大河ドラマ「真田丸」の応援キャンペーンに関連して話題を一つ提供します。本来であればこんなローカル話はブログに書くことでもないのですが、来年の大河ドラマと絡むと世間の関心も高い問題になってきます。現在の上田城の基本構造は真田昌幸が造ったものか、真田家に代わって上田城主になった仙石忠政(仙石秀久の息子)が新たに造ったものか、という問題です。
これは歴史ドラマで真田家を扱う際に発生するセンシティブな問題の一つ。
現在の上田城の映像を、真田時代の上田城であるかのようにしてドラマでそのまま使用してよいのか、それとも真田を描くのに現在の上田城をロケで使っては時代考証的に誤りなのかという問題になるからだ。
真田の上田城と仙石の上田城
真田時代の上田城は、関ケ原の合戦の後、徳川軍によって破却されたことは事実である。しかし、建物は破却され、堀も埋め立てられたのは確かであるが、石垣や縄張りはそのままなのか、それとも縄張りも仙石忠政によって変えられているのか否かとなると未解決の問題である。
私の結論を言えば、<たしかに上田城は第二次上田合戦ののち、建物は破却され、堀も埋められたが、仙石忠政は堀を元のように掘り返し、櫓と門を再建したのであって、縄張りも石垣も基本構造はほぼ真田時代のまま>というものである。
上田市立博物館には、仙石忠政が、上田城の再建計画を指示した「築城覚書」の史料があるが、これを見ても真田時代の曲がった堀を真っ直ぐになるようになど手直しの指示はしているものの、基本的に真田時代の堀を掘り返していることが伺われる。よって縄張りは、ほぼ真田時代のままと思われるのだ。以下参照。
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/hakubutsukan/story/sengoku/cont_sengoku/doc_sengoku/052.html
真田時代にはおそらく天守閣もあり、今の上田城とはくらべものにならない豪華な建築群も存在したはずである。根拠は本丸の西北隅などで発掘された金箔瓦や金箔のシャチホコの存在である。金箔のシャチホコを載せる建物は、天守以外には考えにくい。ゆえに、建物をもっと豪華なものになるようCG処理などすれば、石垣などはそのまま大河ドラマに使って不都合はないと考える。
上田城にある「真田石」の説明板に、「上田城の石垣は仙石忠政が造ったもの」とある(写真2)。この記述の方が誤っていると私は考える。真田信之に代わって上田城主となった仙石忠政が、石垣を積み直したり、補強したり、配置を変えたりなどアレンジした部分はあっただろうが、上田城の石垣そのものは真田時代に太郎山から切り出されて積まれたものであると考える。よって真田石も、真田時代から存在したはずであろう。
写真1 現在の上田城北櫓の石垣にある真田石
写真2 真田石の説明版
なぜそんなことを断定できるのかといえば、地元の人間だからこそ知っているというローカル情報として、現在の上田城の石垣がどこから切り出されたのか、その場所を特定できるし、それが切り出されたのは真田時代であって、仙石氏の時代ではないと確信を持てるからだ。
上田城の採石場
写真3 上田城の石垣の採石場の跡に建つ虚空蔵堂 (太郎山の緑ヶ丘登山コースの入り口付近にある)
写真4 虚空蔵堂の裏手にある採石場に残る「矢穴」。この矢穴は真田時代の上田築城時に切り出した跡と思われる
写真3は、上田城の石垣を採石して岩盤が切り出された跡に建てられた虚空蔵堂というお堂である。写真4はその虚空蔵堂の裏手の岩盤に今も残る採石跡の「矢穴」である。上田城の石垣と同じ緑色凝灰岩であり、ここから切り出された石が上田城に使われている。
写真5 牛伏城(牛首城)
左手の奥の山が太郎山。写真の左下に虚空蔵堂があり、右手の小山のピークに牛伏城
写真3の虚空蔵堂は写真5の小山の左下辺りの森の中に位置する。そこから尾根づたいに上田城の石垣の採石跡が広がる。この小山は、その奥にある太郎山から連なる一つの尾根のピークであり、このピークに牛伏城という山城がある。上田城の採石場は、虚空蔵堂の裏と、写真右上の牛伏城の本郭の下付近に広がっている。
この山は、私が小学生の頃よりの遊び場であった。写真4の矢穴の残る岩壁で、幼少の頃から、崖をよじ登って遊んでいたものだった。
矢島城と牛伏城
牛伏城は、この虚空蔵堂周辺の「上平(うわだいら)」という村の人々がつくった「村の城」だったと思われる。牛伏城はいざというときに村の衆が籠城する「詰めの山城」である。
写真6 矢島城の本丸跡の稲荷神社
写真7 矢島城本丸の土塁
上平村のリーダーであったのは土豪の矢島氏であった。写真6、7にある矢島城は、虚空蔵堂の近くにあり、矢島氏の平時の居館である。写真6は、矢島城の本丸跡に建立された稲荷神社。稲荷神社の裏の土手が、矢島城の本丸を守る土塁である。写真7は本丸裏の土塁を横から見たものである。土塁の形状がよく分かるであろう。牛伏城は矢島城の詰めの城だったと思われる。
上田築城時、矢島氏以下の上平村の人々は、真田昌幸の指示によって、村ごと上田城の惣構えの北西(現在の鎌原と西脇)に集団移住している。私の先祖も上平村の住人であり、上田築城に際して上平村から上田城下に移住した。爾来400年間、我が家は元来の居住地である上平と、真田昌幸から割り振られた上田城下の二か所に土地を所有してきた。
上田城はもともと「対上杉景勝」の城として、徳川家康の支援を受けて築城されたものである。上田城惣構えの北西隅というのは、対上杉戦を想定した場合、上杉軍の攻撃の矢面になる場所に位置し、上田城の防衛機能ももっとも厚くなっている場所である。私の先祖は、その対上杉の矢面に当たる場所に移住したわけである。
矢島氏以下の上平村の人々は、上田城下に屋敷地を割り振られて移住するに伴い、その見返りとして築城工事の分担も請け負ったはずである。担当は石垣用の石の採石であった。村の中に加工しやすい良質な緑色凝灰岩があったからであろう。矢島氏としては、自らが採石に従事するのでなければ、牛伏城の一角を切り崩すことになる採石は許可できなかったであろう。矢島氏は、真田氏に仕えるに際して、牛伏城付近の一帯を上田築城のための採石場として提供するという契約をしたのであろう。
真田氏と矢島氏
矢島氏は、村上義清が上田を支配していた時代には村上方として武田軍と戦ったが、その後、武田→真田と主を変えたと思われる。もともと村上方であったという経歴は、来年の大河ドラマに主要人物として登場する高梨や出浦や室賀なども同様である。高梨氏や出浦氏らと同様、矢島氏も、もともとは真田と同格の土豪である。
西暦1400年に、信濃守護小笠原氏の支配に対して、信濃国人領主層が団結して反乱を起こした大塔合戦では、実田(真田)氏と並んで、矢島氏も参戦していた。
真田昌幸が、天正14(1586)年2月に、矢島城の城主であった矢島主殿助に対して発給した「佐久群芦田の内に於いて70貫文出し置く」という宛行状が現存している。矢島氏が昌幸の有力家臣となっていたことが分かる。
矢島氏への宛行状は興味深い史料である。当時、真田が徳川に勝利した第一次上田合戦の直後であり、真田昌幸は小諸城に籠る徳川軍と対峙していた。
佐久群芦田は、徳川方の依田康国(依田信蕃の息子)の領地であり、真田の領地ではない。徳川方の領地に対して、真田昌幸が宛行状を出しているということは、当時、真田昌幸は、大久保忠世や大久保彦左衛門らが籠城する小諸城を本気で攻めて陥落させるつもりであったことが伺われるのだ。真田昌幸は依田信蕃と深い友情で結ばれていたが、息子の依田康国は徳川軍のいいなりになって上田城攻めにも参加したために、昌幸も依田康国を許せなくなったのだろう。
矢島主殿助は、真田の小諸城攻めに動員されており、小諸城を陥落させて徳川軍を信州から駆逐した暁に、佐久群芦田を与えられると約束されたのであろう。
結局、秀吉が介入して、惣無事令が出され、真田昌幸の小諸城攻めも中止になったため、この宛行状は空手形に終わってしまった。
虚空蔵堂と曾我物語
写真3の虚空蔵堂には興味深いエピソードがあるので付記しておく。鎌倉時代初期の曾我兄弟仇討事件はよく知られている。『曾我物語』に悲劇のヒロインとして登場するのが、曾我兄弟の兄の十郎祐成の愛妾であった大磯の虎御前である。
虎御前は、祐成の死後、その菩提を弔って善光寺参りをし、その帰途に上平に滞在して、祐成の菩提を弔うために祐成寺を建立した。これは『吾妻鏡』等の記述でも裏付けられる。
真田昌幸は、上田築城に際し、祐成寺も城下に移した。現在の呈蓮寺がそれである。しかしこの集落に祐成寺があったことの記憶を留めるために、虎御前が所持していた虚空蔵菩薩を安置して虚空蔵堂が建てられたと伝承されている。ゆえに、真田氏による上田築城の際に、写真3、4の場所で実際に採石されたと思われるのである。
これは歴史ドラマで真田家を扱う際に発生するセンシティブな問題の一つ。
現在の上田城の映像を、真田時代の上田城であるかのようにしてドラマでそのまま使用してよいのか、それとも真田を描くのに現在の上田城をロケで使っては時代考証的に誤りなのかという問題になるからだ。
真田の上田城と仙石の上田城
真田時代の上田城は、関ケ原の合戦の後、徳川軍によって破却されたことは事実である。しかし、建物は破却され、堀も埋め立てられたのは確かであるが、石垣や縄張りはそのままなのか、それとも縄張りも仙石忠政によって変えられているのか否かとなると未解決の問題である。
私の結論を言えば、<たしかに上田城は第二次上田合戦ののち、建物は破却され、堀も埋められたが、仙石忠政は堀を元のように掘り返し、櫓と門を再建したのであって、縄張りも石垣も基本構造はほぼ真田時代のまま>というものである。
上田市立博物館には、仙石忠政が、上田城の再建計画を指示した「築城覚書」の史料があるが、これを見ても真田時代の曲がった堀を真っ直ぐになるようになど手直しの指示はしているものの、基本的に真田時代の堀を掘り返していることが伺われる。よって縄張りは、ほぼ真田時代のままと思われるのだ。以下参照。
http://museum.umic.ueda.nagano.jp/hakubutsukan/story/sengoku/cont_sengoku/doc_sengoku/052.html
真田時代にはおそらく天守閣もあり、今の上田城とはくらべものにならない豪華な建築群も存在したはずである。根拠は本丸の西北隅などで発掘された金箔瓦や金箔のシャチホコの存在である。金箔のシャチホコを載せる建物は、天守以外には考えにくい。ゆえに、建物をもっと豪華なものになるようCG処理などすれば、石垣などはそのまま大河ドラマに使って不都合はないと考える。
上田城にある「真田石」の説明板に、「上田城の石垣は仙石忠政が造ったもの」とある(写真2)。この記述の方が誤っていると私は考える。真田信之に代わって上田城主となった仙石忠政が、石垣を積み直したり、補強したり、配置を変えたりなどアレンジした部分はあっただろうが、上田城の石垣そのものは真田時代に太郎山から切り出されて積まれたものであると考える。よって真田石も、真田時代から存在したはずであろう。
写真1 現在の上田城北櫓の石垣にある真田石
写真2 真田石の説明版
なぜそんなことを断定できるのかといえば、地元の人間だからこそ知っているというローカル情報として、現在の上田城の石垣がどこから切り出されたのか、その場所を特定できるし、それが切り出されたのは真田時代であって、仙石氏の時代ではないと確信を持てるからだ。
上田城の採石場
写真3 上田城の石垣の採石場の跡に建つ虚空蔵堂 (太郎山の緑ヶ丘登山コースの入り口付近にある)
写真4 虚空蔵堂の裏手にある採石場に残る「矢穴」。この矢穴は真田時代の上田築城時に切り出した跡と思われる
写真3は、上田城の石垣を採石して岩盤が切り出された跡に建てられた虚空蔵堂というお堂である。写真4はその虚空蔵堂の裏手の岩盤に今も残る採石跡の「矢穴」である。上田城の石垣と同じ緑色凝灰岩であり、ここから切り出された石が上田城に使われている。
写真5 牛伏城(牛首城)
左手の奥の山が太郎山。写真の左下に虚空蔵堂があり、右手の小山のピークに牛伏城
写真3の虚空蔵堂は写真5の小山の左下辺りの森の中に位置する。そこから尾根づたいに上田城の石垣の採石跡が広がる。この小山は、その奥にある太郎山から連なる一つの尾根のピークであり、このピークに牛伏城という山城がある。上田城の採石場は、虚空蔵堂の裏と、写真右上の牛伏城の本郭の下付近に広がっている。
この山は、私が小学生の頃よりの遊び場であった。写真4の矢穴の残る岩壁で、幼少の頃から、崖をよじ登って遊んでいたものだった。
矢島城と牛伏城
牛伏城は、この虚空蔵堂周辺の「上平(うわだいら)」という村の人々がつくった「村の城」だったと思われる。牛伏城はいざというときに村の衆が籠城する「詰めの山城」である。
写真6 矢島城の本丸跡の稲荷神社
写真7 矢島城本丸の土塁
上平村のリーダーであったのは土豪の矢島氏であった。写真6、7にある矢島城は、虚空蔵堂の近くにあり、矢島氏の平時の居館である。写真6は、矢島城の本丸跡に建立された稲荷神社。稲荷神社の裏の土手が、矢島城の本丸を守る土塁である。写真7は本丸裏の土塁を横から見たものである。土塁の形状がよく分かるであろう。牛伏城は矢島城の詰めの城だったと思われる。
上田築城時、矢島氏以下の上平村の人々は、真田昌幸の指示によって、村ごと上田城の惣構えの北西(現在の鎌原と西脇)に集団移住している。私の先祖も上平村の住人であり、上田築城に際して上平村から上田城下に移住した。爾来400年間、我が家は元来の居住地である上平と、真田昌幸から割り振られた上田城下の二か所に土地を所有してきた。
上田城はもともと「対上杉景勝」の城として、徳川家康の支援を受けて築城されたものである。上田城惣構えの北西隅というのは、対上杉戦を想定した場合、上杉軍の攻撃の矢面になる場所に位置し、上田城の防衛機能ももっとも厚くなっている場所である。私の先祖は、その対上杉の矢面に当たる場所に移住したわけである。
矢島氏以下の上平村の人々は、上田城下に屋敷地を割り振られて移住するに伴い、その見返りとして築城工事の分担も請け負ったはずである。担当は石垣用の石の採石であった。村の中に加工しやすい良質な緑色凝灰岩があったからであろう。矢島氏としては、自らが採石に従事するのでなければ、牛伏城の一角を切り崩すことになる採石は許可できなかったであろう。矢島氏は、真田氏に仕えるに際して、牛伏城付近の一帯を上田築城のための採石場として提供するという契約をしたのであろう。
真田氏と矢島氏
矢島氏は、村上義清が上田を支配していた時代には村上方として武田軍と戦ったが、その後、武田→真田と主を変えたと思われる。もともと村上方であったという経歴は、来年の大河ドラマに主要人物として登場する高梨や出浦や室賀なども同様である。高梨氏や出浦氏らと同様、矢島氏も、もともとは真田と同格の土豪である。
西暦1400年に、信濃守護小笠原氏の支配に対して、信濃国人領主層が団結して反乱を起こした大塔合戦では、実田(真田)氏と並んで、矢島氏も参戦していた。
真田昌幸が、天正14(1586)年2月に、矢島城の城主であった矢島主殿助に対して発給した「佐久群芦田の内に於いて70貫文出し置く」という宛行状が現存している。矢島氏が昌幸の有力家臣となっていたことが分かる。
矢島氏への宛行状は興味深い史料である。当時、真田が徳川に勝利した第一次上田合戦の直後であり、真田昌幸は小諸城に籠る徳川軍と対峙していた。
佐久群芦田は、徳川方の依田康国(依田信蕃の息子)の領地であり、真田の領地ではない。徳川方の領地に対して、真田昌幸が宛行状を出しているということは、当時、真田昌幸は、大久保忠世や大久保彦左衛門らが籠城する小諸城を本気で攻めて陥落させるつもりであったことが伺われるのだ。真田昌幸は依田信蕃と深い友情で結ばれていたが、息子の依田康国は徳川軍のいいなりになって上田城攻めにも参加したために、昌幸も依田康国を許せなくなったのだろう。
矢島主殿助は、真田の小諸城攻めに動員されており、小諸城を陥落させて徳川軍を信州から駆逐した暁に、佐久群芦田を与えられると約束されたのであろう。
結局、秀吉が介入して、惣無事令が出され、真田昌幸の小諸城攻めも中止になったため、この宛行状は空手形に終わってしまった。
虚空蔵堂と曾我物語
写真3の虚空蔵堂には興味深いエピソードがあるので付記しておく。鎌倉時代初期の曾我兄弟仇討事件はよく知られている。『曾我物語』に悲劇のヒロインとして登場するのが、曾我兄弟の兄の十郎祐成の愛妾であった大磯の虎御前である。
虎御前は、祐成の死後、その菩提を弔って善光寺参りをし、その帰途に上平に滞在して、祐成の菩提を弔うために祐成寺を建立した。これは『吾妻鏡』等の記述でも裏付けられる。
真田昌幸は、上田築城に際し、祐成寺も城下に移した。現在の呈蓮寺がそれである。しかしこの集落に祐成寺があったことの記憶を留めるために、虎御前が所持していた虚空蔵菩薩を安置して虚空蔵堂が建てられたと伝承されている。ゆえに、真田氏による上田築城の際に、写真3、4の場所で実際に採石されたと思われるのである。
真田丸でもこういう小さな土豪達の働きが描かれると良いですね!
大人気の真田家BOTにツイートしていただいて本当に光栄でした。
真田丸では、いままでの大河にはなく、百姓や地侍や小土豪たちの懸命な姿が描かれるのでは・・・・と期待しています。
平山優さんは、「真田家は過大評価どころか過小評価されている」と「歴史街道」(10月号)で書いていました。私も同感です。過小にも過大にも描かず、等身大に描けば、自然とすばらしいドラマになると思います。