代替案のための弁証法的空間  Dialectical Space for Alternatives

批判するだけでは未来は見えてこない。代替案を提示し、討論と実践を通して未来社会のあるべき姿を探りたい。

横浜開港と中居屋重兵衛と東宮遺跡と八ッ場ダム

2013年03月29日 | 歴史
 本日(2013年3月29日)は、八ッ場ダム住民訴訟の東京高裁控訴審判決である(於:東京高裁101大法廷)。これから傍聴に出かける。絶望して帰ってきて、今晩は何も書く気力もなくなるかも知れない。

日本の「貿易の父」

 一つ前の記事で横浜開港時に生糸貿易の半分を担っていたといわれる豪商・中居重兵衛と、中居屋の最大の取引先であった上田藩の生糸の関係について触れた。

 中居屋重兵衛は上州嬬恋村の出身である。八ッ場ダム建設予定地のすぐ上である。浅間山麓の山村である吾妻の嬬恋村から、近代日本最初の大輸出商人が輩出されたのである。
 その中居屋は、安政6(1859)年11月に、幕府から営業停止命令を受け弾圧された。その前の同年9月に、日米修好通商条約締結にリーダーシップを発揮した老中かつ上田藩主の松平忠固が急死している。忠固の死には暗殺説もある。幕閣の有力者だった忠固の死と、その直後の中居屋弾圧は関係があるのかも知れない。
 日本の「国際貿易の父」といっても過言でない松平忠固と中居屋重兵衛であるが、二人とも相次いで失脚、そして不審死を迎えている。これらの真相は明らかにされねばならにと思う。

 一つ前の記事で紹介した西川武臣氏の研究によれば、中居屋の番頭も上田藩出身の重右衛門であった。
 なぜ中居屋と上田藩がつながっていたのかに関してであるが、上田藩の隣が嬬恋村でさらにその先が長野原(八ッ場ダム建設予定地)になる。もともと上州吾妻地方は、真田家と同族の海野一族が移り住んでいた地で、戦国時代は真田家が統治していた。文化的につながっているのである。鎌原氏のような吾妻地方の豪族は、真田昌幸の家臣になって信州に移り住んでいる。
 八ッ場ダム建設予定地は、真田昌幸が一時本拠としていた岩櫃城のすぐ脇である。その歴史的景観は台無しにされる。八ッ場ダムができれば、真田幸隆・昌幸・幸村も、中居屋重兵衛もどれだけ悲しむだろうか。
 
ダムで沈む日本のポンペイ

 八ッ場の地には、真田時代の城郭も含め、縄文から江戸時代までを含む複合遺跡群が存在する。その中でもいまとりわけ注目を集めているのが天明の浅間山大噴火で、江戸期の集落が当時の生活の香そのままで埋もれた東宮遺跡の存在である。「日本のポンペイ」とまで呼ぶ声が出ている。  
 
 東宮遺跡を発掘した考古学者たちを驚かせているのが、養蚕で栄えた江戸時代の山村の生活水準の高さであった。そう、後に、豪商・中居重兵衛を生み出すことにもなる、養蚕で栄えた山村の高度な文化と生活水準が、タイムカプセルのように埋もれているのである。
 八ッ場ダムができれば、日本の近代化の元となった養蚕集落の遺構が消滅する。これらの貴重な遺跡と自然を失って得られる効果など何もないにも関わらずである。

 作家の森まゆみさんらが「日本のポンペイを守れ」と350人の文化人と学者の署名を集めて国交相に提出したが、残念ながらほとんどニュースにもならなかった。マスコミは、八ッ場建設を規定路線として、東宮遺跡の重大さなどもほとんど報道していない。不都合な事実は無視するのだ。

 もちろん良心的な記者もいる。下記は、『北日本新聞』に載った森まゆみさんのインタビューである。

http://webun.jp/news/E200/knpnews/20130320/77110

 森さんは、「日本のポンペイと呼んでいい貴重な遺跡を湖底に沈めていいのでしょうか」「大事なものは残し、不要なものはつくらないで、が主張。将来は縄文から江戸までの生活が想像できるフィールドミュージアムにしてほしい」

 言いたくないが、歴史をここまで踏みにじる国は、滅びるだろう。

 


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