代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

真田丸 第26回~29回まとめて感想

2016年07月26日 | 真田戦記 その深層
 この間あまりにも多忙だったためにブログを放置させていただきました。まったく記事を書けず、コメントへの返信もできずに申し訳ございませんでした。とりあえずブログを放置していた間の真田丸(第26~29回)の感想を、まとめて書いておきます。ついこのあいだ始まったばかりと思っていたら、もう29回。月日が経つのは早いものです。

★秀次の娘隆清院は本当に信繁の側室だったのか問題

 真田信繁の側室と伝わる関白秀次の娘・隆清院がドラマに登場するのか否かは、今作の一つの見どころでした。ドラマでは史上初めて隆清院(ドラマ名たか)が登場し、真田信繁の側室になるというエピソードも描かれました。
 視聴者のあいだでは、秀次の娘が信繁の側室になったという話はあり得ない、同時代史料にもないので、どうせ江戸時代につくられた創作話だろう・・・という議論も出ています。時代考証の黒田基樹さんも、HPでこの話をそのまま信じるわけにはいかないと書いておられました。
 しかし、出羽亀田城主岩城宣隆の側室(継室)は真田信繁の娘と伝わる御田の方であったことは事実であり、御田の方の母は秀次の娘と伝わっていることも事実です。生前の御田の方からしてみれば、真田信繁も豊臣秀次も罪人なので、両人が父と祖父だったとして、彼女が生きた当時において、その名をおおっぴろげに公言できたとは思えません。ごく親しい近親者にのみ話し、同時代史料には書かれず、伝承でしか伝わらなかったとしても無理はないでしょう。同じく真田信繁の子供がかくまわれた伊達家家老の片倉家でも、事情は同様でしたから。

 身分の違いもあるので、信繁が隆清院を正妻ではなく側室にしたというのもあり得ない、という意見も出ています。しかし、側室になったのが秀吉の生前ではなく、後年に信繁が九度山に蟄居していた頃であったのなら、十分にあり得る話だと思います。秀次の切腹当時、隆清院がまだ子供で、運よく処刑をまのがれていたとすれば、その後は罪人の娘として世間の目をはばかって生きていたはずです。九度山に流されていた真田信繁も罪人ですから、世間の目をはばかる罪人と罪人の娘同士、以前の身分の差など関係なく、互いに心を寄せ合ったとしても全くおかしくありません。

 信繁と隆清院の物語は、いまのところ真とも儀とも断定できないロマンのある話ということで、今後の研究課題ということだと思います。 
 このロマンのある伝説をもとに、どのような脚本を書くのかは、まさに脚本家冥利に尽きるところだったと思います。まさか、この話と絡めて呂宋助左衛門を登場させるとは・・・・。往年の大河ファンは感涙ものだったことでしょう。私はといえば、初めて視聴した大河は「おんな太閤記」だったもので、「黄金の日日」は視聴しておりませんでした。黄金の日日ファンが感じたであろう感動は味わえなかったのが残念です。

 三谷脚本では、たかと信繁は秀吉の目をごまかすための偽装結婚だったという解釈でした。その解釈はちょっと残念。本当の側室だったという設定にしてほしかった。また、秀次の側室と子供全員の処刑を命じた秀吉が、信繁の頼みを聞いて一人だけ例外扱いとするというのも、ちょっとリアリティを欠く設定だったように思えます。

 もっともルソンに渡った隆清院が、九度山蟄居中の信繁のもとに帰ってきて本当に側室になるという可能性もありますね。でないと御田姫は生まれない・・・・・。たかの再登場をひそかに期待します。

★伏見城普請はどうつながる?
 
 真田昌幸・信幸・信繁の三名が伏見城の普請にかかわっていたことは史実ですが、まさかドラマでここまで大きなスポットが当たるとは思いませんでした。ここまで伏見城築城話を描くということは、それが今後のストーリーの重要な伏線になるということなのでしょうか。つまり、関ケ原の前哨戦となる伏見城籠城戦が描かれる。鳥居元忠の再登場もあるのでしょうか。これまで鳥居元忠は、第一次上田合戦のときにのみ登場し、その後消えてしまっています。ぜひ再登場してほしいものです。

★母上の実家問題
 
 昌幸正室(ドラマ名薫)の出自は、いまだに正確なことは分かっていない謎とされています。私は、母上の出自にかんしては、ドラマの中ではスルーして、いちいち取り上げないのかなと思っていましたが、秀次切腹の回になってネタとして使われてきました。

 江戸時代に編纂された真田家系図に、母上が菊亭晴季の娘と書かれているものがあります。菊亭晴季の娘は関白秀次に嫁ぐくらいの家格です。関白に嫁ぐ家柄である菊亭家の娘が、武田信玄の家臣でしかない武藤喜兵衛のもとに嫁ぐわけがないので、江戸時代にありがちな後世の家系の創作と考えられています。三谷脚本では、母上が生前から出自を偽っていたという笑いのネタにしてしまったわけです。しかし、信繁が秀次に仕えた時点で、どうみてもバレバレですよね~。だって、秀次の正室は、信繁の叔母ということになってしまうのだから。信幸と信繁がずーっと気づかなかったというのは、ちょっとリアリティに問題が・・・・。
 

★信伊はどうして家康のもとを去ったのか?

 真田信伊がさりげなく家康のもとを辞して去って行ってしまいました。史実でも真田信伊は、いちど家康に仕えますが、なぜか同じ武田家臣だった曾祢昌世とともに家康のもとを辞し、蒲生氏郷に仕えます。ところが氏郷の死後、信伊はふたたび家康に仕えるという不思議な動きをしています。
 私は、信伊は家康のもとで何か工作(調略)して、それが家康にバレてあわてて出奔するといった三谷さんらしい創作エピソードを入れてくるのかと期待していたのですが、ここには何のヒネリもありませんでした。ここもちょっと残念・・・。

 また、信伊と行動をともにした曾祢昌世は残念ながら大河に登場しませんでしたが、実際にはじつに重要な人物です。いつか何かの時代劇でスポットを当ててほしい人物だと思います。曾祢昌世は、武藤喜兵衛(真田昌幸)とともに、武田信玄の奥近習として仕え、信玄は、昌幸と昌世の二人を「我が両眼のごとき者」と評したと伝わっています。昌幸と昌世はよき友人でありライバルでもあるといった関係だったのでしょう。

 曾祢昌世と真田信伊は二人で家康のもとを去って、蒲生に仕えて会津に移るのですが、これが後世に重要な影響を与えます。というのも、曾祢昌世は蒲生氏郷から命じられて、会津若松城の縄張りを担当するのです。それゆえ、今でも十分に確認できますが、会津若松城の縄張りは武田流の築城術にのっとっています。城の三方向に丸馬出しと三日月堀を配置しているのです。

 その後の城の改修で蒲生時代からはだいぶ形状は変わっていますが、下の会津若松城の航空写真を見ると、いまでも武田流の丸馬出しの特徴がよくわかるでしょう。この曾祢昌世の手による武田流の会津若松城が、のちの関ケ原でも、さらにのちの戊辰戦争でも歴史の舞台として登場するわけです。

 その下の画像は、上田市内にある川中島合戦の前に武田が築いた平城である岡城の縄張り図です。これも三方向に丸馬出しと三日月堀を配置しているので、会津若松城の縄張りと共通性があることがわかるでしょう。この岡城の縄張りは、昌幸が築城した新府城や上田城とも共通性を持ちます。
 真田幸村(信繁)の真田丸も、武田流の丸馬出しの発想から影響を受けているとも言われています。


会津若松城の縄張り
出所)ウィキペディアの若松城より(原資料は国土交通省の国土画像情報)

 
岡城(上田市)の縄張り
 
 


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1 コメント

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御賢察敬服至極 (アルト)
2016-09-01 00:37:35
戦国史の知識と分析に恐れ入ります。
今後も楽しみにして居ります。
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