明治維新150周年ということで各地でさまざまな催しが開催されています。国会議事堂前の憲政記念館では、昨年から四回に分けて、ペリー来航から帝国議会開設、大正デモクラシーから政党政治の始まりまでを特別企画展として開催しています。目下、明治の帝国議会開設前後の企画展が行われています。
今秋9月から開催予定の第Ⅳ期の企画展で、赤松小三郎が島津久光に提出した建白書「御改正口上書」のレプリカが展示されることに決まったそうです。
ほとんど知られていませんが、日本最初の近代立憲主義的憲法構想である赤松小三郎の建白書。島津久光が大切に保管し続けてくれたおかげで、鹿児島の鶴丸城址の黎明館に現存します。しかし通常は一般公開されていないので、鹿児島で現物を見ることはできません。上田の赤松小三郎記念館にレプリカがありますが、土日しか開館しておらず、現物を見た人は少ないと思います。その、幻の建白書が東京の人目につくところで展示されるのは初めてのことです。
本日付けの「中日新聞(長野版)」に以下の記事が掲載されました。ご参照ください。
「赤松小三郎に光 9月から衆議院憲政記念館で企画展」
http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20180607/CK2018060702000034.html
赤松小三郎を、西郷隆盛や木戸孝允、坂本龍馬ら、主要な人物十五人の中の一人として扱う予定とのことです。
これまで憲政記念館では、日本における憲政思想の源流を
坂本龍馬の船中八策
👇
土佐藩大政奉還建白書
👇
五箇条の御誓文
という流れで解説してきていました。近年、龍馬の「船中八策」が後世につくられたフィクションであり、実際には存在しなかったことも明らかになっており、上記のような従来の歴史学の「定説」は崩れています。
赤松小三郎を日本の憲政史上の重要人物として取り上げる決断をしてくれた憲政記念館の英断に拍手したいと思います。
昨年から行われている憲政記念館の特別企画展は以下のようなものです。
■シリーズのご案内■
シリーズⅠ(ペリー来航から大政奉還まで) 平成29年6月1日(木)~10月30日(月)
シリーズⅡ(戊辰戦争から議会開設まで) 平成29年11月1日(水)~平成30年3月29日(木)
シリーズⅢ(帝国議会開設から明治後期まで) 平成30年4月1日(日)~8月30日(木)
シリーズⅣ(総集編) 平成30年9月~12月
(ここで赤松小三郎を取り上げる予定)
今秋9月から開催予定の第Ⅳ期の企画展で、赤松小三郎が島津久光に提出した建白書「御改正口上書」のレプリカが展示されることに決まったそうです。
ほとんど知られていませんが、日本最初の近代立憲主義的憲法構想である赤松小三郎の建白書。島津久光が大切に保管し続けてくれたおかげで、鹿児島の鶴丸城址の黎明館に現存します。しかし通常は一般公開されていないので、鹿児島で現物を見ることはできません。上田の赤松小三郎記念館にレプリカがありますが、土日しか開館しておらず、現物を見た人は少ないと思います。その、幻の建白書が東京の人目につくところで展示されるのは初めてのことです。
本日付けの「中日新聞(長野版)」に以下の記事が掲載されました。ご参照ください。
「赤松小三郎に光 9月から衆議院憲政記念館で企画展」
http://www.chunichi.co.jp/article/nagano/20180607/CK2018060702000034.html
赤松小三郎を、西郷隆盛や木戸孝允、坂本龍馬ら、主要な人物十五人の中の一人として扱う予定とのことです。
これまで憲政記念館では、日本における憲政思想の源流を
坂本龍馬の船中八策
👇
土佐藩大政奉還建白書
👇
五箇条の御誓文
という流れで解説してきていました。近年、龍馬の「船中八策」が後世につくられたフィクションであり、実際には存在しなかったことも明らかになっており、上記のような従来の歴史学の「定説」は崩れています。
赤松小三郎を日本の憲政史上の重要人物として取り上げる決断をしてくれた憲政記念館の英断に拍手したいと思います。
昨年から行われている憲政記念館の特別企画展は以下のようなものです。
■シリーズのご案内■
シリーズⅠ(ペリー来航から大政奉還まで) 平成29年6月1日(木)~10月30日(月)
シリーズⅡ(戊辰戦争から議会開設まで) 平成29年11月1日(水)~平成30年3月29日(木)
シリーズⅢ(帝国議会開設から明治後期まで) 平成30年4月1日(日)~8月30日(木)
シリーズⅣ(総集編) 平成30年9月~12月
(ここで赤松小三郎を取り上げる予定)
https://mainichi.jp/articles/20180610/k00/00m/020/083000c
毎日新聞
ようやく全国紙でも、不十分ながら問題の本質に近づける記事を書くようになった気がします。トランプ政権の存在が自由貿易の欺瞞を暴きつつあります。
国会法により置かれている衆議院事務局が所管する憲政記念館の特別企画展示「幕末明治からのメッセージ ― 激動の時代を彩った人々 ― 」の最後を飾る総集編において赤松小三郎が取り上げられることにはまことに感慨深いものがあります。
関さんの溢れる熱意とご尽力、とりわけ『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義の夢』(作品社、2016年)の刊行によるご貢献はきわめて大きいのではないでしょうか。この数年間に始まった「赤松小三郎認知」における変化には驚くべきものがあります。
中村草田男1931(昭和6)年の句、「降る雪や明治は遠くなりにけり」からさらに87年の時が経ち、「現代思想」2018年6月臨時増刊号『明治維新の光と影 150年目の問い』のなかの討議鼎談「光と影/光は影 明治維新150年:重層化する歴史像」において、明治大学の先生である須田努氏は次のように言われています:
「文学部史学科の学生はともかく、・・・大多数の学生にとって、明治維新とは、戦国時代や元禄時代と同じように遠い昔の出来事でしかないのでしょう。・・・明治という時代のイメージが、何か特別のものとして彼・彼女たちの意識のなかに存在していないということなのです。(同上号p24)
関さんのご本の巻末資料にある、慶応3年5月の松平伊賀守内 赤松小三郎「数件御改正之儀奉申上候口上書」は、立憲君主下の徹底した議会制民主主義というべき政治制度のデザインの提案を核にしながら、教育、労働就労、金融通貨、軍備、興業技術開発、衣食健康栄養にわたる具体的で詳細な政策提案をおこなっています。
驚くべき思想性の高さと強靱さ、そしてあたたかさをそなえたこの赤松口上書と、まるで神主の祝詞のようでその中味のあまりの稚拙さと露呈した精神の自己満足的貧困さに驚く慶応4年3月の「五箇条の御誓文」とは、比較そのものが成り立ちません。
思いますに、五箇条のご誓文がお手盛りで主張している明治維新の認識を書きかえるために赤松小三郎の存在に注目するのではなく、赤松口上書が持つ比類なく先進的な思想と政策を、いま文字どおり、現代のものとして提起するために、赤松小三郎が光をあびる意義があるのではないでしょうか。
現憲法より先をゆく徹底した議会主義政治制度設計とともに、労働就労政策を提起した部分のサブタイトルに赤松小三郎の政治思想がとりわけ凝縮して示されていると思えます。その冒頭部分をひらかな体にして引用します:
「国中の人民平等にご撫育相い成り、人々その性に準じて充分を尽くさせ候こと」
これは、現憲法第14条1項「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」第27条1項「すべて国民は、勤労の権利を有し、義務を負ふ」という、ある意味素っ気ない、機会平等個人責任的規定よりさらにはるかに進んだものです。
人民すべてが大切にされ、それぞれひとりひとりの個性と可能性とが充分に生かされなければならない、と、現在においてすら驚くべきことを言っているわけですから。
現憲法には、GHQの案にはなく、ワイマール憲法151条1項「経済生活の秩序は、すべての人に、人たるに値する生存を保障することを目指す正義の諸原則に適合するものでなければならない」を下敷きにして森戸辰男氏が発案したものが「帝国議会」憲法改正小委員会での論議によって採用されたという、25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」という、社会権としての生存権規定があります。
児童の貧窮対策を政府が私的な寄附に委ねるという今日、惨めにしてすでに国の努力規定ですらなくなった「健康で文化的な最低限度の生活」と赤松口上書の「人々その性に準じて充分を尽くさせ候こと」における、「最低限度」と「充分を尽くさせ」の対比に政治の姿勢と思想性の相違を見ますと、赤松小三郎の思想こそ現代思想でなければならないと強く思います。
むろん「口上書」の当該政策提案はこれを国力涵養という文脈に置いて述べられているわけですが、その根底には、現在の政府与党にはそれと正反対のものしかない、国の人民ひとりひとりに対する愛情と敬意と信頼があることがひしひしとわかります。
赤松小三郎が自己の政治思想とその形成について書きのこしたものがないこと、また、彼の思想を武家層にだけではなく市井や農村の人びとにひろくつたえる機会を持たなかったことをまことに口惜しく思います。
関さんに倣って言いますと「葬られた夢」であるわけですが、1867年(慶応3年)に全土に蔓延した「ええじゃないか」で終息させられる前の1850年代、1860年代、一揆打ち壊しが各地に吹き荒れた時代に、明治維新以降の「新制反対一揆」に対する呵責ない武力弾圧に動員された武士とは対照的に百姓運動に対して寛容で融和的ですらあったという江戸期の武家層が、赤松口上書を思想的武器として農民市民と共有し、それを当時の大地主と大商人が望んだ「経済強者のみの自由と安全」に対置することができたとすれば、日本は現在とはまったく存在になっていたであろうと想像します。
夏目漱石が文明開化と謳われた明治近代化があからさまに外発的でおろかしいほどに表層的なものであったという問題意識を持っていたことはその作品によくあらわれており、漱石はその旨そのままを講演のなかで力説していたと聞きます。
『この国のかたち』第一巻(文春文庫、1993年)の第2章冒頭において「・・日本の近代・・・ ー とくに官の歴史としては ー その出発点は明治初年の太政官政府にある。それを成立させたのはいうまでもなく明治維新なのだが、革命思想としては貧弱というほかない。・・・フランス革命のように、人類のすべてに通ずる理想のようなものはない。また人間の基本の課題もほとんど含まれていないのである」と、あの司馬遼太郎がきわめて正確に語っていることを、じつにそのとおりだと思います。
明治レジームという粗悪なアベ・ペンキによって現在の日本をすべて塗り替える作業がおこなわれつつあるいま、司馬遼太郎にぜひ読ませたかった赤松口上書を現代によみがえらせた関さんのお仕事がますます輝きを増すと確信します。
返信が滞りがちで申し訳ございません。
>関さんの溢れる熱意とご尽力、とりわけ『赤松小三郎ともう一つの明治維新 テロに葬られた立憲主義の夢』(作品社、2016年)の刊行に
いえ熱心に働きかけてくださってきたのは赤松小三郎研究会のメンバーの方々で、私は何もしておりません。
またひとえに前向きに話を進めてくださった憲政記念館の皆様の賢明な判断によるものと思います。
>赤松小三郎が自己の政治思想とその形成について書きのこしたものがないこと、また、彼の思想を武家層にだけではなく市井や農村の人びとにひろくつたえる機会を持たなかったことをまことに口惜しく思います。
史料不足で、小三郎の思想の形成過程についてはいまだに不明な部分が多いのですが、上田周辺の公儀直轄の村落では、ふつうに庄屋を「入札」により民主的に選んでおり、そうした村の寄合慣行をベースに、当時の江戸庶民の民度を背景に国政レベルでも民主的な議会運営が可能であると判断するに至ったのではないかと考えています。
「入札」という言葉は和語であり、翻訳概念ではないため、議会政治のモデルとして小三郎の念頭にあったのは、村落の寄合だったのではないかと・・・・。
つまり小三郎が農村に伝えるというよりも、小三郎が農村から学んでいたのではないかと思われるのです。
もっともこの仮説は検証困難で、なかなか私の手には負えずにおります。
一か所誤植と思われるところを見つけました。
私が持っているのは3刷りです。これまでに誰も気づかないということもないと思いますので、余計なことかもしれませんが、大事なところだと思うので、ご報告します。
196頁の後ろから3行目、「男子」とあるのは「男女」ではないでしょうか。
この事情を、3刷り以降のあとがきに「補論」として加筆してあります。
じつは赤松小三郎が松平春嶽に提出した口上書では「国中之男女」と書かれているのですが、島津久光に提出した口上書では「国中之男子」と書き換えられていたのです。
もしかしたら、小三郎も薩摩の男尊女卑文化に忖度して、「男女」を「男子」と書き換えてしまったのかもしれません。
巻末では島津版から引用ですので「男子」が正しいことになります。本文では、松平春嶽版も島津久光版もともに「男女」であると勘違いしていて、「男女」をベースに論を進めていました。本文で春嶽版と久光版で変わっていることを言及せねばなりませんでしたが、執筆当時、そこが変わっていることに気づきませんでした。私のミスです。
というわけで、訂正の「補論」を書いてありますので、ご参照お願いいたします。
あとがきの補論を確認せずに書き込んでしまい、申し訳ありませんでした。
確かに男子を男女と誤って転記する可能性はあまり高くはなさそうです。
福井と言えば共働き日本一、鹿児島は男尊女卑、とは言っても実際にはそんな簡単な話ではなくて内実はいろいろあるようですし、幕末のころだとまた随分違ったりはするんでしょうけど、そうした地域の事情に合わせた可能性もあるのかな、などと想像してしまいます。