代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

東郷平八郎の赤松小三郎談

2016年08月20日 | 赤松小三郎
 今年の10月15日に開催される桐野作人氏の講演「薩摩から見た赤松小三郎」に関連した話題です。講演会の案内は以下。
 http://blog.goo.ne.jp/reforestation/e/7e0fe2bab0f742ad2be2f18d76f7fe48


 先日、上田に帰省していた際に、市立図書館で『上田郷友会月報』という明治から続いている雑誌のバックナンバーを漁ってきたところ、東郷平八郎が赤松小三郎について以下のように語っている談話を見つけました。私にとっては初見の記事でした。情報を共有させていただきます。

 明治43年5月号の『上田郷友会月報』に、ペンネーム兎耳庵氏が「東郷大将の赤松先生談」という記事を寄稿している。
 それによれば、東郷平八郎が西郷隆盛について語っている回想談の中で、恩師の赤松小三郎についても触れ、以下のように話していたということである。
 
***引用開始*******

戊辰の戦争が始まる前には私(東郷)どもは遊撃隊として京都に三年ばかり居った、其の頃上田の藩士で赤松小三郎と云ふ人が居ったが、早くからフランス式(ママ)の調練を受けた人で、私どもは相国寺で此の人から毎日午前と午後と訓練を受けたものだ、此の赤松と云ふ人は実に珍しい先見の明がある人であったが、後ちに幕吏に通したとか云ふので殺されてしまったが、眞に惜しひ人物だ、誰が斬ったか一向に分からなかったが、あとで聞くと、薩州のさる名あるサムライが遣ったと云ふ噂であった。
『上田郷友会月報』明治四三年(1910)9月号(13~14頁)

***引用終わり******

 東郷がいつ、どのような場でこう述べたのか詳細が明記されていないのが残念である。しかし、記録者がフランス式とイギリス式を間違えて記録している点などを除けば(東郷がフランスとイギリスを間違えるわけがない)、おおむね事実ではないかと思われる。いろいろな意味で興味深い。

① 訓練の場所は相国寺
 赤松小三郎は、在京都の薩摩兵を英国陸軍式で訓練をほどこした。
 私はかねて、今出川の薩摩邸内(現在の同志社大学)では、薩摩の歩兵・砲兵800人の戦闘訓練をするのに十分な広さはないだろうと疑問に思っていた。この東郷談を読んで疑問が氷解した。薩摩藩邸の隣りは相国寺の境内である。あの広大な境内であれば、800人でも1000人でも余裕をもって訓練することができる。東郷を含め、薩摩兵たちは相国寺境内で小三郎から訓練を受けていたのだ。

② 東郷は慶応3年4月以前にすでに訓練を受けていた
 赤松小三郎が、慶応3年4月に島津久光とともに薩摩の歩兵1~6番隊と砲兵一隊の総勢700名が入京した際、それら700名を英国式で訓練したことは確実である。
 しかしこの東郷談話を読むと、東郷らは在京の遊撃隊として、それ以前から小三郎から教えを受けていたのではないかという印象である。じつは小三郎がいつから薩摩邸で教え始めたのか、正確なことはいまだにわかっていない。しかし、少なくとも700名が入京する4月以前から、在京の薩摩兵力はすでに小三郎から訓練を受けていた様子である。

③ 東郷が暗殺について話していた
 そしてもっとも興味深いのは暗殺についての部分であろう。私は、東郷平八郎は終生、赤松小三郎が薩摩人の手によって暗殺されたという事実を認めなかったと思っていた。しかし、ここではポロリと「薩州のさる名あるサムライが遣ったと云ふ噂」と喋っている。これは私が知る限り、東郷が赤松暗殺の犯人について知るところを語った唯一のものである。


④ 赤松小三郎の葬儀を営んだ40人に東郷も上村も含まれている

 明治39年、善光寺の日露戦争戦没者慰霊祭の後に、東郷平八郎と上村彦之丞が上田を訪問した際には、上村が以下のように回想している。
 「東郷君も我輩も共に(赤松先生の)其教を受けしなり、然るに氏は不幸にして或日伏見よりの帰路五條通りにて暗殺の奇禍に遭ひしかば、当事の弟子は銘々醵金(拠金)して葬儀を営み、墓碑を京都黒谷に建てし・・・」(『上田郷友会月報』明治39年5月号)。

 このとき、上村が赤松小三郎の思い出を語り、東郷は何も喋らず、ときどきうなずきながら、じっと上村の話を聞いていたということである。このとき二人の口からは、暗殺者については何も語られていない。

 赤松小三郎の葬儀には、薩摩の門人40人が参列し、彼ら薩摩の門人たちが、小三郎の棺を運んで金戒光明寺に葬ったと記録されている。この上村の談話からは、葬儀のためにカンパをし、いわば葬儀の実行委員として参加した40人の中に、上村も東郷も含まれていた様子である。
 ちなみに暗殺の実行者である中村半次郎は、葬儀の当日、仲間8人と共に比叡山で猪狩りをしており、葬儀には参列していない。

 かねて一つの議論があった。それは、この薩摩の門人40人は、暗殺が薩摩の手によるものであることをカムフラージュし、偽装するために参加していたのか、それともこの40人は、暗殺が中村半次郎らの手によるものであることも知らず、心からの供養の気持ちで参列していたのか、というものである。

 以上の東郷平八郎と上村彦之丞の談話からうかがわれることは、彼らは、噂として中村半次郎の犯行を知っていたかも知れないが、もとより暗殺計画の存在など知らされておらず、葬儀の実行委員を買って出たのも、心からの気持ちだったということである。



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