったものです。本職に関するさまざまなアイディアは、著作権とか学問上のプライオリティというものを非常に大事にせなばなりませんが、こちらに書くことは研究者としてではなく、一納税者としての提案にすぎません。すべてパテント・フリーです。「誰かエライ学者や政治家が、このブログの主張をパクッて広めてくれないかなー」と願いながら必死に書き続けてきたのでした。
リーマン・ショック以降というもの、あれよあれよという間に、巷の新聞や雑誌などでも、私が書いてきたような主張が急速に拡散し始めました。まさに時代の変わり目の「バタフライ効果」というものを実感した次第です。
月刊誌の『世界』2009年1月号では、金子勝氏とアンドリュー・デウィット氏が「グリーン・ニューディール -オバマの目指す環境エネルギー革命」という記事を載せて次のように書いています。
「素朴なケインズ主義も賞味期限が切れてきている。…(中略)…
オバマのグリーン・ニューディールは、既存の経済思想から出たものではなく…… それは『隠れたシュンペーター・ビジョン』と言えるかもしれない。あるいは、本来対立的要素を持つシュンペーター・ビジョンとケインズ主義を融合させたものと考えてよい」と。
このように、ケインズとシュンペーターの統合ビジョンは確実に広まり始めました。しかし、蛇足の愚痴を言わせていただければ、私は7年ほど前に岩波の『世界』の編集部に、力石先生や私が書いたものを送りつつ、「『世界』の『新自由主義』に対する批判よいと思いますが、批判ばかりで代替案がありません。いま論壇誌として必要なのは力石氏の提起するエコロジカル・ニューディールのような戦略的代替案のビジョンの提示です。そうした記事が必要です」と手紙で訴えたことがありました。でも何の返信もなし。なしのつぶてでした。基本的に岩波のような左翼権威主義は、当時の私のようなフリーターが何を言っても無視なのでしょう。あのとき彼らが反応していれば、7年も前にそういうビジョンを記事にできていたのでしょうけどね・・・。ちなみに私が日本の左翼をキライだというのは、彼らがすごく権威主義的だという理由が大きいのです。(もっとも日本は右翼も権威主義的ですが)
さて、『毎日新聞』の今年の元旦の社説は、「日本版『緑のニューディール』を」でした。この社説の中では、学校の屋上への太陽光発電パネルの設置案など、このブログで書いてきたこととも同じ内容の主張をしてくれています。
しかし愚痴らせていただきますと、小泉政権の当時、毎日新聞が社説で「バラまき反対。国債発行を減らせ。郵政は民営化だ」と威勢よくアジっていた頃、私は毎日新聞の論説室に何回かメールを出して、「波及効果がある環境面への公共投資なら赤字国債を出してもよいのです。波及効果が高ければ、財政赤字は膨らまないのです」と書きつつ、その事例として学校の屋上への太陽光発電パネルの設置案や間伐材のエネルギー利用など、このブログで書いてきたような主張を書き送ったものでした。でも、なしのつぶて。何の反応もありませんでしたっけ。アメリカで先に言われてから今更書き始めたって情けないとは思わないのでしょうか。
あの頃の毎日新聞は(というかリーマン・ショック前まで)、頑迷なまでに「バラマキ反対」路線でしたが、今年の元旦の社説では「必要な財政出動をためらってはならない」と豹変しておりました。小泉内閣の当時だって、「必要な財政出動はためらってはいけない」状況だったのですよ。結局、米国の世論の様子見だから、海外の権威が何を言うかに判断を委ねているから、そういうチグハグな主張になってしまうのです。
小泉内閣の7ー8年前は緊縮財政が正しく、今は恐慌だから積極財政が正しいなどという詭弁は通りません。
アメリカにしたって、本当は2001年のITバブル崩壊の直後に、政府の公共投資をテコに民間投資を環境分野に誘導するというグリーン・ニューディールの戦略に方向転換できていれば、こんな惨めな事態にはならなかったのです。それなのに政府資金は侵略戦争へ、民間投資は住宅バブルへという、最悪の形態でITバブルを乗り切ろうとした。それで世界恐慌の事態にまでなってしまいました。8年前にこの政策を発動すべきだったのです。
というわけで、私としては愚痴を言いたことも多いのですが、エコロジカル・ニューディールの宣伝という、このブログに課した使命は、曲がりなりにも一応は達しました。もう私などが何も書かなくても、この政策は勝手に広まるでしょう。この問題は放置してもよさそうです。あまり私がこの話題に傾倒することはなくなるでしょう。
自由貿易批判と貿易政策のオルタナティブの提示に関しては、まだまだせねばならないことが膨大にあるので、これは書き続けます。新古典派批判やマルクス批判も続けるでしょう。廃県置藩論、脱米、東アジア共同体などに関してもまだ書くことは多そうです。
というわけで、話題の重点は若干シフトしつつも、今後もブログを続けますのでよろしくお願い申し上げます。
さて、私がこのブログを始めてから4年が経過しました。このブログを始めた直接の契機は「エコロジカル・ニューディール政策」を宣伝・普及するためでした。当時の私自身は「フリーター研究者」にすぎず、社会的な力は皆無でしたが、ブログで論陣を張っていれば、きっと政策への理解者も現れるのではないかと思って書き始めたのです。当時は小泉構造改革礼賛論一色。一種の社会的狂乱状態の中ではじめた、微々たる抵抗でした。
私ができるのは微細な蝶の羽ばたきにすぎないが、微細な羽ばたきでも「バタフライ効果」を起こすことはできるかも知れない、そう考えて書き続けてきたのです。
道路やダムへの公共事業のみを思考停止的に続ける「日本型土建ケインジアン路線」と、規制緩和・民営化・自由化を信仰するだけの、これまた思考停止的な「市場原理主義的構造改革路線」をアウフヘーベンしなければならない、私はそう宣言してこのブログを始めたものでした。
「エコロジカル・ニューディール政策」とは力石定一先生(法政大学名誉教授、社会工学、経済学)が「日本経済の失われた10年から脱却する方法」として1999年に提唱した概念です。(力石定一・牧衷編集『発想』第1号、季節社:2000年5月刊参照)。力石先生は、ケインズ型の需要サイドに立つ雇用対策事業を重視しつつも、コンドラチェフの長期循環波動の駆動力となるための供給サイドの創造的破壊をも実施せねば、この危機から脱却するのはことはできないと強く主張されました。そして次の50年間のコンドラチェフ波動を生み出すのはクリーン・エネルギーなど環境面での技術革新をおいて他にはない、その供給面の「創造的破壊」を政府の適切な介入によって推進せよと訴えたわけです。つまりケインズとシュンペーターのエコロジカルな統合が必要なのだと。
私は1999年にそれを聞いて目からウロコが落ち、以来、私なりの考えを付加し、盛り込みつつ、その政策の普及と宣伝を行ってきました。
そしてついに昨年9月のリーマン破たんを契機に、あれよあれよという間にエコロジカル・ニューディール的なコンセプトは急速に求心力を得て広まりました。ついにパン・キムン国連事務総長まで「グリーン・ニューディール政策」と言い出し、オバマ次期政権の中でも、米国経済を救うには「グリーン・ニューディールしかない」という認識が共有されています。
私などが何を言っても全く扱ってくれなかった日本のマスコミも、「グリーン・ニューディール」「環境版ニューディール」「新しいニューディール」など、それぞれ言葉を選びつつも、基本的に私どもがこの9年間訴えてきた政策内容を社説などで書くようになったのです。
私が「新古典派の総本山」などと呼んで批判してきた『日本経済新聞』すらがリーマン・ショック以降、たびたび社説でこういう主張をするようになりました。サブプライム・ショック以前は、「なぜこんな単純な理屈を日本のマスコミは理解できないのだろう」などと、ブログ上でもたびたび愚痴って参りましたが、この数カ月の急速な世論の変化はまさに隔世の感があります。複雑系のシステム変化はこういう急激なものなのです。
まさに「エコロジカル・ニューディール10年目の勝利」という感じがいたします。力石先生と先日電話でお話ししたところ、「やっぱり一つの政策を提唱してから理解されるまでには10年かかるね」とおっしゃっていました。でも、この期に及んでも力石先生への取材などは何もないそうです。やれやれ。何で日本のマスコミは、ホンモノの知識人とニセモノの知識人を見分けることもできないのか…。
私は、いわゆる「複雑系」の実証的研究も行っています。複雑系の最重要な特質とは、システムが臨界状態にあるとき、微細な逸脱が正のフィードバック効果によって増幅し、システムの旧い構造が崩壊して、新しい構造が生成するという点にあります。微細な蝶の羽ばたき程度でも、それを起こすことが可能である。これが「バタフライ効果」です。そして、複雑系の研究でいちばん面白いのは、自らが微細な蝶となって羽ばたき、バタフライを起こす側として社会の中の実践にたずさわりつつ、その効果を参与観察することでしょう。そう考えて、蝶の羽ばたき程度であっても、地道にエコロジカル・ニューディール政策を訴え続けてまいりました。
しかし、やはりシステムが臨界状態にならないと新しい構造の生成は起こりにくいということも実感しました。米国発金融恐慌の事態に至るまで、こうした主張が国際世論で求心力を得て広がることはなかったのです。
日本に関していえば、1992年以降は慢性的に危機なのだから、もっと早くこちらの方向へ舵を切っていてもおかしくなかった。しかし残念ながら日本のマスコミの知性の低さも手伝って、こうした世論が求心力を得ることはなかったのです。
私のような在野のフリーター人間が言っても理解しないが、米国で言われ始めたとたん、急激にそっちに飛びつくのですから……。結局、彼らは知性で理解しているのではない。権威があるかないかに判断を任せているのです…。
私は一応研究者ですが、本職は熱帯林の保全策であり、途上国の森林再生策の研究なので、経済学で論文を書こうなどというインセンティブはありません。このブログは基本的に本職以外で、一納税者としてこれだけは言いたいという雑多な政策提案を書きつづったものです。本職に関するさまざまなアイディアは、著作権とか学問上のプライオリティというものを非常に大事にせなばなりませんが、こちらに書くことは研究者としてではなく、一納税者としての提案にすぎません。すべてパテント・フリーです。「誰かエライ学者や政治家が、このブログの主張をパクッて広めてくれないかなー」と願いながら必死に書き続けてきたのでした。
リーマン・ショック以降というもの、あれよあれよという間に、巷の新聞や雑誌などでも、私が書いてきたような主張が急速に拡散し始めました。まさに時代の変わり目の「バタフライ効果」というものを実感した次第です。
月刊誌の『世界』2009年1月号では、金子勝氏とアンドリュー・デウィット氏が「グリーン・ニューディール -オバマの目指す環境エネルギー革命」という記事を載せて次のように書いています。
「素朴なケインズ主義も賞味期限が切れてきている。…(中略)…
オバマのグリーン・ニューディールは、既存の経済思想から出たものではなく…… それは『隠れたシュンペーター・ビジョン』と言えるかもしれない。あるいは、本来対立的要素を持つシュンペーター・ビジョンとケインズ主義を融合させたものと考えてよい」と。
このように、ケインズとシュンペーターの統合ビジョンは確実に広まり始めました。しかし、蛇足の愚痴を言わせていただければ、私は7年ほど前に岩波の『世界』の編集部に、力石先生や私が書いたものを送りつつ、「『世界』の『新自由主義』に対する批判よいと思いますが、批判ばかりで代替案がありません。いま論壇誌として必要なのは力石氏の提起するエコロジカル・ニューディールのような戦略的代替案のビジョンの提示です。そうした記事が必要です」と手紙で訴えたことがありました。でも何の返信もなし。なしのつぶてでした。基本的に岩波のような左翼権威主義は、当時の私のようなフリーターが何を言っても無視なのでしょう。あのとき彼らが反応していれば、7年も前にそういうビジョンを記事にできていたのでしょうけどね・・・。ちなみに私が日本の左翼をキライだというのは、彼らがすごく権威主義的だという理由が大きいのです。(もっとも日本は右翼も権威主義的ですが)
さて、『毎日新聞』の今年の元旦の社説は、「日本版『緑のニューディール』を」でした。この社説の中では、学校の屋上への太陽光発電パネルの設置案など、このブログで書いてきたこととも同じ内容の主張をしてくれています。
しかし愚痴らせていただきますと、小泉政権の当時、毎日新聞が社説で「バラまき反対。国債発行を減らせ。郵政は民営化だ」と威勢よくアジっていた頃、私は毎日新聞の論説室に何回かメールを出して、「波及効果がある環境面への公共投資なら赤字国債を出してもよいのです。波及効果が高ければ、財政赤字は膨らまないのです」と書きつつ、その事例として学校の屋上への太陽光発電パネルの設置案や間伐材のエネルギー利用など、このブログで書いてきたような主張を書き送ったものでした。でも、なしのつぶて。何の反応もありませんでしたっけ。アメリカで先に言われてから今更書き始めたって情けないとは思わないのでしょうか。
あの頃の毎日新聞は(というかリーマン・ショック前まで)、頑迷なまでに「バラマキ反対」路線でしたが、今年の元旦の社説では「必要な財政出動をためらってはならない」と豹変しておりました。小泉内閣の当時だって、「必要な財政出動はためらってはいけない」状況だったのですよ。結局、米国の世論の様子見だから、海外の権威が何を言うかに判断を委ねているから、そういうチグハグな主張になってしまうのです。
小泉内閣の7ー8年前は緊縮財政が正しく、今は恐慌だから積極財政が正しいなどという詭弁は通りません。
アメリカにしたって、本当は2001年のITバブル崩壊の直後に、政府の公共投資をテコに民間投資を環境分野に誘導するというグリーン・ニューディールの戦略に方向転換できていれば、こんな惨めな事態にはならなかったのです。それなのに政府資金は侵略戦争へ、民間投資は住宅バブルへという、最悪の形態でITバブルを乗り切ろうとした。それで世界恐慌の事態にまでなってしまいました。8年前にこの政策を発動すべきだったのです。
というわけで、私としては愚痴を言いたことも多いのですが、エコロジカル・ニューディールの宣伝という、このブログに課した使命は、曲がりなりにも一応は達しました。もう私などが何も書かなくても、この政策は勝手に広まるでしょう。この問題は放置してもよさそうです。あまり私がこの話題に傾倒することはなくなるでしょう。
自由貿易批判と貿易政策のオルタナティブの提示に関しては、まだまだせねばならないことが膨大にあるので、これは書き続けます。新古典派批判やマルクス批判も続けるでしょう。廃県置藩論、脱米、東アジア共同体などに関してもまだ書くことは多そうです。
というわけで、話題の重点は若干シフトしつつも、今後もブログを続けますのでよろしくお願い申し上げます。
農協という巨大組織の再生が必要なように思います。まあ、昔から足引っ張ってるだけだという批判はありますし、私もそういうことは何度もいってきましたが、それでもこの組織の貴重さは、それが存在しない地域(タイなど)での農民の組織化の困難さを考えると認めざるを得ません。
組織内に入り込んでる知人も居るので、農協を活性化できそうなネタがあれば面白いと思うのですが。
関様の兼業農家の話を読んでふと思ったのは「田中角栄」です。彼は日本列島改造論を掲げ道路を中心とした公共工事を盛んに行いました。その結果、地方にも工場が建設され出稼ぎ労働者が兼業農家になっていたのではないかとふと思いました。彼は池田首相が行った所得倍増政策の発展を考えたのではないでしょうか。その意味では田中角栄は大変評価できるのかも知れないなと思いました。実際、彼は面倒見のよい人を大切にする人であったと聞きます。また池田首相は「『はたらく』とは『はたをらくにする』ことだと述べたそうです。当時の自民党は基本的に健全な政党であったのかも知れません。新自由主義が主流になった現在、はたらくとは「一部の人にとっては多くの冨を得ること」であり、多くの人にとっては「明日の糧を得る手段」となってしまいました。
今、第2の田中角栄が出て首相になればどんな政治を行ったか考えてしまいます。今の標準から見れば仮名左に寄った政策を進めたと思います。その角栄氏の娘が小泉政権の生みの母となったのは歴史の皮肉さを思わせます。草葉の陰でどう思っているでしょうか。
私は基本的にサヨク的傾向の強い人間ですがそれでも田中氏や大平氏、小渕氏などは何か親しみを感じさせます。特に大平氏や小渕氏が病で倒れなかったらこんなことにならなかったと思います。
話は突然変わりますが、グリーン・市場原理主義に対抗して従業員が株主である株式会社を立ち上げ、循環型農業を行うのうはどうでしょうか。経営が軌道に乗れば農地を個人に払い下げて将来的には自営の専業農家となる。そうなると株式会社は循環の要の役割と流通の仕事を担う。また新たに営農希望者を雇用し自立するまで社員として雇用する。
江戸時代にあったのれん分け的な株式会社を立ち上げれば、市場原理の法則から考えても企業戦争で勝利すると思うのですが、いかがでしょうか。
今は残念ながら市場原理主義のルールで勝負しなければならない以上、そのルールに則った戦いを進めるべきだと思います。そのためにも市場原理主義からみても彼らに対抗できるビジネスモデルを打ち立てることだと思います。
私など最悪なことに、猪瀬と同郷です。ああ、恥ずかしい・・・・。信州は、飯島勲と猪瀬直樹という小泉改革に奉仕した二大巨頭を生み出してしまいました。全国の皆様、ご迷惑をおかけしました。本当に申し訳ございません。
私は、信州人の良心の名にかけて、猪瀬は絶対に許すことができません。
人間のライフサイクルとしても、社会の安定の観点からも兼業農家は理想的だと思います。お父さんはサラリーマンで、農地はお母さんとお爺ちゃん、お婆ちゃんが支える。さらにお父さんが定年すれば、帰農する。
兼業農家のみならず、全市民が家庭菜園を持てば、老人のボケ防止につながり、結果として国の医療費はすごく削減できることでしょう。
ロシア人が、ソ連崩壊後の経済苦境にあっても、なんとかギリギリのところで生活を維持できたのは、ほとんどの市民が郊外にダーチャという家庭菜園を持っていたからだとも言われています。ロシア人は、ソ連時代から週末はダーチャで過ごしつつ自給分の食糧くらいは生産するという、ゆとりのあるライフ・スタイルを持っていました。国家が崩壊する未曽有の苦境の中にあっても、ダーチャがあったことにより家庭生活の崩壊までは回避できたのです。
兼業の持つ、そうした社会と人間生活の安定機能を、猪瀬や田原は全く理解できないようです。
>具体的に理想とするグリーンニューディール政策を訴えていっていただければ嬉しく思います。
了解しました。猪瀬や田原の策謀、「グリーン」の名を冠しつつ、財界の利益にのみ奉仕し、さらに大量の報われることのないプレカリアートたちを生み出す農業分野での企業経営の自由化を推し進めようという、つまり資本主義による人間破壊、コミュニティ破壊、自然生態系破壊、文化破壊を究極的に推し進めようという暴挙は絶対に許すことができません。
マイケル・ゴールドマン著『グリーン・ネオリベラリズム』(京都大学出版会)という本があります。その本では、1990年代後半からの世界銀行が表向きは「グリーンな貧困削減」を掲げて、環境重視のポーズを見せてNGOなどを取り込みつつ、その内実は実際にはウォール街の欲する「ネオリベラル」な価値観を貫徹しようとしたことを暴露する本でした。
猪瀬や田原の言説もまさに同じことで、市場原理主義の評判が悪くなってきたので、「グリーン」とか「ニューディール」とか「雇用創出」とか言い繕うことによって、その市場原理主義の策謀をオブラートに包もうとしているだけです。
竹中や田原などが「失業率を下げる」となどという言説のオブラートに包んで推進してきた派遣の自由化などによって、すでに私たちはこれだけ痛い目にあってきました。もうこれ以上騙されるほど日本人は愚かではないということを見せてやりましょう。
世間でよく言われている社民党没落の原因は「村山政権で安保容認、自衛隊合憲を認めたからだ」ですが、それは違うと常々思っています。もちろんその影響は少なくないでしょうが、従来から社会党を支持している層の多くは「自衛隊縮小解体」とか「安保解消」など幻想であることを認めていたと思いますし、議院の多くも心内では思っていたと思います。だから国対政治による自社なれ合い政治がまかり通っていたと思います。政府にとっても社会党が反米・平和を唱えてくれる方が米国からの要求をかわす道具ともなり、国益にもかなっていたと思います。
その社会党が細川連立内閣で元祖市場原理主義者の小沢の強引な手法で米の輸入自由化を呑まされたのが社会党の致命的な没落のきっかけとなったと思います。当時、これに賛成するかどうかを社会党で議論されていたとき、多くの農業関係者が社会党本部前で「社会党がんばれ」と連呼しました。しかしその声も届かず社会党はこれを賛成してしまった。その結果、社民主義が市場原理主義の軍門に下ってしまった瞬間だったのです。
あのとき、社会党は輸入自由化を受け入れるにしても農家への収入を減らさないような政策(例えば所得補填など)代替案として提示すべきでした。国防に関わる政策変更は社民主義の理念とは直接関係はしませんが、当時の自民党の政策を超える市場原理主義を受け入れたことは致命的な失敗だと思います。
従って社民党が再生するには、まずあの当時の失敗を総括し、間違いを認めることからはじめなければならないと思います。
現在、元祖市場原理主義者である小沢氏は農家の所得補填を言っています。変な話ですが評価できると思います。彼が宗旨替えしたのなら歓迎ですが、多分政局からきた政策でしょう。私はそれよりも所得補填を生産された作物につけるべきだと思います。例えばキュウリ1本に100円(高いかなw)を支給とかです。それによって生産者は生産意欲が湧くでしょう。余れば長期保存できる加工するとか色々な工夫が必要となるでしょうし、至上がそっぽを向かない程度の計画生産も
必要となるでしょう。また補填額は中小規模農家に手厚くするようにし、大規模なところには段階的に補填額を減少させるようにして、多様な農業形態ができるようするべきだと思います。
関様の言う保護貿易は理想ですが、国際的な摩擦を引き起こす可能性が高く実現するには多くの困難が予想されます。それよりもヨーロッパや米国で行っている補填の方が可能性は高くなると思います。ただそれでも困難な外交は要求されると思います。その外交を容易にするためにも昔の社会党のようなある程度大きな抵抗政党が必要だと思います。本気で政権をねらう民主党ではその役割は果たせないでしょう。つまり第3極が必要だと思います。共産党はその地位をねらっているのでしょうが原理政党の殻を破らない限り不可能でしょう。社民党の復活が望まれます。
ところで、今過激な「市場原理『至上』主義がその地位をねらっているようです。江田氏が進める脱藩官僚の会や渡辺氏や中川秀直氏らです。それは最悪のシナリオです。
田原氏と同郷の者として、彼のワカッテイナイ発言におわび申し上げます。
そもそも、日本史上で専業農家がどの程度持続しえたのでしょうか?網野史学を引くまでもなく、多くは兼業し家計の気象的なリスクを平準化してきたのが実体のはずです。
このような悪しき「専業化(そして大規模化)」が農業に限らず、経済活動をイビツにしてきた歴史を、近代産業に見る気がします。専業化で効率を上げたつもりが、その事業がポシャッた瞬間、破綻(そこに公的な救済を入れて……)を何度も繰り返してますし(苦笑)
だから、今回のグリーンニューディールも、雑食性であって欲しいと願うものです。
政策的に何かをやる!と宣言したときに、一番怖れるべきことは、全員がわーっとそっちに行ってしまうこと(田原氏が本当にいい例。彼はそういうお調子者なところがあります。ITバブルの時といい……)。
としますと、私の今年からの役割は適切なブレーキというところでしょうか。
というところで今後ともよろしくお願いします。
(追記、まことに勝手ながら、この場をお借りし、
「祝・日本での地熱発電開発再開」
田原氏の発言は為政者側の意図を代弁していると私は思っています。その意味で田原氏の発言を注視することは大切だと思っています。
朝生では猪瀬氏も参加していましたが、ご存じのように彼は小泉-竹中改革の旗振り役の一人です。彼は討論の中で次の3つの主張をしていました。
①派遣労働者をはじめとする非正規労働者が貧困から脱出するには目的意識を持つ必要がある。
②太陽光発電を国を挙げて推進していくべきだ。
③第2の農地改革が必要である。
①の発言は麻生首相のハローワークの発言とつながります。両者は政策面(特に行政改革について)で対立関係にあると思われますが、ワーキングプアに対する認識は一致しています。つまり権力の側はワーキングプア層に対してあくまで個人責任の範疇にあると捉えていることです。
②については特に反対すべき事項はありませんが、私は太陽電池による発電について多少の疑問を持っています。それは太陽電池を生産するに必要なエネルギー総量と半導体を純化するために使われる洗浄物質(昔はフロンを用いていたと思うのですが)が与える環境負荷は果たして太陽電池が耐用限度までに発電する量に比べてどうなのかと言う点です。私は太陽電池はいわばエントロピーを逆転させた物質ではないかという疑問を持っていますので、それほどうまくいかないのではないという疑問があります。もし仮にそれほど見合ったものでなければ、大規模な発電装置を設置することは考え直した方がよいと思います。ただそれでも太陽電池は一種の蓄電池だととらえることができますので、小規模にあらゆるところで使われるようにすることは大事だと思います。最近ではソーラー発電できるペンキまで開発されようとしているようですね。
グリーンエネルギーならやはり風力発電とか波力発電、地熱発電を中心にする方がよいと思うのですが。
それとビルの屋上に太陽電池パネルを設置するより緑を植える方が本来的だと思うのですが。
③については市場原理主義の観点から改革するとろくなことにならないと思います。彼らの目指す農地改革は以前の大地主と小作人の体制に戻すことだと思います。ただこの大地主は株式会社になるということです。すると利益が最優先されるから高付加価値を持った作物か遺伝子組み換え作物で大量生産を図るかのどちらかになってしまいます。所謂グリーン・ニューディールの名を借りて実態はグリーン・市場原理主義だと見て間違いないと思います。すでに1月には法改正の動きのようです(朝生で公明党の高木氏が言っていました)。その意味で関様の主張とは正反対のことが進められようとしていると思います。
農林中金は米国の金融商品をかなり買い込んでいて総統の評価差損が生じたと言われています。おそらく国の支援が行われるでしょうが、そのときグリーン・市場原理主義を進めるため、マスコミを使った批判が行われるでしょう。今彼らにとって一番じゃまなのは農協だと思います。農林中金にとって幸いしたのは新銀行東京の乱脈経営があり、朝生では指摘されなかったのだと推測しています。
猪瀬氏は東京でもネットカフェ難民対策をしていると述べていました。石原氏は国の責任を押しつけられていると憤慨して言っていますが、新銀行東京のことや築地市場の移転など無駄金を使いまくるなど、厚顔無恥も甚だしいです。石原氏には声を大にして言いたい。何事も人のせいにせず侍らしくされたらどうですか。古き良き日本人の美徳を思い出してください。と。
ところで築地市場の移転先には小規模の仲買業者は排除され、かつ外資が入って運営権も手にするという話を聞きました。これが本当なら彼の用語を使うと売国・非国民政治家となります。
ひょっとするとこの不況は日本の農林水産業の大危機になる可能性があります。
関様が今後、具体的に理想とするグリーンニューディール政策を訴えていっていただければ嬉しく思います。
田原の妄言・暴言は相変わらずトンデモないですね~。新年早々ため息です。私は彼の妄言を聞くのは、体と心に悪いという理由で、朝ナマは全く見なくなりましたのでその妄言・暴言を知りませんでした。見ていたらさぞかし不快な新年を迎えていたことでしょう。
私はアメリカで必要なニューディールとして、農地改革を実行して大企業農園を解体し、小規模家族農業を復活させよと訴えています。つまり本来のニューディールの観点からは田原の主張とは全く逆で、小規模自営農業を重視せねばなりません。だからアメリカの占領軍の中にいたニューディール派は、日本での農地改革にあれほどこだわったのです。
農業の法人経営など野放しにしたら、日本の地域社会と基層的文化が完全に壊滅するでしょう。
だいたい、ケインズの「ケ」の字も知らないアホ田原が、アメリカでニューディールと言われ始め途端に「ニューディールだ」って、笑っちゃいますね。いままでさんざん市場原理主義をあおってきたくせに。
企業経営を認めるにしても、既存の優良農家の土地を買い占めることのないよう、条件不利の中山間地に広がる耕作放棄地のみに限定するという路線を守るべきだと思います。
もっともそうした条件不利地は企業にとって収益性のない土地になりますから、資本制農業はそもそも成立しにくいはず。となれば残る方法は一つ。国が公社をつくって、失職した人々を公務員として迎え、耕作放棄地での農業生産をすることだと思います。
もちろん、既存の小規模家族農業を害さない範囲で、耕作放棄地に限定して。
先日放映されたTV朝日の朝まで生テレビでも取り上げられました。居酒屋チェーン店をを中心に介護、農業へとビジネスを展開するワタミ社長が株式会社が農業に参入できない問題を訴えていました。そして規制緩和で株式会社が農業に参入できれば大きな雇用も生み出され、貧困問題解決の一助ともなる。農産物は輸出もできると強調していました。それにあわせて猪瀬氏が第2次農地改革が必要だと述べ、田原氏が自民党の大村氏になぜできないんだと突っ込んでいました。ワタミ社長は別にしてあの小泉-竹中改革を支持した田原氏や猪瀬氏までが推奨するグリーンニューディール政策には胡散臭さがつきまといとても静観できるものではないと思います。
田原氏はさらに首都圏青年ユニオン書記長の川添氏(農業系大学院中退)に対しても同意を求める質問を投げかけましたが、川添氏は経済効率だけになってしまうのではないかというような疑問を述べるとと田原氏は「あんたは株式会社そのものに反対だから」と断じました。それを見かねた大村氏が川添氏の発言を補完するように「一定のいい条件の場所しか成立しないと彼は言いたいのだ」と発言すると、田原氏が目をむいて大村氏に「あんたのような者とは話したくない」とまで発言しました。おそらく小泉-竹中を支持する勢力は農業のグローバル化をグリーン・ニューディールというオブラートをかぶせているのではないかとうがった見方をしています。グリーン・ニューディール政策が外資の導入を招き、気がついたら至る所に遺伝子組み換え農作物が広がっているというとんでもない事態になった。ということも考えられないことにもなりかねません。おそらく田原氏は農業のグローバル化がこれからの政治の目玉だと結論づけようとねらったのではないかと思います。味方であると思っていた大村氏に裏切られた思いをしたのではないかと感じました。
すなわちグリーン・ニューディール→農業のグローバル化→外資の進出というシナリオが感じられるのですが、どうでしょうか?私は政・官・業の主導のグリーンニューディールは日本の第2の破壊になってしまうのではないかと危惧します。いっそうの監視が必要だと思います。
その根拠は田原氏の様々な暴言から推測できます。たとえば農家所得補填兼業について「あんなもの(兼業農家)に金をやるなんて間違っている」と述べ、景気回復については「日本の景気は内需ではだめだ、外需が必要だ」と断言し、他からの発言を封じました。これをつなぎ合わせると、田原氏が構想するグリーンニューディールは大規模集約農業であり、生産物は輸出に振り向けるというものです。まさしく政・官・業の意図が透けて見えます。田原氏の発言は単なる1言論人の発言ではありません。背後にはこれらの権力が控えているはずです。繰り返しますが日本版グリーン・ニューディール政策は郵政民営化に匹敵する悪政になる可能性が考えられます。その意味で関様が「この問題は放置してもよさそうです」には同意できません。今後も発言をしていただきたいと思います。
朝生の主テーマは貧困問題ですが、田原氏は派遣切りについても「昔の日本は恥の文化があった」といかにも本人に責任があるかのような暴言をしました。しかもそれは農業問題の議論の直後でした。彼は「農業は大変だから」と結んでいたので、明らかにフリーターの人たちには勤労意欲がなく自己責任の問題だと言わんばかりでした。湯浅氏がこれに対して的確な反論をしていて、田原氏は急に問題を福祉政策が大事だと話を切り返しました。表情から明らかに狼狽している様子がうかがえました。ちなみに大村氏まで反論していたのには笑えました(田原氏は顔色を変えていましたが)
あと聞き捨てならないのは兼業農家に対して「あんなもの」と発言したことです。兼業農家の起源に出稼ぎ労働者が含まれていると知らないのでしょうか?専業では食えないからやむなく兼業をやっている人たちも多くいるはずです。確かに副業として農業をやっている人たちも少なからずいるのも確かで、この人達に対して補填するのは議論が必要なのはわかりますが、しかしそれでも日本の自然を守り食を提供していただいているのです。田原氏自身、食に対する感謝の念がなく、日本の古き良き心が失われていると思いました。
彼の傲岸な発言に対して農家の人はこれに怒りの声をあげるべきだと思います。
田原氏の問題発言はもう一つあります。彼は「輸出を増やさないと景気が回復しない」と言うことです。私は以前に日本は加工貿易立国であると言っていますが、これ以上輸出を増やすのではなく輸出で得た資本を元に内需を増やすべきだと思います。実際外需で得た資本の多くは再び米国に流れ700兆円に及ぶ資本が米国に眠っています。田原氏の言うように工業製品だけでなく農産物まで輸出し、肝心の国民には何も行き渡らないというのは本末転倒です。関様の言う保護貿易主義には賛否両論があると思いますが、一定の保護貿易は絶対必要です。限界集落が広がり、食糧自給率が低い今の現状は明らかに行き過ぎているとこと示しています。田原氏はいったいどこを向いて政治を語っているのかわかりません。小渕時代まで問題はありましたが権力者も同じ良心の土俵で議論できましたが、小泉以降この土俵がなくなったように思えます。