先日エントリーした徳島で行われた全国川のシンポジウムの報告の続きです。そこで話し合われた論点には、いくつも興味深いものがありました。その中で、「何故日本の研究者はこんなに御用学者ばかりなのか」という非常に興味深い論点がありました。
シンポジウム初日のパネルディスカッションで、パネラーの一人の野田知佑さん(吉野川川の学校校長)が、吉野川可動堰問題の際、建設省が連れてきた御用学者たちの数々の「ウソ八百」発言を怒りをこめて指摘していました(たとえば「可動堰を建設すれば吉野川の水質は改善される」など)。それを受けて、この問題が話し合われたのです。
今本博健先生(京大名誉教授・淀川水系流域委員会前委員長)は、過去の自分への自戒もこめて次のように述べておりました。(私の記憶で発言を再現していますので間違っていたらごめんなさい)
「大学の教師ってな、教え子をちゃんと就職させなあかんわけです。ダム反対派の教授の教え子なんてレッテルを貼られることになると、それだけで就職に障害が出る可能性がないとは言えません。そのところで、どうしても遠慮が出てしまうのかも知れません」
とくに河川工学なんて分野ですと、学生の多くは国交省であったり、各都道府県の土木部であったり、国交省の天下り先のコンサルや特殊法人であったり、ゼネコンといったところが主な就職先なのでしょう。自分の教え子に「ダム反対派の教授の弟子」というレッテルを貼られて苦労させたくないという配慮が働いてしまうのは、無理もなかったのかも知れません。今本先生が淀川水系の新規ダム建設に原則反対の立場になったのは、定年退官前に淀川水系流域委員会の委員長に就任してからのことだそうです。
それに対して、同じく数少ないダム反対派の河川工学者の一人である大熊孝先生(新潟大学教授)は、次のように述べていました。
「私はすでに1300人近くの学生を送り出してきました。役人になった学生が多勢りますが、私の教え子であるという理由で就職で不利益を受けたという事例は未だかってありません。就職した後、かっての教え子が、『大熊先生、あんな発言ばかりして困るなあ』と言っているということはありますが、就職の段階で差別するということがあるほど、世の中腐ってはいません。研究者の方々は安心して堂々と発言して欲しいと思います」
私が思うに、大学の御用学者は国立大学の工学部と農学部に圧倒的に多いです。理学部はある程度リベラルです。工学部と農学部は、それぞれの学科が特定の業界と密接に結びついている場合が多いので、業界の利害にがんじがらめで自由にモノを言えない雰囲気が多分にあります。
とくに「土建国家」を構成する各業界の利害と結びついている場合には、その弊害は顕著になります。前述の工学部の河川工学もそうですし、私の出身の農学部の林学(森林科学)という業界も多分にそうでした。
こうした特殊な応用系学問分野というのは、卒業生の就職先も中央官庁や県庁、コンサルや土木業界とほぼ限定されてきます。それで仲間内の仲良しクラブが形成され、その中で流通する言説も構造的に決まっていきます。やがて言説が人々の思考回路を束縛するようになります。「この一線をこえて思考してはいけない」というタブーも形成されやすいのです。その「村の掟」を超えた発言をすると、「村八部」の制裁もあり得るわけです。コミュニティー自体が狭いので、まさに「村」という表現が該当いたします。
私の出自の林学なんていう学問分野ですと、最近はさすがにそうではなくなってきましたが、以前は「日本の山々の広葉樹林なんてすべて切り倒し、人工林に置き換えてしまってよいのだ」という雰囲気が多分にありました。「広葉樹林がいいなんて考えるヤツは自然保護団体の回し者だ」というレッテルを貼られる雰囲気もありました。さすがに、それが文章で書かれることはないのですが、場の独特の雰囲気がそうなのです。
林学という学問分野の中にいると、スギ、ヒノキの人工林を「美しい」と褒めなければいけない雰囲気があり、「こんな単調な森なんか、ちっとも美しくないよなー。広葉樹林の方がどうみても美しいよなー」と心の中で思っていても、それを表立って口に出せないような「場の雰囲気」が存在するのです。そういう特定の業界の限られた付き合いを通して自己が形成されていく中で、御用学者は生成するのだと、私は思います。
私は大学で林学科というところに所属した瞬間、「この業界の深みにはまるとヤバイかも」と肌で感じ、なるべくその雰囲気に染まらないように、業界の「常識」で洗脳されないように距離を置いて過ごすようになりました。カルト団体と接触して、「これはヤバイ」と直感的に避けるのと似たような感じです。
さて、工学部と農学部に御用学者がとくに多いのは事実ですが、他の学問分野でも「狭い村社会の仲間内でカルト的になっていく」という問題は生じます。
私がこのブログでさんざん批判している新古典派経済学なんていう分野、業界の規模は大きいですが、全体として非常にカルト的であるという点では同じです。新古典派の人々は御用学者ぞろいです。
大学で新古典派の洗脳教育を受けた場合、もっとも優秀な人は洗脳を打ち破ってそのドグマを批判するようになり、その下の水準の人はそのドグマを基本的に承認しつつ何かを付け加えるという学的貢献をするようになり、さらにその下のレベルの人々は学的貢献もできないので俗説受け売りの教科書や啓蒙書を書いて名を売り政府に取り入って御用学者になる(竹中氏の例)、さらに御用学者にすらなれないその下の水準の人は学内政治に狂奔し、さらにその下の水準の・・・・・・以下省略します。
私のブログでも「専門家」を自称するカルト的な人々から恫喝的なコメントをもらうことがしばしばです。
さて、御用学者の問題を考察していくと、もう一つ、研究予算の問題にも踏み込まねばならないのですが、今忙しいのでまたの機会にいたします。
シンポジウム初日のパネルディスカッションで、パネラーの一人の野田知佑さん(吉野川川の学校校長)が、吉野川可動堰問題の際、建設省が連れてきた御用学者たちの数々の「ウソ八百」発言を怒りをこめて指摘していました(たとえば「可動堰を建設すれば吉野川の水質は改善される」など)。それを受けて、この問題が話し合われたのです。
今本博健先生(京大名誉教授・淀川水系流域委員会前委員長)は、過去の自分への自戒もこめて次のように述べておりました。(私の記憶で発言を再現していますので間違っていたらごめんなさい)
「大学の教師ってな、教え子をちゃんと就職させなあかんわけです。ダム反対派の教授の教え子なんてレッテルを貼られることになると、それだけで就職に障害が出る可能性がないとは言えません。そのところで、どうしても遠慮が出てしまうのかも知れません」
とくに河川工学なんて分野ですと、学生の多くは国交省であったり、各都道府県の土木部であったり、国交省の天下り先のコンサルや特殊法人であったり、ゼネコンといったところが主な就職先なのでしょう。自分の教え子に「ダム反対派の教授の弟子」というレッテルを貼られて苦労させたくないという配慮が働いてしまうのは、無理もなかったのかも知れません。今本先生が淀川水系の新規ダム建設に原則反対の立場になったのは、定年退官前に淀川水系流域委員会の委員長に就任してからのことだそうです。
それに対して、同じく数少ないダム反対派の河川工学者の一人である大熊孝先生(新潟大学教授)は、次のように述べていました。
「私はすでに1300人近くの学生を送り出してきました。役人になった学生が多勢りますが、私の教え子であるという理由で就職で不利益を受けたという事例は未だかってありません。就職した後、かっての教え子が、『大熊先生、あんな発言ばかりして困るなあ』と言っているということはありますが、就職の段階で差別するということがあるほど、世の中腐ってはいません。研究者の方々は安心して堂々と発言して欲しいと思います」
私が思うに、大学の御用学者は国立大学の工学部と農学部に圧倒的に多いです。理学部はある程度リベラルです。工学部と農学部は、それぞれの学科が特定の業界と密接に結びついている場合が多いので、業界の利害にがんじがらめで自由にモノを言えない雰囲気が多分にあります。
とくに「土建国家」を構成する各業界の利害と結びついている場合には、その弊害は顕著になります。前述の工学部の河川工学もそうですし、私の出身の農学部の林学(森林科学)という業界も多分にそうでした。
こうした特殊な応用系学問分野というのは、卒業生の就職先も中央官庁や県庁、コンサルや土木業界とほぼ限定されてきます。それで仲間内の仲良しクラブが形成され、その中で流通する言説も構造的に決まっていきます。やがて言説が人々の思考回路を束縛するようになります。「この一線をこえて思考してはいけない」というタブーも形成されやすいのです。その「村の掟」を超えた発言をすると、「村八部」の制裁もあり得るわけです。コミュニティー自体が狭いので、まさに「村」という表現が該当いたします。
私の出自の林学なんていう学問分野ですと、最近はさすがにそうではなくなってきましたが、以前は「日本の山々の広葉樹林なんてすべて切り倒し、人工林に置き換えてしまってよいのだ」という雰囲気が多分にありました。「広葉樹林がいいなんて考えるヤツは自然保護団体の回し者だ」というレッテルを貼られる雰囲気もありました。さすがに、それが文章で書かれることはないのですが、場の独特の雰囲気がそうなのです。
林学という学問分野の中にいると、スギ、ヒノキの人工林を「美しい」と褒めなければいけない雰囲気があり、「こんな単調な森なんか、ちっとも美しくないよなー。広葉樹林の方がどうみても美しいよなー」と心の中で思っていても、それを表立って口に出せないような「場の雰囲気」が存在するのです。そういう特定の業界の限られた付き合いを通して自己が形成されていく中で、御用学者は生成するのだと、私は思います。
私は大学で林学科というところに所属した瞬間、「この業界の深みにはまるとヤバイかも」と肌で感じ、なるべくその雰囲気に染まらないように、業界の「常識」で洗脳されないように距離を置いて過ごすようになりました。カルト団体と接触して、「これはヤバイ」と直感的に避けるのと似たような感じです。
さて、工学部と農学部に御用学者がとくに多いのは事実ですが、他の学問分野でも「狭い村社会の仲間内でカルト的になっていく」という問題は生じます。
私がこのブログでさんざん批判している新古典派経済学なんていう分野、業界の規模は大きいですが、全体として非常にカルト的であるという点では同じです。新古典派の人々は御用学者ぞろいです。
大学で新古典派の洗脳教育を受けた場合、もっとも優秀な人は洗脳を打ち破ってそのドグマを批判するようになり、その下の水準の人はそのドグマを基本的に承認しつつ何かを付け加えるという学的貢献をするようになり、さらにその下のレベルの人々は学的貢献もできないので俗説受け売りの教科書や啓蒙書を書いて名を売り政府に取り入って御用学者になる(竹中氏の例)、さらに御用学者にすらなれないその下の水準の人は学内政治に狂奔し、さらにその下の水準の・・・・・・以下省略します。
私のブログでも「専門家」を自称するカルト的な人々から恫喝的なコメントをもらうことがしばしばです。
さて、御用学者の問題を考察していくと、もう一つ、研究予算の問題にも踏み込まねばならないのですが、今忙しいのでまたの機会にいたします。
一つの理由は、みんな、ちやほやされると気持ちがいいので、つい、その誘惑に負けるからだと思います。
誘惑に負けない強さを持っている研究者が少なくなったのだと思います。
でも、それって、研究者だけのことではないですよね。目先の誘惑に負けてしまう人が、現代社会には何と多いことか。
御用学者の問題、考えていくと相当に奥が深いですね。
でも研究者って、霞ヶ関にちやほやされるとそんなに嬉しいのでしょうか? 研究時間が削られて、余計な仕事が増えるだけなので、私にはうっとおしいようにしか思えないのですが・・・。
『御用学者の研究』ってなタイトルの本が出版されれば相当に売れそうですね。
この問題、研究者が書くよりも、ジャーナリストの方々が研究して書いてくれると相当に面白い本になりそうです。
PS 川のシンポでのkurajiさんの発表はすばらしかったです。シナリオはあの内容で、NHKかどこかに売り込んでドキュメンタリー番組にしたら傑作になると思います。